見出し画像

ひとりの時間

仲のいい友達と遊んだあとの電車の中、
大切な恋人とのデートがおわった帰り道、
人はなぜか、「寂しい」という気持ちを抱く。

いままで散々楽しい時間を過ごしたはずなのに、
その楽しさをいつまでも心に留めておけるほど、
人間は上手に作られていないらしい。

でも僕は、この「寂しさ」が好きだ。
もっというと、「人と会った後の寂しさ」が好きだ。
きっと人間の中では希少種だと思う。ある意味変態なのかもしれない。
でもどこかで、「うん、わかる。」と思ってくれる人もいると信じて、
きょうは、ひとりの時間について、考えてみる。

人と会う、豊かさ。

僕が思う豊かさは、お金じゃない。
僕が思う豊かさは、人と会えること。だと考えている。

ごはんに行くこと。
そこで、馬鹿みたいにふざけてみること。
たまには真面目な話をしてみること。
そこで心から誰かの思いに共感すること。
そしてときには美しいものを見て言葉を失い、
やるせない思いに駆られて、泣いたりすること。

究極のインドア派な僕にとっては、
すべてが人と会うがために外に出てこそできる体験であって、
この豊かな体験をするために、
遊ぶ場所やら、飲食店やらにお金を払っている。

だから、稼ぐことが目的なのではなくて、
人と会いたくて、そのためにお金を稼いだり払ったりしている。

自分がやっている家庭教師のお仕事もそう。
お金がもらえなくなったらそれはもちろん働けないけれど、
だからといって、お金がもらえるから勉強を教えているわけじゃない。
生徒とのやりとりの中で、「まじか」とびっくりする体験があるからこそ、
その体験をさせてもらうために僕はわざわざ子どもに会いに行って勉強を教えに行っているような毎日だ。

そう考えると、いま関わっている子どもたちは、図らずもたくさんのびっくり箱を僕に用意してくれる、素敵な存在だと思う。

話を戻すと、僕は、豊かさのために人と会って、働いて、お金を稼いだり払ったりしている。

人と会わない、豊かさ。

そして、人と会うことと同じくらい、僕が大切にしているのは、
ひとりの時間をつくることである。

矛盾するようで、理は通っている。
たくさんの人と会うと、自分の心は刺激を受け、満たされる。

「でも、そうした豊かな経験の先に、自分は何を学んだのだろうか?」
僕はいつも、そうした不安感を抱える。

経験豊富な人の話をあんなに聞かせてもらったのに、
久しぶりに心から感動できる映画に出会えたのに、
たくさん笑って幸せな時間を過ごしたのに、
その経験は自分のものにできたのか、あるいはただ目の前を通り過ぎて行っただけの光景になってしまうのか、

確かめたくなって、僕はひとりになる。

つまり、人と会う豊かさをより深く味わい、反芻し、それが自分の経験に変わるまで、そのためだけに外界のすべての刺激を切り離してひとりでじっくりと振り返る時間がある。

「きょう僕は何を学んだのかな?」
「あの人の言葉は自分がもつ価値観にとってどんな意味を持つのかな?」
「今度はどんな映像作品を作ってみようかな?」

矛盾する作業の繰り返し

常に人間に興味があるのに、満足すると「ぷいっ」っと人里離れた一人の世界に籠ってしまう。

とても自閉的な性格に、たいてい周囲はどうも理解が追い付かない。
神経的に過敏で、人と長く時間を共有できない体質も相まって、
相手には「私の何かがいけなくてきっと嫌われたのか」とすら思わせてしまうこともあるらしい。

ただ、これは僕にとって必要な作業で、
教師として、あるいは表現者として、またはただの人間として、
次の葦澤智史に生まれ変わるために欠かせない時間だから、
文句を言われようが僕は遠慮なくひとりにならせていただく。

人と会いたいときに会って、
刺激までいただいて、そのうえひとりになってまで、
僕はこの贅沢な環境の中で、豊かな内面を手にいれてまた、
思いついたものを心の中から取り出して、
表現して、世界と接点を持ちたい。

ただ人と一緒にいるだけでも足りない、
言葉で語りつくせるものでも足りない、
ずっとひとりで考えているだけでも導けない、

漠然と、そのくせ至って確かな答えを、
そのときそのときに見つけていきたいと思う。
これからもそう生きていくのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?