そうだ、釣り行こう

2021年8月12日 くもり

私はパチンコ屋のホールで立ち尽くしていた。
ちょうど財布の中の一万円札が無くなったところだったが、散財に放心していた訳ではない。むしろ、深く思案していた。

それは今年の夏をこのまま終わらせていいのか、という自問であった。

夏の手応えとでも言うのだろうか、夏という季節が醸し出すあの高揚感を味わえないまま、もう数年が過ぎていた。
子どもの頃に見た青い空や鮮烈な太陽、虫や鳥の鳴き声のする野畑を踊るように走り抜けた夏の日々はもう別の世界の出来事のように感じられる。

今年の夏もこうして終わってしまっていいのか。盆が過ぎれば空気が変わる。鮮度の高い夏の日を過ごせるのは、もしかしたら今日が最後でないのか、そんな気がして再びパチンコを打とうと財布から出した一万円札を引っ込め、私は立ち尽くし考えていたのだ。

●「おい、どうするんだ。今年も夏が終わるぞ。このまま終わっていいのか?」

○「いや、そういう訳にはいかない。このままパチンコ台と向き合って夏が過ぎていくなんて御免だ」

●「じゃあどうする?もう12時を回っているぞ。今から行動しなかったら今日はもう間に合わない。」

○「わかってる。でも何をしたらいい?今日は曇りだし海水浴はできないぞ」

●「釣りなんてどうだ?」

○「釣り?無理だ。やってみたいけど手先が不器用だし、それに釣りのことは何も分からない」

●「そんなの釣具屋にやり方を聞けばいいし、ネットで検索すればいくらでも情報は出てくる。苦手だと及び腰になってないで、さっさと行動しちまった方が良い」

○「そうは言っても釣りなんて中学生の頃に友達とやったきりだ。あの日だって手取り足取り教えてもらって何とか釣りになったんだ。でも今日はひとりだ。不安だ」

●「あの日、冬の早朝の海で、シャコを釣ったのを覚えているか?」

○「ああ、覚えてるよ。浮きが動いたもんで慌ててリールを巻いたら、それがすごい引きで驚いたな。なんとか釣り上げてみたら小さなエビみたいなやつで、もっと大きな魚かと思っていたから残念だったけど、何だか無性に嬉しかった」

●「あの日から、20年間、お前はずっと釣りがしたかったんだよ」

○「それはうすうす分かっていた。でも苦手なことで時間を潰したくない。それに今日は釣り日和とは言い難い天気だ」

●「天気が悪くなったら帰ればいい。20年間も釣りをしたいと思いながら何もしなかった自分を情けなく思わないか?20年も時間があったら苦手なことでも多少は上手くなったろうに。悠長に「いつか」を待ってるうちにいつか死ぬぞ。男ならピンと来たものにさっさと飛びつけ!」

○「・・・わかったよ。わかった。釣りをすればいいんだろ?だったら今からパチンコ台に万札を突っ込んで、当たったお金で釣具を買うのはどうかな?」

●「バカなこと言ってないでさっさと釣具屋へ行こう。下手な事考えてると時間も金も吹っ飛ぶぞ!」

○「わかったよ。確か漁港の近くに釣具屋があったからそこに行くとしよう。ここから10分位だったかな」

●「急ごう。雨が降り始める前に」

私は往々にして何かに挑戦するとき、その挑戦を妨げるような思考が次々と浮かんで来てしまう癖のようなものがある。

「このままパチンコを止めたら一万円失ったままだ」
「雨が降りそうだし今日はやめた方がいいんじゃないか」
「竿も投げる事ができず時間だけ無駄にしたらどうしよう」
「また違う日に釣りのできる友達に教えてもらったほうがいいんじゃないか」

このような事を考えていたが、この類の囁きがどれだけ自分の人生の足を引っ張って来たかという事は、経験則として理解していた。

何かを始めるには勇気が必要だ。
勇気を持って心の声を振りほどき行動に移さなければ、何も始まらない。

私は車のハンドルを握り、道を進み始めた。
心臓がドキドキしているのが分かった。



ほどなく釣具屋に到着した。
店の扉を開けるのが、まるで知らない居酒屋にひとりで入店する時のように緊張した。いや、それ以上か。

扉を開けると店員さんが「いらっしゃいませ」と無表情のまま小さく呟き迎えてくれた。
これが釣りの世界か、そうだよな魚と人間との真剣勝負の世界で笑顔なんか不要だよな、愛想なんか振り撒いてたら魚にも逃げられるって訳か。釣りの世界の住人は魚の口に針を引っ掛けた挙句に首元に刃を突き刺し殺し、魚体を開いたり捌いたりすることを日常にしている人達だ。安易な気持ちでお店に入ってごめんなさい、私もこれからそちら側へ行きます。下手に愛想を振り撒いたり、平謝りするのも止めます。どうか御指南くださいませ、などと思いながら自分でもびっくりするくらいオドオドしながら「すいません。私、海釣りがしたいんですが何も分からなくて、何を買えばいいですか?」と尋ねた。

「何を釣りたいんですか?」

店員さんがそう言った瞬間、頭が真っ白になった。
やばい!魚の名前なんて何も分からない!食べたい魚はオーダーできるけど海辺で何が釣れるかも分からない。あ、アジ?アジは食べたいけど別に釣りたくない。手前味噌だけどアジは捌く時に小骨抜くのが面倒なのを知ってるから釣りたくない。でも他の魚はさっぱり分からない!
美容室みたいに「とりあえずお任せで」も通じないような雰囲気だし、どうしたもんかこれは、と思いながら「特に釣りたい魚は無いんですけど、とりあえず釣り糸足らせれば満足です」とだけ答えた。

店員さんは表情を変えずに「釣りたい魚によって仕掛けが変わってきますからね。どこで釣りするつもりですか?」と返して来た。

完全にノープランだった!海に餌投げるだけならどこだって一緒だろ、と思いながら「とりえあえずこの先にある港の堤防から投げてみたいです」と思い付きで言うと、「それじゃあ、これがいいかな」と初心者用の3000円くらいの竿を出してくれた。

あちゃー!と思った。初心者用の竿はかなり昔に10分くらいで壊してしまった記憶があったので、今回は予算2万円くらいで考えていた、が、「もうちょっと良いやつ勧めてくださいよ」などと意見できる程に予備知識もない体たらくだったので、「ありがとうございます」と素直に受け取り、「ちなみに仕掛けはどんなのがいいですか?」と尋ねる。どこまでも店員さんに従順な姿勢を崩さずに買い物を続けた。

結局、①初心者用のリール付き竿(180cm)、②ちょい投げ用のL型天秤(針付き)、③餌用のアオイソメ50gを購入した。しめて4000円くらいだったと思う。糸の通し方や仕掛けの付け方は店員さんが教えてくれたし、会計を済ませたあと「あ、何か分からなくなったらレシートの電話番号に電話くだい」と言ってくれた。何だよ、無愛想な世界じゃなかったのかよ、ホッコリするじゃんかよ、と思いながら礼を言い店を出た。

空には曇天が垂れ込めていたが、私はほのかな充足感を覚えていた。

やっとスタートラインに立てた。20年間踏み止まっていたけど、やっと一歩踏み出せた。これから新しい世界が広がって、新しい出来事が沢山起こるんだろうな、そんな予感がした。

私は再び車に乗り込み港へと向かった。
橋梁を渡る時に見えた海は、あいにくの天気で濁としていた。
いつもなら残念に思うのに、今日は違う。

これから、あの海で何が起こるのだろうか。

年甲斐もない満面の笑顔のまま、私は国道を進んだ。

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