まだ、ゆっくり振り返れるうちに。


源苹 ༀ
@GenpeiAum
"他者のように見える外界"
"過去のように見えるモノ"

人間の思考回路にしばられてる自分がいやだ。

人間であるからには、こういうプロセスで生きざるを得ない。それがいやだ。

人間の目や耳での感受機能→それを瞬時に翻訳する脳回路→そこから気持ちを動かす感情回路→そして分析したり判断したり理屈をつけて慰めたり・・・と。インスピレーションやサイキックじゃない、肉の人間の思考。

ねえ。人間やっててつらいのは、政府や国連やマスコミが嘘いうからじゃなくて。上の投稿みたいな、人間の「業」、「バグ」がつらいんだよ俺。 泣


そうなんだよ、"外界を他者のように見て"愛別離苦で嘆いたりする。けどね。ほんとうは自他一体の境地があるはずなんだ。

それにさ、"過去のように見えるモノ"で戻らない時間を求不得苦だと嘆いたり。ほんとうは「いまここ」の境地があり時空間融合の境地があるはずなのにね。だけどそれができない。忘れちゃって。流しちゃって。できてない。

だから、あるべき境地に戻りたいんだ。
その境地はなんだって?

たとえばその境地では、声を食べて生きられるんだ。祝詞では神様に「聞し召せと申す」わけだけど神は聴くことで召し上がるわけだ。言葉はエネルギー伝播媒体でもある。意味だけではないんだ。だから思いやりや励ましの気持ちはエネルギーが乗っかり人を勇気づける。そのチカラこそがあるべき境地を物語っている。

ああ、そうだ、励ましの気持ちはエネルギーが乗っかり人を勇気づけると気づいたけれど。でも俺できてなかった。「もっと優しい言葉をかけてあげたらよかった」と。過去をうらめしくおもったり、ふがいなさに恥ずかしくなったりする。

いまからやりなおそうか。言葉をちゃんとつかえる境地を。

さ もういちどはじめよう。
言葉をちゃんとつかえる境地、それって想いや感情をちゃんと見て、振り回されない「コマの軸」みたいな境地。そこがほしい。

でもね、自分の心や、自分の身体すら思い通りにならないから寂しさや哀しさや苦しみが生まれるんだ。それを、五蘊盛苦(ごうんじょうく)というらしい。

これも、人間のバグだよね。

そもそも、いまという時代は、枠で生老病死の四苦を容赦なくつきつけてくるよね。それまで快適便利で生きる楽しさ、...なんてCM通りの人生だった。

でもいま、「老病死」が隣に来てる。俺も61歳、老は髪を白くし、眼を薄くした。病死もそこまで来てる。

だから四苦八苦を題材にして、境地に向かいたい。

人という肉の乗り物は、避けては通れない〈道〉を走る。その道は生老病死、八苦の道。あったものを失い、ひとに去られ、木枯らしに立ちすくむとき、なんとも切なく悲しい運命だと感じる。

そのようなさまよいの心から、宇宙に不動の〈コマの軸〉をみつけたいんだ。

・枠害や枠パスからほんとうに解き放たれるには?
・ムーンショット監視政府からほんとうに解き放たれるには?
・DS支配からほんとうに解き放たれるには?

これだって、宇宙に不動の〈コマの軸〉をみつけなきゃきりがないよ。枠打ちつづける奴を悲嘆するけど、きりのない解脱なき俺たち人類も悲嘆そのものだよ。

枠パスなんかいらねえけど、宇宙には「覚醒パス」っていうのがあるよ。これは肉体を去る魂が高次元の入り口で最適な霊魂のレイヤー(階層)に振り分けられるときのパスなんだ。

おれは肉体があるうちに「覚醒パス」をちゃんとケアしておきたい。悲しみも引き受けて、ただ風の中に立っていたい。

ところでさ、「あちら立てればこちら立たず」って、あるよね。たいがいは二兎を追えない。そもそも人間の焦点は1つしかないから、幸福満足な出来事に焦点を持てば、欠乏枯渇した心境からくる想いには焦点があたらない。大阪を選べば徳島はないし、徳島を選べば大阪はない。

考えたり気づいたりするのはえてして欠乏枯渇から悩み見いだすことが多い。皮肉と言えば皮肉だ。神は意地悪だ。

「自分と同じ考え方、感じ方をする人との出会いは、安らぎと喜びをもたらす恵み。
自分と違う考え方、感じ方をする人との出会いは、学びと成長をもたらす恵み。
無駄な出会いは一つもありません。すべての出会いが恵みです。」

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

なんていうけどさ。別れはつらいね。

話は変わるが、頃枠での四苦八苦はどこのご家庭にもあり、「この欠乏枯渇から悩み何かを見いだせるんだよ」なんて言っても、たぶんみなさんはピンとこないだろう。慰めにもならない言葉は要らないと。

でも、究極、「人間を磨くのは欠乏枯渇という砥石なんじゃないか?」と人生を振り返り、思ったりもする。「人間を磨くのは欠乏枯渇という砥石」といったが、磨ける時間は余裕があるから。混乱が始まれば余裕がなくなり、恐怖やパニックで保身しか働かない。

いま、この機会に欠乏枯渇という砥石をあてられることは素晴らしい。良いこと悪いことすべての出来事に感謝というのは、余裕ある時間がまだ残っているからだ。

しかし問題は「余裕ある時間がもう残っていない」ということなんだ。私がいつも予測するように、2,022年は混乱が深まる。そうなれば、「わが身ふりかえりの余裕」なんて持てないかもしれない。

いまこうして運命が刻まれていく中で、この時に感謝し、境遇に感謝し、内観し砥石でわが心を磨こう。

欠乏枯渇というけどさ、一面を見ればそうかもしれないが、ほかの面では恩恵にあずかっている。俺にとって初夏に越してきて阿南市での出会いや仕事、それはご恩だとおもう。とても恵まれていて欠乏枯渇とは真逆の出来事が織りなされていく。.....無駄な出会いは一つもありません。すべての出会いが恵みです。....だな。


感謝は恩恵をみいだせるからだし、恩恵が感謝を連れてくる。

小さな人間の。

小さな人生の。

小さな気づきを、持っていきたい。

あの「境地」という〈コマの軸〉レイヤーに...。


2021.12.05

アセンション実践俱楽部 見てね

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