SNSは良薬か毒薬か
世界的な視点で過去の文化を俯瞰した場合、SNSが生まれるための素地は、公的な物を除いた本或いは手紙になるだろうと思う。
その不特定多数に向けた任意の文章たちは、他分野の素材たちもすべからくそうであるように、この世に誕生したその瞬間から、速度を欲していた。SNSという伝達手段をひろく授ける場は、その本或いは手紙という文章を、より早く、より確実に読者へと届けるという抜群な有用性を以て、ここまで世界的に繁栄したという根拠があるのだ、と私は考えている。
私は門外漢であることを承知の上で誤解を恐れずに述べるが――この速度を上回るものは今後、そう発明し得ないだろうとさえ思う。当観点だけでいえば、不老の妙薬に勝るとも劣らない、良薬であると断言できる。
さて、ここに本或いは手紙が一紙ずつ、取り敢えずあると仮定しよう。
このままだと、この文章の集合体にどのような意図がふくまれているのか、まずわからない。多くの場合、文章は読者に対して、それが恣意的であるかどうかは一旦別として――その進むべき方向を明示したがる性質が付帯しているはずである。前に往くのか、後ろに退がらせるか、右に走らせたいのか、左に傾くのか、或いは停滞を願っているか将亦、道から外れて崖から落ちることを好しとする恐ろしい指向が潜んでいる可能性すらあるだろう。
であるから、文章の受け手である億万人たちはその一人ひとりが読解者となって、その意図を察知する必要がある。
わかりづらいことを書いたかもしれないが、ただ嬉しいことに――読み手は書き手に対してその意図を精査察知するに用意された時間はほぼ無限であるために、大いなる覆しようのないアドバンテージがある。
また文章とは、古今東西この世に意思の伝達手段として生まれたその日から、真なることを愛し、嘘偽りなく書き手に対して率直な振る舞いをする純良な親子代々つづく家宰のような存在である。どれだけ巧緻なレトリックをもってしても、その本意が真逆に捉えられることは通常有り得ないし、また騙すことを前提としたトリックや看取者を減らすことを目的とした暗号であれば、それらの文章は独特の撚たような嘘くささを纏っているものだから、一見して判別が可能である。
そもそも意図を錯誤させることは出来ても、そうすることによって影響される人間が減ってしまっては本末転倒である。
さて、そこでようやく本題であるが、文章を読むにあたってまず判断しなければならないことは、その文章が不特定多数の読者に読まれることを期待したものであるかを、まず考えなければならない。
例えば、技術書や専門書は、その特定の部門における従事者或いは志望者を想定して書かれている。経済新聞は、経済に興味のある方を対象に書かれている。児童書は、こども向けにかかれていることがほとんどだ。
これはつまり、推奨される対象者が明確であって、発信者も多数に読まれることを期待していない。
ここで問題になるのは、内容如何というよりは「誰が発信しているか」である。昨今、地震がトレンドにあがっているので、地震で例えよう。
地震に関する情報を通達する極めて公的な特定の省庁と、地震にたいへん詳しいと豪語する隣家の親爺――その二者がいたとして、どちらの情報を選択し尊重すべきだろうか。まあ、殆どの方が迷わず前者を選ばれることだろう。親爺と書いたことによる生理的な判断かもしれないが、その本能はあんがい馬鹿にはできない。なぜなら、その判断は「この親爺は責任をとらない」という物事の核心を突いた嫌悪感から発しているからだ。
情報を精査する上で、発信者の責任所在は、たいへん重要である。
それを機会に、情報を深堀りするのである。
すると、情報の意図が次第にみえるようになってくる。
多くの場合、責任の所在が不明瞭な発信者ほど、生理的嫌悪感を刺激するような発信をしている傾向があることに気づくだろう。
彼らの本心は、2つしかない。
「表では呟けない本音を吐露したい」か「目立って注目されたい」のどちらか、或いは両方の可能性もあるだろうか。
SNSは、後者が商売として成り立っているという事実がある以上、もはや真実である必要性はない。事実ではないことを書けば、それは適当ではないと教えてくれる善意(悪意の場合もある)が集まる。目的としている「目立つ」という行為が、いともかんたんに実現する。
SNSは、情報が溢れている。
これはあながちSNSに限った話ではないだろうが、情報に触れるときはその発信者の社会的な責任の所在を確認し、経歴や言動などを踏まえ、本心から啓蒙しようとしているのか、ただ鬱屈を晴らすためか、目立って利益を得たいだけかなど、判断する必要がある。聞き流すだけで特に移入しないのであれば別だが、この情報社会において流動する情報に対して完全に受け身では、よろしくない。たちまち、その勢いと量感に流されてしまうだろう。
自分で選び、考え、行動する。
自立した社会人のために用意されたような言葉だが、SNSを利用する際の訓戒に加えて然るべきだと、私は思う。
でなければ、毒薬をあおることになりかねない。
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