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障害受容はできるのか


 以前、自分の障害受容について記事を書きましたが、今回は文献を引用しながら考えてみようと思います。

 参考文献は以下を使用させていただきました。


 当事者にとっても家族にとっても、障害の受容は、実存的な生老病死の老いや死を受け入れるよりもさらに難しい問題である。自分におきた、家族におきた病や障害を理解するということに取り組むことから始めなければ、受容するか、受容できるか、という終わることのない問答に取り込まれてしまう。障害受容は、当事者、家族、そして縁者や友人、近隣の人たち、さらにはコミュニティを含めた社会一般の人たち、それぞれの立場により異なる。受容するか、受容できるか、という終わることのない表層問答に足元をすくわれることなく、それは生老病死の老いや死のように、いずれだれにもいつかは訪れる実存的な事実として目をそらすことができない課題である。

 障害によっても受容の難易度が異なるというのが個人的な見解です。僕は発達障害ですが、明らかに社会で生きていく上で困り感を感じていたので、わりと自分の中では受容は素直に進んだ感触があります。

 しかし仮に自分に告げられた障害名が、「認知症」「統合失調症」「人格障害」「知的障害」などであったならば、これらの障害を素直に認めるのは難しいだろうなと感じています。

 そしてもう一つ感じたことが、障害受容はそれぞれの立場によって異なるなと言う点です。親も半分諦めのような受容でしたし、友人はそれぞれ異なる反応を示しています。否認する人もいますし、それはそれで仕方がないのかなと思います。僕の姿勢としては、これまで通りの付き合いを諦めざる得ない面もありますし、やはり取り繕って付き合うことにあまり意味がないと感じることもあります。


 当事者に対しては、障害を受容することを勧めることではない。ましてや主体性の重視という名の下に自己決定や自己責任といった重荷を背負わせてはならない。病や障害の有無を問わず、お互いの間に生じている共に暮らす「暮らしづらさ」は、それぞれの立場によって異なる。その「暮らしづらさ」にお互いの尊厳をまもり共に向き合い、お互いがおかれているその状況を理解するための正しい知識を提供すること、そしてその状況の理解の手助けをすること、それが治療・支援にあたる者の役割ではないだろうか。

 これは文句なしに同感です。障害受容の押しつけはあってはならないと思いますし、それぞれの立場によって異なるので、自分の経験則を押しつけるのも無しだと思っています。情報提示を求められたら、正しい知識を提供し、状況の理解を手助けする伴走者という立ち位置がベストだと感じます。

 場合によっては「障害は自分の全てである」といった障害の強固なアイデンティティー化もありえるでしょう。自分がその状態になりかけていた時がありました。

 そして以前も記事で書きましたが、障害受容の過程を通して自分のアイデンティティーが変化することが大いにあると感じます。ですので安易に障害受容を勧めることに抵抗があるというのが自分の見解です。

 自分としては、障害受容を通して生きやすさは得られましたが、人に勧めるという点では、アイデンティティーが変わってしまうレベルなので非常にデリケートな課題に思えます。

 最後に障害受容に対する見解をまとめると、障害受容は障害名や置かれた状況によって変わってくるということ、受容を安易に勧めることには疑問があるということです。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございます。次回も記事でお会いしましょう(^^♪

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