【生い立ち】幼稚園年中 集団行動が苦手
前回は私がフリーランスを選ばざる得なかった現在までの生い立ちに関する長文記事になりましたが、たくさんのスキをいただきまして、誠にありがとうございました。
今日は、幼稚園年中の筆者のエピソードについて書かせていただきます。
兵庫県西宮市(甲子園球場で有名)で育った3歳までを過ごした筆者。
天井を見てケラケラ笑っていたという不思議なエピソードがあった筆者は、1990年(平成2年)2月に一家で、神戸市にある人工島「六甲アイランド」に引っ越しました。
3歳を過ぎても耳を塞いでばかり
前の年の12月に弟が生まれましたが、この時、赤ちゃん返りをしていたようです。聴覚過敏は相変わらずで、掃除機の音がめちゃくちゃ嫌いで、怖がっていました。また、写真を撮ってもらうときにフィルムカメラのシャッター音が怖くて耳を塞いでいました。また、車のエンジンの始動音(セルモーター)の音が嫌いで、耳を塞いでいました(これは現在でもあり)。
筆者が育ったマンションが映った六甲アイランド。2020年2月に撮影
その後、幼稚園は年少から入らず、年中から入れてもらいました。この六甲アイランドという人工島内には別の幼稚園があったのですが、母親によるとここは躾や団体行動が厳しかったようでした。そこで、そこよりものびのびとやれることや、母親がミッションの高校や短大を出ていたことから、神戸市東灘区の住吉にあるカトリック系の幼稚園(現在は、カトリックではありませんが聖書を学んでおります)に入園します。
とにかくよく泣いていた幼稚園時代
年少から入らなかったので、余計に周りにはとけ込みにくかったのかもしれません。のちに小学校高学年で同じクラスにある同級生によると、とにかくよく泣いていたようです。たぶんですが、なくし物も多かったと思います。
運動会のパラバルーンで取り残される
集団行動が苦手だったのはこのときに表れていました。
1991年秋の運動会のエピソードが今でも記憶に残っています。うちの両親がビデオカメラで撮影してくれていましたが、パラバルーン(「パラシュート」と「バルーン」を組み合わせた遊び」の最後の部分の演技のことです。音楽の最後に合わせて、みんなで寝転んで引っ張る部分だったんですが、筆者はどこにいったらいいかわからず、ひとり取り残されていました。先生に誘導されて入れてもらっていました(ちなみに、幼稚園の運動会ではピストルは使われていませんでした)。
取り残されて、「その場で何をしたらいいのか」が判断できなかったようです。このころから、周りに合わせられなかったところがありました。
幼稚園での友だちはほとんどなかったですが、近くに住む子が声を誘っていましたが、一緒に何かするのが非常に苦手な引っ込み思案で、一緒に遊んで楽しめなかったです。
一人が好きで、うち遊びが大半でした。家ではテンションが高く、よくはしゃいでいました。テレビはよく見ていました。あとはプラレール(鉄道の玩具)でよく遊んでいました。独り言や、自分だけでしか通じないような勝手に言葉を作って、独りで言ってたりしていました。