悟りには努力が必要か否か

今降りてきたので、書き留めます。
よく悟りの本で議論されているのが、起こることは起こるから、そのままいる以外何もすることはない、とインドの覚者さんたちがよく言っていて、それはこのままエゴまみれで生きてていいんですね?みたいな解釈の論争があって、でも修行が必要という人もいるけど、どっち?みたいになってるんですが、私が体験して思うのは、確かに運命の流れはある程度あって、そちらに向かっていくにしても、そこに気づきがあって、ブロックの解放があるとき、大きく見たら同じ種類のエネルギーの流れだったとしても、現象としてはかなり変わる、という印象です。

どういうことかというと、多分インドのおじいちゃん覚者も、そのままって言いながら、物すごい気づきがあるから、それだけのことが言えたり、人が集まるのであって、悟り体験しましたー、終わりましたー、ではないと思うんです。
それは一瞥体験であって、それが定着するまでは、やはり思考のパターンに気付かされるし、解放も意識的にしろ無意識的にしろ、してると思いますし、私はそうです。
例えば、お金のブロックは人の根源に近いからこそ、こんだけ悩みになり、愛と対照的なものとして扱われたりするんでしょうし、それでお金が全てじゃない、とわかっているのに、それを苦にした自殺者が絶えないことでもわかると思います。
命のほうが大切って言っても、現実があるじゃない!ってなりますよね。
でも、お金は元々ツールであって、根源ではなかったはずなのに、なぜ人の命より上に見えるのか、それは困った人じゃないとわからないと思うけど、社会がお金中心だから、ですよね。
でも自分が創造主で、全てが愛で、という方式で考えていったときに、そこがイコールにならないから、なんですよね。
そこの違和感を見ていったら、お金🟰私、とすることがなぜそんなに難しいのか。
いつの間にか社会がお金をツールとしてではなく、信仰するようになったからだと思います。

そこの答えは、愛、とは無期限で無償のものなのに、恋とは、条件付きのもの、と見たときに、お金に恋しちゃうからじゃないかな、と。
お金を愛していれば、それはそれで違和感がなく流れていくものなのに、信仰してるのに、結局お金で幸せになれない、と、そっぽを向く、まさに恋して飽きた状態ですよね。
それがお金で買える物質全てだったり、お金持ちに恋する気持ちと全部一緒になってて、それが社会を構成するエネルギーになってしまってるんではないかと。

そこをあるがままに見れば、お金はお金であって、人の代わりになるものではなく、だからと言って、創造の一つではあるのて私の一部である、という一見矛盾した二元性の部分をバランスを取ることが大事なんだと思います。
ツールであると同時に愛である、という位置に戻してあげること。
今私のテーマがお金なので、お金の例ですが、これが、どの問題でも同じことというか、解体して、二元性の元になる部分を理解して、大体どちらの方向にもブロックがあるものなので、それをどちらも解放することでバランスを取る。
例えば、大体の人が、お金持ちにも貧乏にも同時にブロックがあると思うので、そこをニュートラルな状態に戻してあげる、それだけで、マインドの悩み度はあまり変わらなくても、現象化には変わるかな、と思います。
そうやって、物事一個一個をあるがままに見ていくことを、もしかしたらインドの覚者さんたちは、当たり前にしているのかも、ですが、物質社会にまみれた私たちは、やはりパターンに気づいて、外していく作業はしたほうが、楽、なんじゃないかな、と思います。
結局しなくても、起こることは起こる、のが本当で、その時に強制的に気づきが来ますが、現象前に気づいた方が、現象化されたとしても、マインドのブレが少ないんじゃないかな、と。

現象化されたあとに気づくのってやっぱり現実のエネルギーに持ってかれるので、気づくのに物凄くエネルギーを使いますし、しんどいです。

というのを今私は実体験としてやっているので、これで現象が変わるといいなー、と淡く期待しながら、外してみます。





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