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失われたオレンジ

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泣き虫ジュゴン③

 彼が撒き散らした毒の残り香を振り払うように扉を開けると、中には誰もいなかった。幻想図書館の住人とやらは今日はいないらしい。僕は極度の人見知りなので、突然出くわすことがなくてよかったと胸をなでおろした。
 広い部屋だった。豪奢なペルシャ絨毯と感じのよいアンティーク調のテーブル、そしてソファが規律正しく並べられている。白雪さんの部屋ほどではないが本棚が部屋を囲んでおり、裕福な異国の図書館、というよう

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泣き虫ジュゴン②

 かれこれ1時間ほど、僕は掌の上で気持ちよさそうに眠るカッターを見つめ続けている。ペットボトルと違って蓋のないその刃を押し出して手首を切ることなんて赤子の手を捻るみたいに簡単だ。だけど僕はとんでもない臆病者で、そんな恐ろしいことなんて、とてもできやしないのだった。
 安物のカッターと窓から差し込む夕陽の色はオレンジで、つまりは夕陽も安っぽい。それに照らされてオレンジ色に染まっているであろう僕もまた

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泣き虫ジュゴン①

 
 成人式は、色鮮やかだった。元々参加する気もなかったのにも関わらず、当日になって好奇心に駆られて会場を覗いてしまったことを僕は心底後悔した。男性はまだいいのだ。袴やスーツは色味が抑えられていて僕の目にやさしい。けれども、女性の振袖姿は、赤橙黄緑青藍紫……リアルに虹色で目がちかちかとした。
 そして何より、成人を迎えた彼らの笑顔が僕には色鮮やか過ぎたのだった。
 僕という人間が、しかも1人普段着

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僕の罪

 
 芋虫のように地を這い、蝶になれず、一生をただ喰われるだけの花のように過ごす。こうして生きてゆくのだ、と、誰が決めたのだろうか。
 世界は残酷だ。僕みたいな烏には、生きる希望も、それを掴む手も与えてくれやしない。

『歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証』

 僕はその手で彼女の純潔を奪ってしまったけれ

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