泣き虫ジュゴン③

 彼が撒き散らした毒の残り香を振り払うように扉を開けると、中には誰もいなかった。幻想図書館の住人とやらは今日はいないらしい。僕は極度の人見知りなので、突然出くわすことがなくてよかったと胸をなでおろした。
 広い部屋だった。豪奢なペルシャ絨毯と感じのよいアンティーク調のテーブル、そしてソファが規律正しく並べられている。白雪さんの部屋ほどではないが本棚が部屋を囲んでおり、裕福な異国の図書館、というような装いだった。部屋の奥の壁には大きな絵画が飾られており、微笑む1人の女性が描かれている。色遣いが印象的で繊細なタッチのその絵画の中の女性は、どこか白雪さんに似ているような気がした。
 自由に過ごせと言われたものの、僕がすることは絵を描くことくらいしかないし、こんな高級なソファを汚すわけにもいかない。困った困ったと辺りを見渡すと、本棚と本棚の隙間に木でできた古い椅子があることに気づいた。僕はそこに座り、リュックサックの中からスケッチブックと色鉛筆を取り出す。
 エアコンの風にほんの少し揺れるカーテン。小さな窓から見える空はいつの間にか紫色に染まっていてほの暗い。僕の先の見えない人生を端的に表現しているかのようだった。その闇から目を逸らすように、僕は赤を手に取ってスケッチブックにさっと線を引く。何を描こうかだなんてまるで考えちゃいなかった。
 ここは同じ「図書館」でも、先程までひとり佇んでいた学校の図書館とは随分と違う。本特有の匂いはあれど、紙の腐ったような変な匂いはしないし、床は埃を被っていないし、カーテンは揺れている。真っ白なスケッチブックの上に浮かぶ鮮烈な赤に引き寄せられながら、僕はなんとなく、ここが幻想の世界のように思えてきた。嗚呼。だから「幻想図書館」なのか。とんでもない臆病者の僕には、狭くて古びていて埃の被った図書館の方がよっぽどお似合いだ。くつくつとひとり苦笑していると、やっと何かの形を描き始めた赤が急に気持ち悪くなってきて、黒で塗り潰そうと思った。僕はもう絵の具を使わない。油彩から水彩、色鉛筆から鉛筆へと。確実に色を失ってゆく僕の世界を、止めるものはもうないのだ。

「どうも」

 突然後ろから声を掛けられて、黒鉛筆を取ろうとした僕の手が固まった。くるりと首だけで後ろを振り返ると、右眼に白い眼帯を着けた小柄な女の子が立っている。その少女の髪は偶然にも、黒に届かなかった僕の指が触れたオレンジ色をしていた。

「こんばんは」

 にかっ、と歯を見せて彼女は笑う。右耳の2つのピアスがぎらりと光ってまるで猫のよう。そんな特徴的な容姿に、僕は彼女のことをすぐに思い出した。

「円、ひなた……」

 するり、と僕の口から彼女の名前が飛び出す。自由人、変人、宇宙人。そんな噂が学年中で飛び回っている、校内1の有名人。

「私の名前知ってくれてるんだね。それなら、ぜひぜひひなたって呼んで、瀬名 陽さん」

 ぐい、と僕に顔を近づけて彼女は話しかけてくる。僕は彼女の名前を口にしてしまったことを心底後悔した。おまけに僕の名前を知っているだなんて。校内に特に仲の良い生徒のいない彼女の耳にまで僕の噂が入っているのだろうか。だとしたら、やっぱり僕はカッターで首を掻っ切るしかないな。
 動揺を隠しながらいたって冷静に、もう一度黒を取ろうとする。

「駄目!」

 そう言って、彼女は僕の手をぺち、と叩いた。そこでやっと彼女が夏なのにも関わらず、ワイシャツの上から鮮やかな青いパーカーを着ていることに気づく。青いパーカー、真っ赤なリボンと赤チェックの短いスカート、そしてオレンジの髪。彼女のあまりの色の多さに、目がちかちかして頭がくらくらとした。

「黒は全部消しちゃうんだよ。嫌なことも、良いことも。赤ってすっごく良い色じゃない。どうして消そうとするの?」

 悲しそうな表情で、彼女が僕の手から黒を奪い取る。彼女はそれをパーカーのポケットに入れた。あああ、と思った。これで赤を消すことができなくなってしまったじゃないか。

「……君には関係無いだろう」

 ぶっきらぼうに呟く。だいたい、いきなりこんなところに入ってきて、と考えたところで、はた、と気づく。物音はしなかったが、こうやってここに入ってきたということは、彼女もこの幻想図書館の鍵を持っているということだ。つまりは、彼女はここの住人、というわけで。

「んー、そうかもね」

 彼女はけたけたと笑っている。軽い奴。いつもへらへらしていて、簡単に人と馴れ合おうとする、僕とはまったく別種の生き物。こんな奴にサードプレイスなんて必要なのか、と先程覚えたばかりの言葉を使って、僕は彼女を密かに罵倒した。

「これ、烏だよね」

 ぴくりと眉が動く。彼女はスケッチブックを覗き込んで口元を綻ばせていた。無造作に引いた線はかなり適当で、しかもその色は赤。まだまだ未完成なその絵はどう見ても烏には見えない。そう、僕以外には。

「そっか。君には烏がこんな風に見えてるんだね。綺麗……」

 ほお、と息を吐いて、僕の絵を見つめる。彼女の綺麗、という言葉に僕の身体が反応する。怖気が走った。僕の絵が綺麗であるはずがない。だって、あの人が言っていた。僕の絵は、この世で一番醜いものであると。

「私、はるくんの絵、大好きなんだ。色がいっぱいで素敵だね」

 彼女は目を輝かせてlikeだのgoodだのcolorfulだの、お綺麗な言葉を並べてゆく。いつの間にか「はるくん」などと呼ばれていることも不快だった。でもそれ以上に、彼女が僕の他の絵を見たことがあるという事実がわかって、戦慄した。何の絵だろういつの絵だろう。黒く塗りつぶされたカンバス、赤。色んなものがごちゃ混ぜになった。

『アンタの絵が綺麗なはずないじゃない。こんな、人殺しの絵が!』
「どうしたらこんなに綺麗な絵が描けるの? 私には一生描けないよ。はるくんは、やっぱりすごいなぁ」

 彼女は純粋に僕の絵を褒めている。恐ろしい、恐ろしい。何も知らずに僕を見つめる彼女が怖い。君が僕の何を知っているっていうんだ。けれども色素の薄い彼女の瞳を見ていると、何か僕の秘密を、深淵を覗かれている心地がした。真っ黒な白雪さんの瞳と違って、その瞳は何処までも透き通った海のようだった。気持ち悪い。僕の奥底に侵入しないで!

「帰れ」

 気づけばそう呟いていた。ぎゅ、と手を握りしめ、スケッチブックを投げ飛ばす。それは偶然椅子に当たってごおおん、と物凄い音を立てたけれど、気にしちゃいられない。
 彼女はびっくりした表情でこちらを見つめていたが、僕は俯いたままリュックサックを背負う。画材を片付ける時間も惜しい。とにかく今はもう、一刻も早くこの場所から離れたかった。

「待ってよはるくん」

 追いすがる彼女を無視して、僕はリビングを出てゆく。ついてくるな、とこころの中で強く念じていた。けれども運動不足で鈍った僕の足はうまく進まず、廊下のところで僕は彼女に追いつかれてしまった。意外にも足の速い彼女は僕の前にぱっ、と躍り出る。

「………退いて」
「嫌」

 強い口調で返してくる。僕より背の低い彼女を追い抜かすことなんて簡単なはずなのに、身体がうまく動かない。

「はやく」
「や」
「退けよ!」

 ばしん、と僕は彼女を突き飛ばした。彼女はきゃっと小さくと悲鳴を上げて尻餅をつく。オレンジ色の髪から覗く顔は痛みの形に歪んでいて、僕ははっ、として目を逸らした。

「……ごめん」
 
 空に溶けてしまいそうなほど小さな声で呟く。彼女は顔を上げて呆然としており、少しだけ申し訳ないな、と思った。いつまでも僕を見つめ続ける彼女の視線を振り払い、僕はふらふらと玄関へと向かう。彼女はもうついてこなかった。
 外に出ると陽は沈みきっていた。少ない街灯に照らされた道路を見ながら、そういえばここはどこなんだ、と慌てて辺りを見渡すと、見覚えのある公園があることに気づいた。なんだ。幻想図書館はこんな近くにあったのか。
 ここがどこにあるのか聞かずに衝動的に出てきてしまったことを後悔してしまっていたけれど、この公園さえ通り過ぎれば、家までの道も何となくわかるだろう。ぽつりぽつりと歩きながら僕は、画材を置いてきてしまったという後悔に苛まれていた。
 傷つけてしまっただろうか、また僕は。でも、彼女と僕は何の関わりも無い人間だ。生き方も、構成されている素材も全てが違う、他人なのだ。

『あなたの他にも住人がいるの。仲良くして頂戴』
「あんな自由が構成元素な奴と仲良くできるはずないです」

 はぁ、とため息をつく。とりあえず、明日画材を回収しにいくとして、その後彼女とまた会うことがないように、白雪さんに鍵を返そうと思った。

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