僕の罪

 
 芋虫のように地を這い、蝶になれず、一生をただ喰われるだけの花のように過ごす。こうして生きてゆくのだ、と、誰が決めたのだろうか。
 世界は残酷だ。僕みたいな烏には、生きる希望も、それを掴む手も与えてくれやしない。

『歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証』

 僕はその手で彼女の純潔を奪ってしまったけれど。オレンジはいつも残酷だ。残酷で、そして可愛い。殺してしまいたくなるほどに愛しい。
 君は、壊れたものを見たことがあるだろうか。それはオルゴールであったり、建物であったり、積み木だったりするのかもしれない。
 僕は人間の壊れる様子を見た。それは突然で、ぷっつりと糸が切れたように、その人は動かなくなった。突然のことだった。本当に突然のことで、ぼくはただただ、花のようにその姿をぼおっ、と見つめることしかできなかった。でもそれだけだ。
 人はものになる。死んだらものになる。動かない人形になる。そこにあった記憶はいつの間にかねじ曲げられ、僕らは遠くなる。いつの間にか僕らを知っていた人間はみんな人形になって、地面になって、芋虫になる。そして蝶になりきれなかったものは、花になるのだ。
 僕は蝶を探している。誰にも壊されず、人を壊す存在を。僕は蝶に殺されたい。僕の目だって手だって足だって、まるでマネキンのように差し出して、死のう。痛みは愛だ。そうだ、愛なんだ。
 どこにいるんだろう、蝶は。僕の全てを見抜き、破滅させ、溺れさせる存在は。愛という名の痛みと共に、僕らは堕ちてゆこうよ。ねぇ、S。
 甘い声が好きだ。死んでしまいそうになる。君の声はまるでオレンジのように甘い。甘くて酸っぱい。あれ、これじゃあ甘酸っぱいじゃないか。
 夕日を見ると思い出すんだ君のことを。僕の奥まで刻み込ませたキスを、きっとずっと、忘れない。きらきらと輝く宝物だ。マイ・チェホフ。
 金と女、愛ははにかみ、そそくさと歩み寄る。愛とは譲れないもので、決して絶えないもので、幸せではないものだ。あたたかいどころかつめたく澄んだものだ。金と同じで、愛はすぐにやってくる。1人で。
 カッターは、今でも鞄の中にある。いつでも切れるように。切り刻んで切り刻んで、僕という存在が消えてしまうように。
 オレンジ色の髪を探し求めている花の姿は、きっと滑稽だ。もう探し求めているものは無いのに。色の無い僕の花びらは、もう君のオレンジでしか染まることができないんだ。
 スケッチブックについたあの日のオレンジは、黒い絵の具で消しました。トイレに流しました。もう戻ってくることはない、マイ・コメディアン。素敵な絵だった。見る度に吐き気を催すほど、それはそれは扇情的で、汚くて輝く凄絶な作品だった。それは僕の絵だった。
 モノクロの世界に住む僕は、もう死ねない。1人では息ができなくても死ねない。僕は殺されなくてはならない。Sに。
 ねえ、S。あの日君は、何を考えていたのかな。絵を描くこと? 死ぬこと? 殺すこと? それとも……いずれにせよ、君の行為を表す理由にはならないようで、僕はもどかしい。
 烏。こんな烏を愛したからだろうか。君はよく空を見ていたね。そういえば、君は空色が好きだったね。空色じゃなくてごめん。お詫びに死んだって、僕は空色にはなれやしない。死にたい。
 僕の中で夕日=君という印象が固まってしまったのか、僕は1日に1回は君を思い出してしまっている。迷惑な話だ。
 首を絞めて君は幸せになれた? ずっと絞めてほしいって言ってたじゃないか。
『あなたに絞めてもらえればきっと、私は幸せになれる。蝶になってどこまでも飛んでゆけるの』
 嘘っぱちだ。その証拠に、君は戻ってこなかった。君は蝶では無かった。所詮、Sは人間だ。蝶じゃない。
 そしてまたお前も蝶じゃない。ただの醜い花だ。蝶の養分となり、終いには朽ちて堕ちて墜ちて人形になる。人は死んだらものになる。そこらへんの草や虫や動物と一緒。蝶はいない。どこにも。
 眩しい太陽より、斜めから射し込む穏やかな夕日を。僕は望む。それは蝶ではなくて、花でもなくて、芋虫でもない。それはきっと__
 久しぶりに鏡でSを見た。君ではなく、もう1人のSを。Sは言う。お前は烏だと。だとしたらなぜ飛べないんだ。この身を引き裂いて飛びたいのに、飛び出せないんだ。どうか教えてくれ。なあ、S!
 愛が欲しいと言った。だからと言って、壊れたくはなかった。獣を引き出したいとは思わなかった。殺したいとは思わなかった。愛したいだなんて思わなかった。
 愛、と書いたら、あと、書けなくなった。僕は愛を知らない。痛みが愛では無いのだとしたら、愛とはなんだろう。僕はばけものだ。愛で愛するMCを殺そうとした怪物です。僕を罰してくださいどうか。
 僕は上品になりたかった。弱く、いや凡庸になりたかった。平和に生きたくて色を受け入れた。花になりたくなんてなかった。僕は芋虫になりたかったのだ。
 死んでお詫び死んでお詫び。死んでどうやってお辞儀する? 土下座する? 君はばかだ。お詫びもせず死んでいった。
 何が同じだ。何が人間だ。僕は人間だ。人間は皆同じだ。
 人間として生まれた罰でしょうか。僕は烏でした。どうしようもなく卑屈で、卑しく、姦しい生き物でした。僕はばけものでした。
 殺されたい。そんなこんなで、この思考は元の位置に戻るのだ。
 
「さあ、断罪を始めよう」
 

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