泣き虫ジュゴン①

 
 成人式は、色鮮やかだった。元々参加する気もなかったのにも関わらず、当日になって好奇心に駆られて会場を覗いてしまったことを僕は心底後悔した。男性はまだいいのだ。袴やスーツは色味が抑えられていて僕の目にやさしい。けれども、女性の振袖姿は、赤橙黄緑青藍紫……リアルに虹色で目がちかちかとした。
 そして何より、成人を迎えた彼らの笑顔が僕には色鮮やか過ぎたのだった。
 僕という人間が、しかも1人普段着姿でその歓喜の渦の中に無邪気に入り込めるはずもない。会場の入口から踵を返して歩き出そうとしたとき、瀬名くん、と僕を呼び止める声に、僕は立ち止まった。

「瀬名くん、だよね?」

 ボリューム自体は大きいのに、その声は何故か自信なさげに震えている。そこに込められた意思が弱いのだろう。相変わらずだな、と思った。

「久しぶり。えっと、瀬名くんも成人式、来てたんだね」

 いつまで経っても突っ立ったまま何も応えない僕に、彼女が話しかけ続ける。振り返らずとも、僕は彼女が誰なのかわかっていた。目を閉じると、その表情まで手に取るようにわかる。
 朝倉さんはきっと今、微笑んでいるのだろう。

「クラスの人たち、あっちで集まってるから一緒に行こうよ」
「行かないよ」

 どうして、と朝倉さんは言わなかった。彼女自身も知っているからだ。僕の罪を。
 新たに会場に入って来ようとする人の群れの中に、僕のことを知っている奴らがいたらしい。俯いて動かない僕の姿を見て、驚いたような、はたまた不快感を覚えたような、そんな灰色の表情を浮かべた。

 あれ、セナハルじゃん。なんでこんな所に。気持ち悪い。

 ヒソヒソと、濁った色が真っ白な僕のパレットの上をゆっくりと侵食してゆく。嗚呼、うるさい。ここはやっぱり、僕がいるべき場所じゃない。

「僕、行くから」

 待って、と僕を呼び止める声が聞こえたけれど、それを無視して僕は走り出す。
 何処へ行くの。何処へ行こうか。
 太陽はまだ随分と高いところにある。僕はその太陽から唯一僕らを守ってくれる場所へと逃げることにした。
 
 

 
 
 冬だというのに、久しぶりに訪れた公園近くの自動販売機はほとんどが売り切れで、僕は荒い息のまま、缶コーヒーのボタンを押した。
 日頃から爪を短くしているため、蓋が上手く開けられず、僕が自動販売機の前で悪戦苦闘していると、ふいに伸びてきた手が缶コーヒーをひょいっ、と取り上げ、ぷしゅっ、と子気味のいい音を立てさせた。簡単にそれを成し遂げたその人物は、僕に白い歯を見せて笑いかける。

「よう、瀬名。久しぶりだな」
「……臣くん。久しぶりだね」

 日に焼けた肌に端正な顔立ちと、男らしいがっしりとした体つき。久しぶりに見た臣 時雨は、いつまで経ってもガリガリで肉づきの薄い僕とは対照的で。今日はよく知り合いに会う日だと思った。

「臣くんはもう大丈夫なの?」

 公園のベンチに座り、僕は彼に問いかける。

「医者は大丈夫って言ってる。俺も大丈夫だと思ってる。だから大丈夫だ」
「多分大丈夫じゃないよね、それ」

 呆れたような声で呟いて、僕はコーヒーを1口飲む。日頃から馴染みのない苦みが口の中いっぱいに広がり、思わず顔を顰めた僕のを見て、臣くんは吹き出した。

「あの自販機、昔はまあまあ品揃えよかったのに、今じゃ全然だよな。忘れ去られてんのかな」
「普段コーヒー飲まないから最悪だよ。臣くんはよくここに来てるの?」
「いや。ずっとあっちにいたから、この公園に来るようになったのは最近」
「そっか。今はどうしてるの?」
「親戚の家に世話んなってる。ここからはちと遠いけどな」

 なんでもないことのように語っているけれど、いくら親戚とはいえ、知らない人の家で一緒に暮らすのは、きっと僕には想像もできないくらい大変だ。距離があるというのに彼がここに通っているということは、つまりはそういうことなのだろう、と思った。

「お前、今日は成人式から逃げて来たんだろ」
「……どうしてそう思うの」
「NoじゃなくてWhyで返してくる時点で、俺の推測が合ってるって言ってるようなもんだぜ。行くつもりはなかったが、気になって入口まで行ってみて、色酔いでもしたんだろ。お前の行動くらいお見通しだ」

 まさにその通りだったので、僕は押し黙った。
 ふと、ベンチに手をついて、彼は空を見上げた。僕も彼につられ、缶コーヒーを膝に置いて目線を上に向ける。黒い鴉の影が一瞬、太陽の光を遮った。

「もしあんなことが無かったら、俺もあそこに参加してたんだろうな」

 なんてな。
 からりと笑いながら、彼は僕のコーヒーを奪い取る。抗議の目を向けるもどこ吹く風で、彼は僕が一生懸命ちょびちょびと飲んでいたそれを、一瞬で飲み干す。空になったそれを、僕に返す気は無いらしい。意外と真面目な彼は、近くもなく遠くもない微妙な位置にあるゴミ箱を見留めて、立ち上がった。昔から、臣くんはゴミを投げ入れることをしなかった。

「幻想図書館、空き家になっててびっくりしたろ」
「うん、驚いた」
「俺も驚いた」

 彼が手を離すと、空っぽの缶コーヒーはゴミ箱に吸い込まれるように落ちてゆき、最後にはカラン、と音を立てた。缶コーヒーから目を離した彼と僕の視界には、レンガ造りの家がある。缶コーヒーを買う前に見た懐かしいその家は、「売り物件」の看板が出ていた。
 オレンジが一瞬、僕の記憶を過ぎる。猫みたいに耳をくすぐる声、夕陽、蝶。

「俺たちを眩しい太陽から守ってくれる場所は、もう無いんだよ」

 かつて僕らを繋いだ幻想図書館は、いつの間にか姿を消していた。

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