見出し画像

【短編小説】荒野に咲く花(『バラ色の日々』トリビュート小説)

荒野でも咲く、美しい花を見つけた。
それは君と出会った時と同じくらい衝撃的で、すばらしい瞬間だった。

◼あらすじ
ある日、荒野でも咲く花を見つけた少女。
けれどその花は雨季が来ると枯れてしまう。
少女はなんとかしてその花を雨季も咲かせようとする。
雨季にだけ会える少年に見せてあげるために。

THE YELLOW MONKEY『バラ色の日々』
からインスピレーションを受けて書いた短編小説です。

 砂は嫌いだ。
 砂は何も生み出さない。どんなに強く握ったって指の間をさらさらと流れ落ちるだけ。そのくせどこにでも入りこんで、食べ物も肺もダメにしてしまう。
 両親が死んだのも砂に肺をやられたからだ。ふたりとも長患いの末、半年前に母が、あとを追うように父も。灰になったふたりは、私の枕元のツボの中で何ヶ月も雨季が来るのを待っていた。
 風が吹くたびに砂が無限に舞い上がってくる谷は、雨季が来ると川へと姿を変える。谷に水がたまり始める頃は、乾季の間に家族を亡くした遺族で谷はごった返す。乾季は灰が舞い上がるから、死者をとむらえるのは雨季だけと決められているからだ。
 両親とは静かに別れたくて、私は雨季が始まって二週間経ってから谷へ行った。
 数日ぶりに雨が上がり、雲ひとつない夜だった。加えて新月で、いつもより夜が濃い。村を出ると、私が持つ小さなランタン以外に明かりはなくなる。
 川となった谷は静かだった。流れも穏やかで、ささやくような水音が聞こえるだけだった。
 葬送そうそう用の手ぎの小舟を勝手に借りて、川に出る。夜に川に出る人なんかいないから、問題ないだろう。
 小さなランタンの明かりを頼りに、川の真ん中まで舟を進める。
 灰を水面にそっと振りかけるように、ツボを傾けていく。サラサラと水面に浮いた灰は、細い筋になって伸びていく。闇にとけて見えなくなる寸前、別の筋と合流した。
 その筋をたどっていくと、もうひとつ小さな明かりを乗せた小舟があった。明かりに照らされた少年の顔が、こちらを向く。見たことない顔だ。
「ごめんなさい。離れてるから大丈夫だと思ったんだけど」
 声を震わせる少年に、私は首を振る。
「平気。そもそも母さんと父さんが一緒のツボに入ってたから。今さら気にしない」
 少年はホッと息をつくのがわかった。流した灰が途中で他人と混ざることをひどく嫌う人がいる。魂が絡まるとかなんとか言ってたけど、結局最後には全部水の中に沈むんだから、一緒じゃないかと私は思う。向こう岸の村にも同じ風習があるらしい。
「あっちの村の人だよね?」
「そう」
 谷をはさんで向かい合った村は、乾季は深い谷に、雨季は川に隔てられている。一番近い橋まで歩いて二時間かかるので、向こう岸の村の人と会うことはまずない。
 少年は私よりもふたつ年上だった。まいていたのは彼の弟の灰だという。両親はつらいからと来たがらず、彼ひとりで散骨することになったらしい。弟は絵を描くのが上手で、よく吹きだまりの砂に動物や家族の絵を描いてくれたのだと彼は話した。
 私は私の家族の思い出を話した。夜寝る時、母が聞かせてくれたお話のこととか。天気がいい夜には、父と一緒に星を見たこととか。
 そうやって私達はしばらくおしゃべりした。話しているうちに、胸の中にずっと居座っていた寂しさは消えていた。
 数日降り続いた雨が汚れを全部洗い流して、空がきれいに見えた。新月のおかげで星もはっきり見える。
 濃いあい色の空にひと筋、光が伸びた。
「流れ星!」
 私が声を上げると、彼も空を見上げる。けど間に合わなかったらしい。
「待ってれば、また流れるかも」
 オールを私の小舟に引っかけて離れないようにすると、彼はボートに寝転った。私も真似してボートに仰向けに寝てみる。黒い布に砂をまいたみたいに、数え切れないくらいの星が輝いていた。姿は見えないけど、オールでつながったボートの揺れで、彼の気配を感じる。ゆったりとした揺れが気持ちよくて、だんだん眠たくなってくる。
 その時、また空を引っかくみたいに光の筋が流れた。
「あっ!」
 ふたりの声が合わさった。
 

「君は、花みたいにきれいだね」
 別れ際、彼がそんなことを言った。
 砂しかないこの国で、それは最上級のほめ言葉だ。そんなことを他人から言われたのは初めだ。
「花、見たことあるの?」
 照れのあまり、つんけんした言い方になってしまった。暗くてよかった。赤くなった顔を見られなくて済む。
 一般人は一度も花を見ずに死ぬ人がほとんどだ。食べられない植物がつける花なんて、金持ちの道楽でしかない。彼も当然のように「ないよ」と首を振る。だから私は胸をはった。
「あたし、ある」
 一度だけ、金持ちへ献上するために運搬中の花を見たことがある。緑色の茎の上に鳥のくちばしみたいな形のツボミがいくつも載っていた。そのうちひとつだけ、くちばしの先端が開いてラッパみたいな形になっていた。新品のシーツよりも白くて薄い花びらは、ちょっとさわっただけで壊れてしまいそうだった。言葉にならないくらい、きれいだった。
「いいなぁ。僕も一回でいいから見てみたいよ」
 彼が何気なく口にしたその言葉は、ずっと私の中に残り続けることになる。
 

 その少年とは、その後も何度か会った。
 雨が止んだ日の夜、小舟に乗って川に出ると、彼も来ている。ふたりで星を見たり、おしゃべりをしたりしてすごした。家族のこと、仕事のこと、友達のこと。川向こうの村の生活は、こっちの村とほとんど何も変わらなかった。けれどたまに、ほんのちょっとした違いが見つかることがあって、なんだか間違い探しみたいで楽しかった。
 やがて雨が減り、川の水位が下がっていくと、自然と彼と会うこともなくなった。
 気づけば、乾季が始まったばかりだというのに、雨を心待ちにしている自分がいた。
 

 乾季は谷釣りのシーズンだ。
 屈強な漁師達がたくさん村にやってきて、一年で一番、村が活気づく。私の働く宿のかき入れ時だ。
 水が干上がった川は、断崖絶壁の谷へと姿を変える。すると谷底に残ったわずかな水を求めて、荒野中から獣や虫が集まってくる。それをねらって、漁師達は谷の縁から釣り縄を垂らすのだ。
 夜になると私も虫やネズミを釣りに出かける。捕まえたら宿を出発する漁師達にえさとして売るのだ。これが結構いい副収入になる。宿の評判につながるからと、おやじさんもおかみさんも公認してくれている。
 もともと私の両親と親しかったこともあって、宿を経営する夫婦は、両親が死んでからも変わらず私を住みこみで働かせてくれている。三食宿つき、少しだけどちゃんと賃金もくれる。身寄りがなくなったのに、以前とほとんど変わらない生活ができている私は、とても幸運なのだろう。でもいつまでもふたりに甘えているわけにはいかない。いつか自立するためにも、お金をためている。
 その日の夜も、私は餌を釣りに谷へ出かけた。そろそろダチョウの群れがやってくる時期だから、虫を多めに用意しておきたい。
 ところが、いつものポイントでは思うような釣果が上がらない。もしかしたら水場に獣が来ていて、虫が逃げてしまったのかもしれない。ここから谷底は見えないから想像するしかないが。
 仕方なくポイントを変える。ここもダメ、こっちもダメ、と移動を繰り返していたら、いつの間にか釣り場から外れた西側に来ていた。この先はほとんど水場がないし、谷底が深くなるので私の釣り縄では下まで届かなくなる。
「今日はもうダメかな……」
 諦めて帰ろうと思った時、足がバケツに引っかかった。バケツがひっくり返って、せっかく捕まえた虫が逃げていく。慌てて追いかけるけれど、小さなランタンの光が届く範囲はせまくて、あっという間に見失ってしまう。さっと岩の側面を走る虫が見えた。私は虫を追って岩の裏側へ回る。そこは岩が重なった行き止まりになっていた。追い詰めたと思いきや、虫は岩のすき間にするっと逃げこんでしまった。ランタンをかざしてみても、奥は暗くてよく見えない。
「えぇー」
 がっかりして私は座りこんでしまう。私の餌をあてにしてくれている釣り客はいる。少なくても、ゼロよりはましだったのに。自分のドジをうらむ。
 いつまでもここにいたって仕方がない。帰ろう。
 立ち上がった時だ。
 目の前の光景に、私は言葉を失う。
 岩と岩のすき間に小さな部屋のような空間ができていた。その岩壁を葉が埋め尽くしている。暗闇の中でもわかる、鮮やかな緑色をした葉っぱ。そして、ところどころに、夕焼けの空よりもっと赤い花がついていた。
 ランタンをかざしてよく見る。花びらは、中心に向かって渦を巻くみたいに複雑に重なり合っている。その紙みたいに薄い花びらに触れてみる。紙とも布ともまったく違う感触に、私は息をのむ。ひんやり冷たい。これまで触れたどんなものよりも柔らかくて、なめらかな肌触りだった。そんな花が壁一面にいくつもついている。
 私が以前に見かけた花とは、色も形もまったく違う。でもこれは花だとすぐにわかった。こんなきれいなもの、他にあるわけがない。
 すごい。
 こんなの、初めて見た。
 だれかが植えたの?
 花ってこんな砂だらけのところでも生きていけるの?
 興奮で頭がぱんぱんだった。疑問が次々に浮かんでは消えていく。
 見ているだけで胸がいっぱいになる。こんな幸せな気持ちがあったなんて、知らなかった。
 そして、その興奮は、ひとつの衝動へと収束していく。
 あの子にも、この気持ちを教えてあげたい。
 この花を見せてあげたい。
 

 野牛の群れが谷底を通る時期になると、乾季もそろそろ終わりだ。漁師達は次々に村を出ていき、間もなく雨が降り始める。日に日に谷に水がたまっていくのを、私は待ちきれない気持ちで見守っていた。
 やっと雨が上がった夜、川へ行くと彼が来ていた。約束していたわけでもないのに、向こうも同じことを考えてたのが嬉しい。
「また会えたね」
「うん。久しぶり」
 なんだか照れくさくて、顔を合わせるなりふたりで笑ってしまった。
 オールで舟をつなげて、会わなかった期間のことを話す。お互い大きな変化はなかった。こうしておしゃべりしているだけで楽しかったので、正直なところ、話の中身はなんでもよかった。
 だから、彼に言われるまで、私は顔に出ていたことに気づかなかった。
「どうしたの? 浮かない顔して」
 本当なら、花をひとつ摘んできて彼に見せてあげるつもりだった。だけど、雨が降り始めるとたちまち花も葉も色が悪くなり、今ではすっかり茎だけになってしまった。あと少しで会えるというところで散ってしまったのが、余計に悔しかった。
 それなのに、彼は笑っている。
「嬉しいな。会ってない間も僕のこと考えててくれたなんて」
「……花が見られなかったのに嬉しいなんて、バカじゃないの」
 とんちんかんなことを言っている自覚はあった。でも茶化しでもしないと、恥ずかしくて川に飛びこんでしまいそうだった。
 そんな私の胸の内など知らない彼は、殺し文句を重ねてくる。
「今日はこんなきれいな星を君と一緒に見られたから、僕は十分嬉しいよ」
 私は倒れるみたいに横になって、舟べりに隠れた。「ねー、本当にきれい!」と声を上げつつ、熱くなった顔を手で覆って冷やす。手の平も同じくらい熱かったから、あまり意味はなかったけど。
 彼も横になる気配がした。それからしばらく、ふたりはそのまま星を眺めた。少し雲があるけれど、風があるからすぐに流れていく。濃い色の空に無数の星が見える。少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
「星って、どれくらいの数があるんだろう」
「見当もつかないや。数えた人っているのかな?」
 何気なくつぶやいた言葉にも、彼はちゃんと答えてくれる。私にとっては、顔が見えないこの状態の方が話しやすかった。
「今度は満月を見たいね」
 彼が言う。
 私は「うん。見たいね」と返した。
 雨季の間に満月は三回しかない。その日に雨が降らず、雲がなく、空気がきれいに見えるなんてどれだけの確率かわからない。ふたりとも、そんなことはわかっている。ただ、その日を想像して「見たいね」と話すことが楽しかった。
 けれど私は、想像じゃなく、ふたりで同じものを見たかった。
 

 雨季が終わり、また谷釣りのシーズンが来た。
 一日の仕事を終えた私は、おかみさんの部屋に顔を出す。ベッドに横になっていたおかみさんが体を起こそうとしたので、そのままでいいと止める。
「明日の仕込み終わったよ」
「ごめんね、ひとりでやらせて」
「平気、平気。いつもやってることなんだから」
 夜のうちに、宿泊客の朝食と、釣り客に持たせる昼のお弁当の準備をしておく。いつもならおかみさんと一緒に準備するけど、今日はおかみさんの体調があまりよくなかったので、私ひとりでやることになった。おやじさんは、明日、釣り客のガイドで同行するになっているので早めに眠っていた。
「餌釣りに行ってくるね」
「あんまり遅くならないようにね」
「わかってる。おやすみなさい」
 おかみさんの部屋を出た私は、裏口に置いてある釣り竿と縄とバケツを持って外に出る。
 丁度、隣の飯屋の息子と鉢合わせた。ゴミを捨てに出てきたらしい。同い年の幼なじみで、腐れ縁だ。
「なあ。お前、いつも夜にどこ行ってんの?」
「谷だよ。餌釣りに行くの。知ってんでしょ?」
「だけどここんとこ、なんか遅くないか?」
 幼なじみが気づいていたことに驚いた。私が餌釣りから帰ってくるのは、いつも村がすっかり寝静まった真夜中だ。まさかそんな時間まで起きていたとは。
「あんたには関係ないでしょ」
 相手にしない方がいいと思い、私は幼なじみの前をさっさと通りすぎる。
 ところが、幼なじみはニヤニヤ笑いながらついてきた。まずい。幼なじみは噂好きのおしゃべりだ。一番面倒なやつに見つかった。
 私はとっさに、飯屋の壁についた穴を指さす。
「ついてきたら、穴開けたの、本当はあんただっておばさんにバラすからね」
 背後で幼なじみが「うっ」と足を止める。
 ほくそ笑んだ私は、まっすぐ谷へ走った。
 

 今日は入れ食い状態で、一時間足らずで明日の分のネズミと虫を釣り上げることができた。虫は逃げないように小さなツボに入れて、ネズミと一緒にバケツに放りこむ。
 釣果を手に、私は村とは反対方向へ歩いた。
 餌釣りのついでに、毎日花の様子を見に行っていた。雨季の間は茶色い木の枝みたいになっていたけれど、雨が止むと、命を吹き返したみたいに色を取り戻していった。新しい茎と葉が生えてきて、つぼみがついて、数日前、ついに花が咲き始めた。
 なんとか今年は、この花を雨季まで残したい。まずは全滅を避けるため、いくつか抜いて別の場所に植えかえてみた。けれど、すぐにすべて枯れてしまった。今度はまた場所を変えてみるつもりだった。屋根を作って日差しが当たりすぎないようにするのもいいかもしれない。
 私はツボの破片を使ってそっと砂を掘る。表面は砂だけど少し掘っていくと土になる。前回植えかえた時は、想像していた以上に根が深くて、途中で諦めて根をちぎってしまった。だから今日は根を傷つけずに掘り出したい。
「これを隠したかったのか」
 突然、背後から声がした。
 驚いて振り返ると、幼なじみがあのニヤニヤ顔で立っていた。
「これって花だろ? 本物? すっげー、初めて見た!」
 幼なじみは息がかかるくらい近くに花に顔を近づける。
「ついて来ないでって言ったじゃない!」
「だってなんか面白そうだったからさ」
 そう笑う幼なじみは、いたずらが成功した時と同じ顔をしていた。こっちはちっとも面白くない。
 でも、見られてしまったものは仕方がない。尾行されていることに気づかなかった私が悪い。
「絶対だれにも言わないで」
「なんで?」
「だれかがひとり占めしようとするかもしれないでしょ」
「お前は違うのかよ?」
「私はこの花を雨季まで咲かせたいだけ。それができれば、あとはだれかにあげてもいい」
「何それ、意味わかんねー」
 ダメだ、そもそも理解しようという気がない。
「約束して」
 幼なじみは面倒くさそうに「えー」と言うだけだった。
 胸の中でいらいらが満ちてくる。だからこいつに知られるのは嫌だったんだ。
「だれかに話したら、あんたがお店のお金くすねてること、おじさんに言いつけるからね」
「はあ!? ずるいぞ!」
「お金の隠し場所まで全部バラすから」
 頼んでダメならこうするしかない。飯屋のおじさんは優しいけど、怒るとめちゃくちゃ怖い。怒ったおばさんも怖いけど、おじさんに比べればまだ救いがある。さすがの幼なじみも「わかった、言わない」と渋々うなずく。
「壁のことも、他のことも、全部バラしちゃうからね。絶対言わないでよ」
「はいはい、わかったって」
 私が念を押すと、幼なじみは調子よくうなずいた。
 私の不安は増すばかりだった。
 

 彼と出会ってから五年目の乾季。
 村に王都から調査団が来た。村で一番豪華な宿に宿泊していたけど、谷釣りシーズンなので部屋に空きがなくて、護衛の男だけうちの宿に泊まることになった。
 男は冒険家と名乗った。ひと目見た時は漁師かと思ったほど体格がよくて、背も高い。ローブもブーツも、身に着けているものはどれもかなり年季が入っている。逆に言えば、長年使いこんでも壊れない高級品ということだ。物腰にも品がある。かなりの身分のはずだけど、偉ぶったりせず、私達に対しても気さくに話しかけてくれる。気持ちのいい人だ。
 天井の上から話し声が聞こえてくる。また幼なじみが冒険家の部屋に来ているらしい。
 冒険家が来てからというもの、幼なじみはうかれっぱなしだった。冒険家を勝手に師匠と呼んで、べったり懐いている。店を継がずに冒険家になりたいと言っていると、飯屋のおばさんがなげいていた。
「あなたも行ったら? あとやっとくから」
 一日の片づけをしていると、おかみさんがそう言ってくれた。私は首を振る。
「ううん、大丈夫」
 気遣いは嬉しいけど、残りの仕事をおかみさんひとりでやらせるのは悪い。それに宿泊客の部屋に遊びに行くのはどうも気が引ける。だから幼なじみからの誘いも断り続けていた。
 片づけと明日の仕込みが終わった頃、幼なじみが階段を下りてきた。
「あ、やっと終わったのか」
 私は少しムッとなって言い返す。
「だれかさんと違って、私は自分の仕事を途中で投げ出したりしないからね」
 幼なじみは昨夜も皿洗いの途中で逃げてきたらしく、今朝は飯屋のおばさんがカンカンだった。きっと明日の朝もそうだ。
「なあ、お前も来いよ」
「私はいい」
「いいから来いって」
 私の言葉を完全に聞き流した幼なじみは、私の手を強引に引いて階段を上がっていく。
 そのまま冒険家の泊まっている部屋に連れていかれた。客がいる客室に入ることなんか、めったにない。緊張する私を、冒険家は笑顔で迎えてくれた。酒が入って上機嫌な冒険家は、広げていたドライフルーツを私にすすめる。風がない夜だったので、バルコニーにイスを出して座った。幼なじみはなぜかイスを背もたれにして床に座る。
 幼なじみが言った。
「師匠にあの花見せたんだ」
 とっさに言葉が出てこなかった。それから一気に怒りが噴き上がってきた。
「信じられない! だれにも言わないでって言ったじゃない!」
「師匠なら大丈夫だって」
 幼なじみはまったく悪びれる様子がない。それが余計に私の怒りを逆なでた。
 勝手に決めるな!
 どうしていつもそうなんだ!
 感情が抑えられず、乱暴な言葉が勝手に口から飛び出していった。
 幼なじみには、あれから植えかえを手伝わせたりした。知られてしまった以上、仲間に引きこんでしまった方が安全だなんて思っていた自分のうかつさを恨む。
 けれど私の剣幕にも、幼なじみはちっともひるむことない。
「師匠なら、あの花を咲かせ続ける方法、見つけられるかもしれないだろ」
 出かかった罵倒の言葉がのどに引っかかった。確かに、世界中を旅しているこの男なら、何か知っているかもしれない。
 それまでは黙って私達の様子を見ていた冒険家が、穏やかに言う。
「君さえよければ、植物学者の知人に相談してみるが、どうだろう?」
 もちろん学者以外には口外しないし、私が望まないならこのことは一生胸にしまうと冒険家は約束した。冒険家の言葉の誠実さに、幼なじみへの怒りが徐々に薄まっていく。
 実際、冒険家の提案はとても魅力的だった。正直、私にできることはもう全部やりつくしていた。お金と人脈を持っている大人の力を借りられるのは大きい。
 それから冒険家は、花を見た感想を口にした。あの花は本当に貴重。花を咲かせる期間を伸ばそうという発想が素晴らしい。もしその方法がわかればとんでもない偉業だし、もちろん金にもなる。そうなった時には、最初に花を見つけた私に権利があると。
 冒険家が花への感動を語ると、まるで自分がほめられたみたいな感覚になった。
 気分がよくなると、夢もふくらんだ。自分の仕事が持てるかもしれない。そうなればひとり立ちできるし、おやじさんとおかみさんに恩返しもできる。そして何より、彼に花を見せられる。
 冒険家は、王都に戻ったらすぐに植物の専門家に相談すると約束してくれた。
「わかっているとは思うが、この花のことはだれにも話さない方がいい」
 冒険家が神妙な顔で言った。
 花は金になるし、金が絡むと人はなんでもする。花を奪われるだけならまだしも、私達の身にも危険が及ぶかもしれないと冒険家は説明した。
 私はこの花をひとり占めしようとは思っていない。ただ、だれかに話すことでひとり占めしようとする人が現れるのが怖かった。だから、だれにも言わずにいた。自分の判断はやはり正しかったのだ。
 けれど幼なじみは、自分が釘を刺されたことにも気づかず胸をはる。
「ほらな、師匠に見せてよかっただろ」
 私がにらんでも、幼なじみはへらへらと笑っていた。
 

 翌日、冒険家が私にはちをくれた。金持ちはこれに土を入れて、室内で花を育てるのだという。以前見かけたものを参考に、露店で買ったツボをわざわざ加工してくれたらしい。確かに鉢に植えれば室内でも育てられるし、移動も楽だ。次はこれで試してみることにしよう。
 私は冒険家に丁寧にお礼を言った。
「お代はいつか必ず払います」
「気にするな。私が君に贈りたいんだ」
「でも」
「私は、君の夢に相乗りさせてもらえるだけで十分だよ」
 私はきょとんとしてしまう。こんな欲のない金持ちは初めてだった。花の件にしたって、分け前をよこせとも言わない。金持ちはみんなケチだと思っていたのに。これは冒険家特有のものなのだろうか。だとしたら、冒険家って儲からなさそう。
 私がそう言うと、冒険家が苦笑した。
「まあ、冒険家は職業ではないからな」
「じゃあ、なんなんですか?」
 冒険家はちょっとだけ考えて、こう言った。
「生き方、かな」
 

 その夜、私は鉢に花を移して持ち帰った。
 自分の部屋の、よく日に当たる場所に置くことにした。自分の部屋の中に花があるのは、不思議な感じだった。物置小屋みたいな小さくて薄暗い部屋が、いつもより少し明るく感じる。ほんのりといい香りがして、なんだか部屋のグレードが上がったみたいな気さえした。
 けれど、日を追うごとに、葉も花もみるみる色を失っていった。体を洗う時に使った水を少し布に染みこませて部屋まで持っていき、鉢に与えてみたけど、状況は変わらない。結局、一週間も持たずに枯れてしまった。
 それでも、他の植えかえた株よりは少し長持ちしたのだ。今回のことを参考に、また別の方法を考えればいい。それに、もうすぐ冒険家が専門家を連れてきてくれる。そうすればきっと、新しい道が拓けるはずだ。そう前向きに考えた。
 けれど、乾季の終わりが近づいても、冒険家は戻ってこなかった。帰り道で何かあったのだろうか。あるいは、王都には着いたけど、何か事情があって出発が遅れているのかもしれない。そうだ、そうに違いない。
 どのみち、冒険家が戻ってくるまでの間は、私のやることは変わらない。毎日花の様子を見て、新しい場所にいくつか植えかえてみたり、植えかえ以外に環境を変えられる方法を探したり。
 もしかしたら、冒険家が戻ってくるより先に、私が花を長持ちさせる方法を見つけてしまうかもしれない。冒険家には悪いけど、そうなったら最高だ。
 そんなことを考えながら、私はこれまでと変わらぬ毎日をすごした。
 でもふとした瞬間、卑屈な囁きが聞こえることがある。
 本当は、私との約束なんてとっくに忘れたのではないか、と。
 そのたびに、私は全力でその考えを押しのける。
 冒険家はそんな人間じゃない。
 冒険家は、私がやろうとしていることは意味のあることなんだと言ってくれた。不可能じゃないと思わせてくれた。
 もしも冒険家が口だけの人間だったなら、それらの言葉は全部嘘になってしまう。
 だから私は、冒険家を待ち続けた。
 今日は来なかったけど、明日は来るかもしれない。
 そうやって一日、一日、自分を騙し続けた。
 そしてやがて、雨季が来た。
 

 雨季は宿泊客が少ないので、昼間でも自由時間を作れる。
 この日は午前中で雨が上がったので、谷へ行ってみた。谷はすっかり川になっていた。いくつか舟が浮いていて、散骨する人達の姿が見えた。このまま天気が持ってくれれば、今夜、久しぶりに彼に会えるかもしれない。
 せっかく来たので、足を伸ばして花の様子を見に行くことにした。
 今年もやはり、乾季の終わり頃になると、花も葉も落ちて茎だけになってしまった。あちこちに植えかえた株も全滅だ。
 雨季を前に枯れてしまっても、乾季が来ればまた花を咲かせてくれる。とはいえ、本当に花が咲くかどうかは、実際に乾季が来てみないとわからない。だから雨季の間もたまに様子を見に行って、茎の色や硬さを確認していた。ちゃんと次の乾季には元気に咲いてくれますようにと、祈りをこめて。
 それなのに。
 自分の目で見ているものを、心が受け入れられなかった。
 息がうまく吸えない。
 手が震えた。指先がやけに冷たく感じる。
 茎が、ない。
 最初は、場所を間違えたのかと思った。けれど、毎日来ていた場所をどうやって間違えるというのか。
 それに、地面には折れた細い茎や、掘り返された土が落ちていた。岩のすき間には、無理やり引きちぎられた根がぶら下がっている。
 だれかが花を、文字通り根こそぎ持ち去ったあとが、そこには残っていた。
 私はただ、その場に立ち尽くしていた。
 何も考えられない。
 体中から水分が抜けて蒸発していくみたいな感じだ。脳みそも感情も全部カラカラに干からびて、風に吹かれたらぱたっと倒れてしまいそうだった。
 

 急に雨が降りだした。雨季の序盤らしい、叩きつけるような大粒の雨だ。私はとぼとぼと家へ歩いた。走ったってどうせずぶぬれになるのだ。だったら急ぐ必要はない。
 雨で体が冷えたら、少しだけ頭が回るようになってきた。
 だれがあんなことをしたのだろうか。
 売るため? でも今は花は咲いていない。茶色く硬くなった茎を持っていってどうするというのだろう。たきぎにでもする? そんなの、あんまりだ。いや、薪にするなら乾いた茎の部分だけ折ればいい。根ごと抜いていったということは、どこか別の場所で育てるつもりなのかもしれない。ということは、あれが花が咲く植物だと知っていたのだ。そもそも、茎だけで花が咲くかどうか見分けられるものか? 一般人には無理だ。なら、植物の知識がある人間の仕業だろうか?
 植物の知識がある専門家。
 花の場所を知っているのは、私と……
 そこまで考えて、かぶりを振った。
 やめよう。
 これ以上は、考えても悲しいだけだ。今さらどれだけ考えたって、もう意味はないのだから。
 激しい雨に、村の動き止まったみたいになっていた。出発する時は活気いい声を上げていた露店商も、洗濯屋も、みんな建物の中に引っこんでしまったのか、姿が見えない。
 ようやくうちの宿が見えてきた。なんだかとても疲れた。早く休みたい。
 飯屋の前に通りかかった時、窓から幼なじみが顔を出した。
「何してるんだよ、ずぶぬれだぞ!」
 反応できるだけの元気はなくて、私は黙って通りすぎる。けれど幼なじみは外まで出て追いかけてきた。前に立ちはだかって私を止める。小さい頃は力ずくで押しのけられたけど、今はそうもいかない。いつの間にか、幼なじみの方が背が高くなっていた。
「どうしたんだよ?」
「……花がなくなった」
 面倒だったので、本当のことを言った。もう、何もかもどうでもよかった。さっさと休みたい。
「なくなったって……」
「だれかが全部持っていったの」
 今はとにかく、自分の部屋に戻って眠りたい。具合が悪いということにして、今日は早めに休ませてもらおう。
 もういいでしょ? と幼なじみをにらんだ。
 けれど、目に入ってきた光景に、私はわずかにひるむ。
 ずぶぬれになった幼なじみが、真っ青な顔をしていたのだ。
「俺のせいかも」
 意味がわからなかった。
 今、なんて言った?
 急に、また頭が回らなくなる。
 幼なじみは言い訳するみたいに、ぼそぼそと言った。
「客に、話しちゃったんだ」
 冒険家に憧れて旅をしている行商人が、飯屋の客として来た。冒険家になりたい幼なじみと話が盛り上がり、話題は自然と少し前までここにいた冒険家のことになった。
「それで俺、師匠が専門家を連れて戻ってきたら、一緒にまた谷の花を見に行く約束をしたんだって、つい話しちゃって……」
 幼なじみの話は、途中からほとんど聞こえていなかった。
 目の前に立つ幼なじみが、知らない人間に思えてくる。もちろんおしゃべりだってことは知っていたけど、ここまでバカだったなんて思わなかった。「だれにも言わないで」ってあれほど何度も言ったのに、こいつにはひとつも届いていなかったんだって。絶望に似た嫌悪感がこみ上げてくる。
 幼なじみのいたずらを見かけても、私はおじさんとおばさんに言いつけたりしなかった。叱られたらかわいそうだから。幼なじみだから。秘密を守ってあげた。そのお返しがこれか。
「ごめん」
 小さくなった幼なじみがつぶやく。そのびるような姿すら、腹が立った。
 ごめんって、何?
 そんな言葉をいくらもらったって、花は返ってこない。
 謝るくらいなら、なんでやったの?
 私が何も言わずにいると、幼なじみは聞いてもいないのに言い訳を続けた。
「でも、その人、だれにも話さないって約束してくれたんだ。具体的な場所までは言ってないし、それに……」
 気づいたら、私は幼なじみに飛びかかっていた。
 叫び声を上げて、馬乗りになって、頭と言わず胸と言わず、手当たり次第に幼なじみを叩いた。
 ふざけんな。どうして私がやらないでって言ったばっかりことをやるの。私がどれだけ必死でやってたか知ってるのにどうしてそんなことができるの。どうしてあんたはいつもそうなの。私の気持ちなんかお構いなしで。身勝手で。あと先考えないで。おしゃべりで。どうしてこんなバカに花のことを知られてしまったんだろう。ただ彼に花を見せてあげたかっただけなのに。たったそれだけの願いがどうして叶わないの。
 私は幼なじみの胸の上に伏せて、大声で泣きじゃくっていた。
 言いたいことはたくさんあった。これまでためこんだ文句を全部吐き出したかった。でも言葉がこんがらがってしまい、結局出てくるのは叫びみたいな泣き声だけだった。
 ぬかるんだ地面に手足を投げ出した幼なじみは、何も言わず、されるがままでいた。
 

 部屋で目を覚ますと、すっかり夜になっていた。
 雨は上がっていたけれど、雲はまだ空に残っている。風次第ではまた降りそうだ。
 頭がボーッとする。全身ぐったりと疲れていた。このまま、また頭を枕に落として眠ってしまいたい。
 でも、彼が来ているかも。
 それだけを頼りに、私は川へ向かった。
 川に着く頃には、ぽつりぽつりとまた雨が降りだしていた。雲は薄く、ところどころ切れてその向こうの夜空が見えている。これくらいならしばらくは持つだろう。
 そう思って舟を出したら、丁度向こう岸にも小さな明かりが見えた。今の私にはそれが、長い夜の終わりを告げる太陽みたいに感じられた。
 川の真ん中で、一年ぶりに彼と再会する。彼はもう少年って感じじゃなくて、すっかり大人に見えた。今では舟がずいぶん小さく見える。年々、成長速度が上がってる気がする。
「久しぶり」
「うん」
 彼はそれきり黙ってしまう。
 何かが違う気がした。いつもなら、彼の方から言葉をかけて微笑んでくれるのに。嫌な予感がざわざわとはい上がってくる。
 彼は硬い表情のまま、意を決したように口を開く。
「僕が来られるのは、これが最後だと思う」
 絶句するのは、今日いったい何度目だろう。
 それは想像できる中でも一番恐れていた言葉だった。でも、恐れていただけで、実際そう言われたらどうするかは考えてなかった。ただただ動揺してしまい、言葉にならないため息をもらすことしかできない。
 重たい沈黙がふたりの間を流れていく。
 やがて彼が、慎重に言葉を置くみたいに続ける。
「もうすぐ、結婚するんだ」
 舟に穴が空いて、沈んでいく錯覚がした。
 ケッコン。それは、自分達にはまだまだ遠い言葉だと思っていた。でもいつの間にか、そういう年齢になっていたのだ。
 そりゃあ、そうだよね。年に何回かしか会えない相手より、そばにいる人の方が大切に決まっている。
「どんな人?」
「実はまだ、会ったことないんだ」
 親同士が決めた縁談の場合、式の当日に初めて伴侶の顔を知るなんていうのはよくある話だ。彼が相手を選んだわけじゃないと知り、ほんのちょっとだけ、救われた気がした。といっても、完全に沈んでいたのが、水面から顔を出せるようになったくらいの違いだけど。
 彼の表情はぎこちなかった。目は少しも笑っていないのに、一生懸命に口角を上げている。
 だから、私も必死に笑おうとした。
 彼が笑顔を作るなら、私もそれに応えなきゃいけない。
 彼を困らせちゃいけない。
 引きつる頬を無理やり持ち上げた。
「おめでとう」
 たったそれだけの言葉を口にするだけで、胸がびりびりに引き裂かれて血が出るみたいだった。
 おまけに、私が必死に言葉を絞り出したのに、なぜか彼は寂しそうな顔になってしまう。
「君とこうして会うの、すごく楽しかったよ」
 彼は空を見上げる。戻ってきた雨雲のすき間から、三日月の角だけがちらりと見えていた。
「最後にやっと、一緒に月が見られたし。だから僕は幸せだ」
 月って言ったって、雲の間から少し見えるだけだし、満月でもない。私達が見たかったのは、こんな中途半端な月じゃないのに。
 ダメだ。私は減らず口を飲みこんだ。
 これで会うのは最後なんだから、嫌な思い出にしたくない。
 彼を気持ちよく帰してあげなきゃ。
 けれど、気の利いた言葉はひとつも思い浮かばなかった。
 彼の顔を目に焼きつけたいのに、涙でにじんでしまう。
「……私も、楽しかった」
 そう言うのがせいいっぱいだった。
 徐々に雨が強くなってきた。
 こぼれ落ちた涙は、雨粒にまぎれて見えなかったと思う。
 

 どうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。気がついたら村にいて、家までの道を歩いていた。
 時間が巻き戻ったみたいだ。
 人気のない村。視界を遮る大粒の雨。昼間とまったく同じ光景だ。
 一日に二回も雨に降られて、重たい体を引きずって家路を歩くなんて。私、何やってるんだろう。
 花はなくなった。
 彼も行ってしまった。
 私にはもう、何もない。
 いや、違う。
 私は最初から何も持っていなかった。元に戻っただけだ。
 そんな私が、五年間も幸せを感じることができたのだ。よかったじゃないか。
 嘲笑と涙がいっぺんにあふれてくる。もう感情がぐちゃぐちゃだ。でも構わない。どうせだれも見ていやしない。
 後ろの方から足音が近づいてきた。バシャバシャと水を蹴散らして走ってくる。
「おい!」
 私を呼ぶ声がしたが、無視した。うんざりだ。もう関わりたくない。顔も見たくない。
 後ろから手を掴まれて、引き止められる。私は条件反射でその手を振り払った。
 けれど、振り払った手はすぐにまた捕まった。もう一度振り払おうとするけど、強い力で掴まれて逃げられない。手首が痛い。
「さわんないでよ!」
「あったんだ!」
 息を切らした幼なじみは、私にしゃべる隙を与えずに続けた。
「残ってたんだよ、花!」
 花、という言葉に一瞬、動きが止まってしまった自分が悔しい。
 幼なじみには、植えかえを何度か手伝わせたことがあった。そのポイントを片っ端から確認して回ったらしい。去年植えかえたもののひとつが、雨の中で小さな花が咲いていたらしい。
 そう聞かされても、私の心はぴくりとも動かなかった。
「もういいよ。彼とはもう会えないから」
 花を見せられたって、彼の結婚は覆らない。それに会ってしまったら、また別れなければならない。あの胸が裂ける苦しみを繰り返すなんて、とても耐えられない。
「そいつのための花だったのか?」
 幼なじみは棒読みするみたいに言う。
 彼のことは、だれにも話してなかった。幼なじみには特に言いたくなかった。言えばきっとまたついてきたり、からかわれたりすると思ったから。でも、もう、どうでもいい。
「そいつのこと、好きなの?」
「うるさい」
 普段は鈍感なくせに、変なとこでばかり察しがよくて腹が立つ。
「そんなこと我慢したって、だれもほめてくんねえぞ」
 幼なじみの言葉に、お腹の底がカッと熱くなった。私は幼なじみを力いっぱいにらむ。
「あんたに何がわかるの」
 ずっと自制して生きてきた。貧しい家に生まれて、病を背負った両親に負担をかけないように必死に頑張ってきた。迷惑をかけないように、わがまま言わないように。宿屋のおやじさんとおかみさんの役に立つように、少しでも長く置いてもらえるように、嫌われないように。自分のことをあと回しにして、殺して、今日まで生きてきた。両親が健在で、家の手伝いもせずに能天気に遊んでいられるご身分のくせに、知ったようなこと言わないで。
「わかんねえよ。お前はなんでもひとりでやっちゃうから、俺にわかるわけないだろ!」
 開き直る幼なじみに、せっかく鎮まっていた怒りが再び沸騰しだす。
「だったら口出ししないでよ! もうほっといて!」
 もう嫌だ。こいつと話していると怒りと憎悪しか生まれない。
 私は腕を無理やり引っぱって、幼なじみの手から逃げ出そうとする。けれど、幼なじみは私の手を掴んだまま走りだしてしまう。
「ちょっと、やめて、放してよ! なんなのもう!」
「口出すなって言っただろ。だから手出す」
「はあっ!?」
 私は呆れと怒りでものも言えなくなる。
 幼なじみは続ける。
「お前ずっと頑張ってただろ! なのになんで咲いた途端に諦めるんだよ!」
 それは、言葉で頭をぶん殴れたみたいな感覚だった。
「見せたかったなら、ちゃんと見せてやれよ! お前のために何年も頑張ったんだから、見るまではどこにも行くんじゃねえって言ってやれよ!」
 幼なじみに手を引かれて走る私は、急に、あることに気づいた。
 私は、一度も、彼に触れたことがない。
 いつもふたりの間には舟べりがあって、手を伸ばすには少し遠いすき間が空いていた。
 彼の手に触れてみたい。
 彼と並んで立ってみたい。
 日の下で、彼の笑顔を見たい。
 ずっと抑えていた気持ちが、あふれ出してくる。
 彼は私にたくさんの言葉をくれた。花のように美しいって言ってくれて、一緒にいられて嬉しいって、幸せだって言ってくれた。でも私は彼にろくな言葉を返せなかった。照れくさくて、彼のことがどんなに大事か伝えられなかった。
 本当はずっと怖かったのだ。彼に本当の気持ちを伝えたら、彼はもう会いに来てくれくなるんじゃないかって。今の関係を壊すくらいなら、ずっとこのままでいいと思った。
 だから、もし彼に花を見せられたら、何かが変わるんじゃないかって期待していたのだ。彼が花を見て喜んでくれたら、私が気持ちを伝えても受け止めてくれるんじゃないかって。
 雨季が来る前に花が枯れてしまったから、言えなかったんじゃない。
 私にほんのちょっとの勇気さえあれば、いつだって言えたのだ。彼はいつだって私の言葉に耳を傾けてくれていた。
 彼にあんな表情をさせるくらいなら、無理に「おめでとう」なんて言わなければよかったのだ。素直に好きだって言って、結婚しないで私とずっと一緒にこうしていてって、泣きわめけばよかった。大人ぶって本当の気持ちを隠して、あとで後悔して、バカみたい。
 私は幼なじみ手を振り払って、自分で走った。
 あっさり手を放した幼なじみは、横について走る。正直、幼なじみへの怒りはまだおさまっていない。でも今はいい。言いたいことはあとで全部ぶつける。そして、向こうが思っていることも全部聞く。ふたりの関係を考えるのはそのあとでいい。
 それよりも今は、一歩も早く前へ進みたい。
 ふたりを押し戻すように叩きつけてくる雨を突っ切って、ひたすら走る。
 この土砂ぶりの雨に負けず、まだ花が残っていることを祈って。
 彼がまだ川のそばにいることを願って。
 もう一度、彼があの笑顔を見せてくれると信じて。
 花はこんなにきれいなんだよって教えてあげる。私が初めて花を見た時の感動を教えてあげる。それは君と出会った時と同じくらい衝撃的で、すばらしい瞬間だったんだって伝える。
 初めて花を見た彼は、きっと、とってもいい顔をする。
 それが見られるなら、あのことはどうだっていい。

<了>

Photo by sandbar
Edited by 朝矢たかみ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?