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文学が分からない

 いらしてくださって、ありがとうございます。

 先日の記事、『絶対、「小説家」になる!』のなかで、凪良ゆうさんの言葉として、以下の一節をご紹介いたしました。

 私の文章は「読みやすい」と評されることが多く、書き手としては「文学的でない」と言われているようで、正直コンプレックスに思うこともある。

『オール読物』11月号・「凪良ゆう『汝、星のとごく』私はこう書いた」より一部引用

 
 小説の書き方指南本を読み返しておりましたら、某純文学系作家氏の著書のなかで、まさにそのことに触れているくだりがございまして。

 「面白い小説」のほめ言葉として、よく言われる「一気に読んだ」というのは「ほめ言葉ではない」、とあり。
 一気に読める、イコール、早くその小説の世界から出てしまうということで、「本当に面白い小説なら、そんなに早くその世界から出たいとは思わないはずではないか」と、その作家さまの記述は続くのですけれど(あえて出典は表記いたしません)。

 文学賞の選評などでも、「この作品は文学的でない(ゆえに推せない)」という選考委員さまの言葉を目にする度に、へぇ、と思ってしまうのですよ。なにしろ私には、「文学が分からない」もので……。

 ちなみにこの記事のタイトルでもある『文学が分からない』というフレーズは、本日(2023.11.24)の日経新聞夕刊・プロムナードというコラムに記されていた言葉で、まさに今の心境にぴったりだったのでそのまま使わせていただいた次第です。

 そのコラムを執筆されたのは、国語辞典編纂者の飯間浩明氏。
 少年の頃から文学に親しんでこられた氏ですが、大学時代、ある先生から「飯間は文学が分からないね」と言われた(と、友人から聞かされた)思い出があり、それが深いトラウマになったことが語られ、「文学が分かるって何でしょうか」と問いかけておられました。

 文藝春秋さんの『オール讀物』にて連載中の村山由佳さんの『PRIZE─プライズ─』でも、編集者が発する「(作品が)広く受け容れられることと、文学的に優れてるかどうかは別でしょう?」(12月号)というセリフがありました。

 私の狭い読書量で育まれた知識レベルでは、いわゆる文学ファンの方々が熱烈に推される作家さまの作品などは、恥ずかしながら読んでもよくわからなかったりいたしまして、「文学的」とは、なにをもって定義するのかを知りたくもあり。

 さきの指南本の著者さまは、共感と感銘の違いに触れながら、共感はベストセラーになりやすいけれど一時的なもの、感銘は心の底からわきあがる感動と仰せで、おそらく「感銘を与える作品が文学だ」ととらえておられるのかもしれませぬ(なにぶん私の読みゆえ、違うかもしれませんが)。

 その段でいけば、文学的でないと選評された作品でも胸揺さぶられたものはありますし、文学的うんぬんを判断されているはずの某作家さまのお作品で感銘を受けたことは(以下略。

 どんな読み方が「文学が分かった」読み方になるのかも、私にはわからないのでございます……。

 
 先のコラムは、ある映画の中の
「本を読むときは、作者の考えだけでなく、自分の考えも大切にしろ」
 というセリフをあげ、 

 作品を理解する努力はもちろんとして、読者が自分なりの考えを広げられれば、それだけでも作品を読んだ意味はあります。「文学が分かった」かどうか、ことさら気に病む必要はありません。

2023.11.24日経新聞・夕刊「プロムナード(飯間浩明氏)」より一部引用

 と結んでおられまして、分からないなら分からないでいいか、と思ったりもしたのですけれど。

 小説教室の教え子二人が同時に芥川賞を受賞したことでも知られる根本昌夫氏の『【実践】小説教室』(河出書房新社)では、小説には四種類の読みと四回の読みがある、と書かれておりました。

 ・著者がどんな狙いで書いたのかを探りつつ読む「著者の読み方」
 ・自分はこの作品を読んでどう思ったかという「自分の読み方」
 ・この作品はこれくらい売れそうだという「マーケットの読み方」
 ・○○賞はこの作品が取るだろうという「賞の読み方」

 とのことですが、作家を目指すならば、自分が面白かったかつまらなかったかではなく、その小説を書いた作家の立場になって読む「著者の読み方」が一番必要だと仰せです。

 ちなみに四回の読みとは、根本氏ご自身の「小説教室に提出された作品の読み方」で、一回目で作品の価値がわかり、二回目で作者の企図を考え、より良い作品にするには何が必要かを考え、三回目は日を置いて、講評直前に読んで読み落としていたものにも気づき、合評で生徒さんたちの作品評を聞くことが四回目の読み、なのだそうです。

 話は逸れますが、このくだりを読んで、小説講座の講師の方々を思い出しました。
 いまは亡きお一方は、誤字脱字や言葉の誤使用、余分な表現、書き足りない箇所など、実に細やかに赤を入れつつ、作品全体の感想を述べてくださり。
 もうお一方は文章の細かいところは一切無視。そのかわり、全体を見て「盛り上がりに欠ける」といった指摘をしつつ、公募で勝つにはこういう場面があったらどうでしょう、とアドバイスくださったのですが、ミスリードと申しますか、書き手が企図したことを読み違えることが多々ありました(受講生たちは「なんであんな読み方になるんだろう」といつも不思議に思っていたので、書き方が悪いということではなかったかと)。
 講師の方も本当にさまざま、そして作品の読み方も──。

 話を戻しますが、根本昌夫氏の小説教室は、受講希望者殺到、最も受けたい小説講座とも言われ、二人の芥川賞同時受賞だけでなく、すばる文学賞、文藝賞、オール讀物新人賞などなど新人賞受賞者が続々とのこと。
 
 『【実践】小説教室』は、全体を通してとても丁寧に、書くための心得から技術の磨きかたまでを教えてくださっていますが、ご紹介した四種類の読みのうちの『著者の読み方』、なんとなくやっているつもりでしたが、まだまだだなとあらためて反省しております。

 読めてなければ、書けるわけもなく。
 そも、私は「どうせ私には分からない」と、「考えることを放棄している」のですから、このままでは永遠に理解できぬままでしょう。

 文学が理解できるようになるまで読まなくちゃ、と思いながらも、納得できるところまで読んでるうちには寿命が尽きてしまいそうな……。
 何の映画だったか忘れましたが、占い師が作家志望の男性に言うのですよ、『あなた、有名な作家になれるわよ。来世でね』と。
 来世じゃ困るんだよなぁ……><。。。

・・・・・

 最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 ニュース速報にて、伊集院静氏の訃報を知りました──。
 「大人の流儀」シリーズなど、長年著作に親しんでまいりました。若い時分に、職場から一時間半かけてサイン会に駆けつけた折、「寒い中を遠いところからわざわざありがとう」と握手をしてくださって。 
 あたたかく包み込んでくださるような大きな掌とやさしい声音は、いまも鮮明に覚えております。
 長きにわたりすばらしいお作品の数々を生み出してくださり、ありがとうございました。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 

 


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