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古事記を紡いだその人は

(2022年4月の記事の再掲です)

 いらしてくださって、ありがとうございます(´ー`)

 かの紫式部の『源氏物語』のなかに、「物語のはじめのおやなる竹取たけとりおきな」という一節がございます。
 平安時代の人々は「日本最古の物語」は『竹取物語(かぐや姫)』だと認識していたようですが、古事記や日本書紀を読むにつけ、そこに記される神代の出来事などこそ、この国の最古の物語・小説だろうと思うのです。

 遠い遠い昔、森から出て草原での暮らしを始めた私たちの祖先。身を隠せる場所といえば、洞窟のようなところしかなかったでしょう。ライオンなどの獣から身を守るため、お腹の大きな女性と小さな子どもらを洞窟に残し、若く敏捷に動ける者たちは狩りに出て。獲物のいる場所や水場などの情報を共有するために、絵文字を使い記すようになり……。

 狩りの道具といってもたいした殺傷能力がなかったその頃、牙や爪の鋭い獣と対峙するには恐怖心を克服せねばならず。また、広大な大地に響くのは、鳥のさえずりか轟く雷鳴、雨や風の音のみ。そこは圧倒的な無音の空間でもあったでしょう。

 人々は互いを鼓舞するため、寂しさを紛らわすために歌を、そして共鳴をあらわすために踊りを覚え、やがてそれは言語として発達し。

 ある雨の日。狩りに出られぬ男たちが洞窟で焚火を囲む、その輪に、ちいさい人たちが加わり、澄んだ眼差しで尋ねるのです。

「ねぇ、お空をぐるりと動いていく、あのまぶしいものは何?」

 子どもらの「なぜ?」に応えようとして、人類の最初の物語は誕生したのかも……などと想像するのも楽しいものですね。

 それぞれの集団のなかで生まれた物語はやがて、より面白いものに集約され重層化し、ギリシア・ローマ神話や北欧の巨人の物語になり、南方の島々の伝説にもなり、そして、征服という歴史が始まると同時に、消え去っていった物語もあるでしょう。

 では、原初の日本には、どんな物語があったのでしょう。

 長く文字を持たなかった私たちの祖先は、物語を口承(口伝え)で語ってきたはずですが、柳田国男氏の『海上の道』で紹介される南の島々の言い伝えやアイヌの伝承などから、その片鱗がかすかに汲みとれるとはいえ、ほぼ何もわからぬまま。

 けれど縄文時代の土器や土偶の、なんとも不可思議な形状や文様。鹿の角やサメの歯、ヒスイの大珠たいしゅなどの呪具と思しき装身具などを見るに、そこには彼らが信じた何らかの物語があったはずです。

 ……と、前置きがずいぶん長くなってしまったのですけれど^^;

 古事記や日本書紀に記される神代の物語には、これら遙か遠い祖先が語ってきた話が、どれだけ生かされているのか──を考える前に、祖先がどこからやってきたのかも想像せねばならないのですね。

 北方から陸づたいに、南方からは舟で。この島国にたどり着くころの彼らにはすでに、それぞれが抱く「部族の物語」があったはずです。

 ここで古事記に目を向けてみると、八岐大蛇ヤマタノオロチの物語からは、ギリシャ神話の「ペルセウスとアンドロメダの海獣退治の物語」が想起されますし、黄泉よみの国にイザナミを迎えに行くくだりでは、ギリシア神話のエウリュディケを迎えに行ったオルフェウスの失敗の物語が浮かびます。
 イザナミの黄泉戸喫よもつへぐい(冥界の食べ物を口にしたため現世には戻れなくなること)の描写は、冥府にさらわれたペルセポネーが柘榴ざくろを食べてしまった物語を引き写したようで。

 ほかにも月読つくよみ(あるいはスサノオ)に殺された女神の体から五穀が生まれる話は、「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれる、南の島々に広く伝わる食物起源神話そのものであり、因幡いなば白兎しろうさぎの物語も、地域により登場する動物の違いはありますが、やはり南方からアジアにわたり同様の話が伝わっています。

 また、日本書紀の聖徳太子の記事では、彼の母がうまやで産気づき出産するという、「キリスト生誕」を思わせる描写がありますし、アマテラスの岩戸隠れで活躍したアメノウズメを始祖とする猿女君さるめのきみ(朝廷の祭祀にたずさわった)という一族の名は、ヨハネの首を欲したサロメ(ヘロディアの娘・踊りの名手)から取られたのかもと思えたり。

 では、こうした世界各地に伝わる神話・伝承・物語が、日本風にアレンジされて古事記や日本書紀で語られているのは何故なのでしょう。

 記紀は天武天皇の発案とされていますが、その当時の日本は白村江での敗戦により、唐という国の強大さを見せつけられ、また壬申の乱を経て、国内の人心をまとめるための「国家としての」拠り所を必要としていたようです。
 大唐国に認められるため、そして、かの国に劣らぬくらい古く、素晴らしい歴史が、「我が国にもある」と示す「書」を作らねばならぬ。
 そのためには、当時、知り得る限りの知識を総動員し、唐には存在しないような神々の物語を『創り出さねばならなかった』のではないでしょうか。

 そんな眼で眺めれば、聖徳太子の出生譚がキリストの生誕だけでなく釈迦出生譚にも似ており、さらには彼が飛翔伝説など数々の奇跡を為したと描かれるのは、「我が国にはキリストや釈迦などの聖人と同等、いやそれらをミックスしたすごい人物がいたのだぞ」という、当時の編纂者たちの微笑ましくなるような「背伸び」を感じるのです。

 スサノオという、ギリシア神話の英雄にも劣らぬ神が「いたことにされている」のも、「我が国は聖書やギリシア神話、インドや中国の伝説にも詳しいんだぞ。そしてそれらをミックスしたすごい神話を持っているんだ」というアピールと思えます。(英雄譚はさておき、スサノオという人物は実在した「蘇我氏の祖」だと思っておりますが、そちらはまた記事をあらためて書きたいと思います)
 とはいえ(八岐大蛇はさすがに架空の生き物でしょうけれど)、大蛇退治の話は各地に伝わってもいて、因幡の白兎の物語なども、それぞれの土地に伝わる(「海の民」の)伝承をもとにしているようで、記紀に語られる物語のすべてが(ゼロからの)創作、というわけではないのでしょう。

 いずれにしても、古事記の物語を「創った」人物は存在するのだと。それが天武天皇とするならば、彼の「物語作家としての能力」は相当なものだと思うのです。
 聖書やギリシア神話にまで精通している……彼の大海人おおあま皇子という名は、彼を育てた一族の名を冠しているとはいえ、海の人という名のままに、海の民たちとともに各地をめぐり、土地の古老たちから直に伝承を聞き、もしかしたら大唐国の、数多の人種で賑わう都の姿をその目で見たのかもしれず。だからこそ、それらをうまく混ぜ合わせた物語に昇華させることができたのでは、などと考えたりもするのです。
 あるいは幼少期の彼に、遠い異国の物語を語りきかせた者がいたのなら、それは遙かシルクロードを旅して日本へ辿り着いた「胡人」と呼ばれたペルシアの人々なのかも──。

 ……古事記や日本書紀の神代の物語を読み比べては、こんなとりとめないことを考えるこの頃なのでした。

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 最後までお読みくださり、ありがとうございます<(_ _)>

 一昨日のTBSテレビ『世界遺産』で、テオティワカン遺跡の出土品が紹介されておりました。黒曜石のやじりは、日本で出土するものとそっくり。しかも巻貝の贈答があり、黒曜石とヒスイの交易がされていたそうで……古代日本とよく似た姿にとても驚きました。
 ヒスイについてはまたあらためて記事にしたいと思っています。

 今日もみなさまに佳き日となりますように(´ー`)ノ

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