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ALS(筋萎縮性側索硬化症)で父を亡くした家族

ALS(筋萎縮性側索硬化症)

少し前にALS患者嘱託殺人事件で話題になったALS(筋萎縮性側索硬化症)。
実は私の父が数年前にこの病気で亡くなっています。
わずか、50代半ばの若さでこの世を去りました。
当時、私は浪人中で受験終了直後で何が起きたのかよく分かっていませんでした。
多分、浪人中の私に心配かけまいとあまり伝えていなかったのと、治らないけど進行を遅らせる事ができるだろうと思っていたのでしょう。

病名が分かるまでに半年以上

父の病名が分かるまでにかなりの月日を要しました。
いつから検査を始めたのかは受験の最中だったため知りませんが、検査入院を繰り返し病名がわかったのが亡くなる3ヶ月前でした。
私のセンター試験に迫る頃でした。
検査入院中は運悪く、父方の祖母(父の母)が骨折で入院し、母と2人で入院の手続きや荷物運びに週に1度祖母の病院へ行ってました。そして、父の検査入院と母は仕事をしながら両方の病院へ通っていました。
祖母は直ぐに退院出来ましたけどね。
まぁ精神状態も悪くなり、受験どころじゃ無くなりますよね。

実は症状がずっと前から出ていた

なぜ、ALSにたどり着くのが遅かったか。
それは若かったのが原因の1つでした。なかなか50代前半で発症するのは珍しいらしく、大体が老人らしいです。
しかし、父は手がつる(お箸が持てないぐらい)や急に呼吸がしづらくなるなどの症状が亡くなる1年前からあったそうです。(当時も高校3年生で受験生)
持病で狭心症も持っていたため、その影響なのかな?と思っていたらしいですが、違ったそうです。
そして、たまたま会社の近くの大きな病院で詳細に検査入院したら、ALSと判明したらしいです。

亡くなる3ヶ月前~2ヶ月前

まだこの時期は元気で自分で車を運転して出勤していました。
電車通勤がしんどかったらしく、特別に車で出勤してもいいと許可が降りたそうです。
通院はたまたま近所の診療所にALSに精通している先生がいたらしく、そこに通うようになりました。
その先生曰く、ALSだけど運転できる人は珍しいと言われていたそうです。
この頃は家に呼吸を補助する装置を置いていましたが、使うのをかなり嫌ってました。
皮膚が荒れるからってさ(笑)
私はセンター試験前で精神が大荒れ状態。
遅れてきた反抗期で父親とは全く喋りませんでした。

亡くなる2ヶ月前~1ヶ月前

だんだん、父がガリガリになっていったのを覚えています。食べるスピードも遅く、食も細かった。
そして、仕事も毎日ではなく体調がいい日にだけ行くようになりました。
私は私立受験真っ最中で、やっと1つ受かった状態でした。(実は、父はその大学の受験に反対していなかったらしい。)
あまり顔を合わす時間もありませんでしたが、すっかり老人のようだなと思っていました。
とうとう車の運転も出来なくなり、母が運転して通勤するようになりました。
あんなに運転していろんな所へ勝手に連れていった父が、運転できなくなるってかなりびっくりしますよね。
その時は国公立2次試験前(前期)で母と大モメして、結局受けなかったです。

亡くなる数週間前

私は私立後期と国公立後期試験に突入しました。
父はすっかり寝込んでしまい、仕事にも行けなくなりました。
そして国公立後期受験翌日、父の定期検査があり私は家でぐっすり寝ていました。
そして母から衝撃の電話がかかってきます。
『今すぐ入院の用意を持ってきて欲しい』
私は父の入院道具セットを電車に乗って持っていきました。
なんと、父はかなり症状が進行している状態でした。
当日は病室が空いていなかったので、救急用のところで寝泊まりする事になりました。
死ぬほど腰が痛かった。

緊急入院(亡くなる数日前)

緊急入院から毎日、母と私は病院へ通うようになりました。
父の病状が一旦落ち着くと、先生に聞かれました。
『延命治療はしますか?』
ALSの延命治療は気管切開になりますが、それは家族の介護が必要になる事でした。
しかし、父はこう答えました。
『延命治療はしません』
介護の大変さを知っている父は延命治療を選びませんでした。
祖父(父の父)が50代で脳梗塞で倒れ、亡くなるまで10年以上介護をしていた為でした。
主治医の先生には、余命は半年以上から数年だろうと宣告されました。
母はもし家に連れて帰れるならば、介護ベッドが必要になるかもと役場へ相談しに行くようになりました。(どの道、動けなくなるから)
そして、大部屋へ入院する事が決定しました。

大部屋から個室へ

しかし、父の病状は悪くなる一方で、翌日には個室へ移動する事になりました。
そして、私と母は2人で狭い簡易ベッド1つで寝ることになりました。もちろん、寝れませんでした。
翌日は母は病院に残り、私は寝たくて直ぐに家に帰りました。
更に翌日、母はお風呂に入るため一旦家に帰り、再び2人で病院へ行きました。
父は自分でご飯を食べて、1人でトイレに行こうとしていました。
さすがに危ないので看護婦さんが全力で止めていました。それぐらい元気だったんです。
先生からも一旦帰っても大丈夫ですよと家に帰ろうとしていました。
お腹が空いたので帰る途中にファミレスで晩御飯を食べていました。
そこに1本の電話が母の携帯に。
『危篤状態になりましたので病院へ来てください』

危篤状態(亡くなる前日~当日)

父の病状は想像以上に進行していました。
特に肺の筋力が落ちてしまい、呼吸が上手く出来ない状態でした。
そう、筋力が落ちていたのは肺だけだったのです。手も脚も筋力は落ちておらずら直前まで自分の力で動いていたんです。
病院に着いた頃には数十秒に1回の呼吸しかなく、当直の先生には持って数時間だろうと宣告されました。
数日前には余命半年以上と言われていたのに、あと数時間…
母はずっと父の側で呼吸が止まる度に「吸って」と声をかけていました。
しかし明朝、父はこの世を去ってしまいました。

亡くなった当日

私と母は呆然とした状態で、主治医から説明を受けていました。
ALSの研究の為に、臓器と血管を提供して欲しいと。もちろん、承諾しました。
そこから葬儀の準備が始まり、父を父の実家に連れて行くことにしました。
実は祖母(父の母)だけ、父が闘病と入院していた事を知りませんでした。心配かけまいと伝えていなかったのです。
そして、臓器がない状態で父の実家に帰ってきました。
ALSの研究に貢献出来ているのであれば、良いのですが…

ALSをもっと知って欲しい

正直、私もALSについてはあまり詳しくありませんが、それでもALS患者の家族です。
ALSは人によって症状も違いますし、進行スピードも違います。
一時期、アイスバケツチャレンジが流行っていましたが、社会貢献するならアイスバケツチャレンジはせずに寄付すれば?と思いました。
というのも、大学の授業でアイスバケツチャレンジの動画を見て感想をレポートに書いてくださいと課題がありました。
しかし、ALS患者の家族であった私は感想は書けません。ALS患者の家族としての意見を述べる事しか出来ません。
当事者しか分からない事を伝える方が大切だと思ったからです。

ALS患者嘱託殺人事件

父が亡くなり数年後、私はこの事件を他人事とは思えませんでした。
日本には安楽死はありません。しかし、父のように延命治療を望まない人もいます。他人に迷惑をかけたくないから、安楽死したい。延命治療したくない。
この苦しみは患者、またその家族にしか分かりません。
私の父は病院内で亡くなりましたが、もし介護する事になったら…とまた考えさせられる事になったでしょう。

この記事を通してALS(筋萎縮性側索硬化症)を少しでも興味を持っていただければと思います。

二度と来ない父の誕生日に思い出し。

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