見出し画像

大学入試は自分の勝ち方を知るためにする

共通テストお疲れさまでした

まずもって共通テストお疲れ様でした。

それぞれの結果がそれぞれに出たと思います。いまいろいろなことを考えていると思います。本番の怖さを知ったという人もいると思います。とくに抱えたものが大きい人ほど、大きなプレッシャーを感じてしまったと思います。

実は私も現役生の時、そうなりました。1科目目で失敗をして、それを引っ張ってしまい、得意教科が集中する1日目で力が発揮できなかった。だから、学力だけじゃないいろいろな力が結果には必要だとわかっているつもりです。浪人の時は、立命館大学の入試で真っ白になってしまいました。自分としては、抑えだと考えていたので、帰りの電車は絶望していました。

うまくいった人、それをまわりに言いふらすことなく、粛々とやっていきましょう。強さをもてば持つほど、誰かを傷つけてしまいます。強い中にもやはり優しさは必要でしょう。うまくいかなかった人、また今日から再スタートですね。

「本番」は本当に怖い。なにが起きるかわからない。

多くの人が、志望校のボーダーに比肩する実力をつけていました。そしてそれは過去問演習、共通テストパック、予想問題集をやっていく中で、みんな自身が実感したことだと思うし、実際の数字にもでていました。

一発がでるかもしれない、みなさんもそう感じていたでしょう。出た人もいますね。ただ、本番は怖いんです。本番には魔物が住んでいる。チャンスが一回しかないなんて、そんな理不尽なことあるでしょうか。その気持ちは痛いほどわかります。

しかし、いまは、結果は結果として受けとめて下さい。君たちが今日に至るまでに本当に死力を尽くしたのかは正直、私にはわかりません。私にはそう映っていましたが、みなさんはどうだったでしょうか。

「挑戦」には4つの結末がある

東進の林修先生もおっしゃっていた「頑張る意味」という話しがあります。わたしも予備校時代に河合塾の先生から聞きました。私はこの話が好きで、よく保護者の方にお話します。

大学受験の結果は二つしかありません。それは合格か不合格です。しかしそこに至る過程をみれば4つに分類できます。

それは、
①やりきって合格
②やりきって不合格
③やりきらず合格
④やりきらず不合格
という4つのパターンです。

画像1

「①やりきって合格」は文句のつけようがありません。多くを学んだでしょう。
「②やりきって不合格」は残念でしたが、それに勝る多くを学んだと思います。もう一年やったら、きっと伸びるでしょうね。でも、1年の社会人のキャリアが失われます。悩ましいですね。相談しましょう。
「④やりきらず不合格」の人はまた来年がんばってください。でも頑張った経験がないから、多分来年もうまくいかないと思います。今日変われない人は、明日変われる確証がない。だからやるなら4月からじゃなくて、今日からやりきれ。

問題は「③やりきらず合格」です。実は、この人達がとても危ない。この人達は、「頑張る」という感覚がわからないので、ここで踏ん張らなければいけないところでの頑張り方がわかりません。そして挫折に、弱い。これからの大学生活でやりきってくれるものを一つでいいから見つけてほしいと心から祈っています。

②やりきって破れた人は、言い訳ができません。その努力が無駄になったと感じてしまうかもしれない。しかし、だからこそ強いのです。正確には靭やか(しなやか)なのです。目の前に壁があり、これはどうしても乗り越えることはできなさそうだと分かれば、自然と周りに目が向きます。

うまくいってる時、そして、夢中なときは前しか見えません。壁を登っている時は目の前の壁しか見えないのです。しかし、危険を察知し、その岩壁から降りたら、否応なしにその壁以外の所に目が向きます。

そしてそこで初めて世界の広さを知ることになります。その壁のすぐ脇に、その壁を乗り越えなくても目的地に行くことができる脇道に気づくこともありますし、足元に咲く綺麗な花に気が付くこともよくあります。

「だったら俺が盛り上げる」で、前を向けた

「先生は早稲田受かったからいいじゃん」と思うかもしれませんが、どう感じるかは人によります。少なくとも、私は納得していなかった。だって、東大クラスの友人15人のうち、10人が東京大学に進学したんですから。たまたまセンター利用で受かったにも関わらず、他の受験失敗組と同じく、はじめての授業の顔合わせで、「なんてレベルの低いところに来てしまったんだ」と思っていました。そこには世間の評価もクソもありません。僕にとっての「早稲田」はあなたにとっての「慶應義塾大学」かも、「名古屋大学」かも知れないし、「南山大学」かもしれない。「愛知大学」かも、「愛知学院大学」かも知れない。または、それは「専門学校」かも「高校」かもしれない。それは周りの環境と自分の意識でどうとでもいえることです。

不遜にも「だったら、俺が早稲田を盛り上げてやろう」と考え直すことで、前を向くことができ、充実した大学生活を送ることができました。大学の寮長、ビジネスコンテスト優秀賞、議員インターン、ベンチャー企業へのインターン、奨学生に選抜、早稲田大学内の特別選抜ゼミに入ることができるなどなど、勉強では「あいつら(東大の同級生)」に勝てないと思ったから、いろいろなことにチャレンジしました。僕は「秀才」でないことを受け容れました。なにもできなかった僕は、小学生以来、勉強以外、自分を支えるものがなかったので、これを受け入れるのは正直、辛かったです。自分は周りよりちょっと勉強ができる凡人でした。

しかし、そこで私は気が付かないうちにレベルの高い「当たり前」を手に入れました。自分のなかでの「普通の努力」が、周りからみると、「すごい努力」になっていました。社会人になっても、挑戦を続けていき、自分が知らない自分を発見していき、自分の勝ち方が分かってきました。それまでに、何度、泣いたでしょうか。心身のバランスを崩して会社を辞めたこともありました。八つ当たりをして大事な人を傷つけてしまったこともあります。

仕事をする上では自己満足になってしまうので努力だけではいけないんですけど、少なくとも踏ん張りどころで踏ん張れる力は身につきました。ですので、武田塾の林尚弘塾長との出逢いで一気に上昇できた気がします。

結果もだけど、やりきることで多くを得られる

もちろん目の前の壁を越えようと努力して乗り越えることも大切なのですが、それだけが全てでないと言うことは伝えておきたいと思います。結果は出なかったですが、その度に、私はいままで見えていなかったものが見えるようになっていきました。

人生は新しいなにかを作り上げるだけじゃなくて、今の自分が気がついていない自分の魅力に気がつくのも大事なのかもしれません。簡便に言えば、積むだけじゃなく、掘るのも大事なのかもしれないということです。

だから、やり切らずに失敗や成功をしてしまった人は、よくも悪くも自分の勝ち方というものを探す機会を失っているといえます。壁と挫折がなければ、自分の当たり前を疑うことは難しい。変わろうとしない。こういう人たちはうまくいかなくなったときに本気でやっていなかったからと自分に言い訳をすることができます。

だから他の道を選んだときに必死になってやるということがなかなかできません。自分の限界を感じて自分にはこれしかないという覚悟が決まっていないからです。あっちの選択をしていれば…といつも愚痴ばかりを言います。

しかし本気で物事に取り組んだ人は結果がどうであれ、そこで学ぶことが多くあります。自分はその分野に秀でているとか、どうやっても自分はそこでは勝っていけないとか、そういう自分の勝ち方を見つける機会を得ることができます。

自分の可能性の天井が一生懸命やることによって「自分に見えてしまう」ということはとても辛いことではありますが、「逃げるは恥だが役に立つ」と云うように、その道から逃げることが必ずしも、あなたの不幸になるというわけではなく、それがあなたの幸せになることもあるのです。

幸せに向かうには勇気がいるのです。逃げるのではなく、幸せに向かうのだ、と考えられるには勇気がいる。そのためには一生懸命やって、挫折をし、「悔しいけど、やりきった」という笑顔で、すがすがしく次のステップに向かうしかないんです。今と自分を見つめ、受け容れ、それでも幸せになろうとする意思の力が幸せなのかもしれません。

大学受験は「自分らしさ」を見つけるための一つの手段

大学受験も、自分の勝ち方、自分なりの幸せの掴み取り方を学ぶ経験だと僕は考えています。受験だけじゃなく、大人はいろいろな挫折の中で自分なりの勝ち方というものを探した経験を持っています。その数が多ければ多いほど、「自分」というものが分かっていきます。

人は全知全能の神様ではありません。私にも長所があり、短所があります。そしてそのバランスは、私しか持っていません。それを人は個性と呼ぶのです。人間には個性があります。全部、長所とは言えません。だからいろいろなことにチャレンジして、自分の長所を発見していく必要があります。受験もその経験の一つです。

だからあなたが必死で頑張っていれば結果はどうあれ、それを責めるような保護者の方、先生方はいないと思います。もちろん私たちも責めるようなことはしません。なぜなら、私たちは痛いほど、「努力したからといってそれがいつも報われるとは限らない」と身をもって学んでいるからです。

今、死力を尽くして頑張ると言うことは、いずれにせよ自分に隠された才能に気がつくためのチャンスだと考えてほしいです。これは受験だけの話じゃない。このあとの就職活動、昇進試験、経営、いろんな場面で君たちは自分の限界を知ることになる。つまり、今まで経験したことないことに真剣に取り組むこと、言い換えるとすると、挑戦を続けていれば、必ずどこかで挫折をします。理不尽という意味では、もしかしたら恋愛で感じるかもしれない。

その時は深い失望とともに、しばらく経って自分の勝ち方というものについて本気で考える時間があり、そしてそれに向けて力強く生きていこうという決断があります。誰に笑われても、嫌われても、「そうしていこう」と決める瞬間があります。

しかし、このように頑張った経験がなければ、他人にも同じように一つの勝ち方で勝つことを強制してしまいます。それはひょっとしたら、まだ見ぬ、あなたの子どもに対して向けられるかもしれません。あなたが勉強で頑張らなければ、あなたの子どもに勉強を強要してしまうかもしれません。結果や成績に異様に執着してしまうかもしれません。

自分に対しては結果に厳しくあるべきですが、他人に強く結果を求めてはいけないと僕は思っています。そうしてしまうのは、圧倒的な負けを知らないから、かも知れないのです。私たちも使いますが「結果がすべて」というのは激励の手段に過ぎません。私の同世代でもそれを勘違いしている人がいます。その言葉を相手にぶつけるのは、「論破すれば勝ち」の思考ですし、幼稚であるとさえ私は感じます。他人に使うものではありません。

「結果がすべて」の結果はあなたが死ぬときだ

もし、仮に「結果がすべて」だとしたても、それは、あなたが死ぬときに「いい人生だった」と思えるかどうかです。一回、一回の挑戦で結果がダメだったからもう全てがダメだ、とはなりません。高く跳ぶためには一回しゃがまないといけないときもあるはずです。成功のための失敗は、失敗じゃなくて経験でしょう。あなたがここからなにかを学んだらそれはもはや単なる失敗ではないはずです。

将来、誰かに結果を求めたくなるとき、「寛容になれるか」、「豊かな心で同じ方向を見られるか」は、あなたたちが、今現在の生活にどれだけの強度を持って生きているかにかかっています。真剣に挑戦していますか。それがあなたの歴史になったとき、圧倒的な負けを知っているから優しくなれる。いろいろな世界があることを知ることができる。

長くなりましたが、今一度、自分に問いかけてほしい。あなたはどのタイプの大学受験をしているのか。もし、まだ余力を残しているなら、今からでもやりきってください。そこから生まれた成功と挫折は必ず意味を持つものです。そのやりきった自信と経験は必ず次に繋がる。自信をもって次の成功へと向かえるんだ。

結果は結果だ。だからそれを受けて必死にやるしかないじゃないか。成功も失敗も主観だ。客観的には経験でしかない。次の成功につなげたら、その失敗は成功への布石になる。「勝ってから泣け」、さあ、気持ちを切り替えて必死にやるぞ。合言葉は「勝ってから泣け」、まずは自分に打ち勝とうじゃないか。

結果は神様しか知らないけど、その過程は自分が一番よく知っているはずだでしょう。なにより、その経験をしたあなたにしか語れない言葉があり、そしてあなたをまっている人が、この世界には、かならず、いる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?