人生を向上させたいのなら恋人は作らない方が良いのか?
近年、「人生を向上させるためには、恋人は作らない方が良い」という風潮が広まってきている。
簡単に言えば、恋人が存在することで生活に「甘え」が出来てしまい、現状に満足して努力できなくなるという話。
例えば、「受験期は恋人を作るな」という教訓はよく耳にしてきたと思う。
受験を理由に別れたり、そもそも男子校/女子校という形にしたりして、恋愛を排除しようとする動きは一般的である。
たいていの自己啓発系の情報発信者も、「恋人は自分が成長してから作れ」といった話に同意している。
近年の晩婚化の一因も、結婚することによって貴重な20代のキャリアに遅れが生じる事への懸念があると思う。
今回は、この件に関して持論を展開していきたい。
人による
結論人による。
こんなしょうもない結論でこの記事を締めくくったら、貴重な時間を割いて下さった読者の皆さんに合わせる顔がないから、もう少し掘り下げると、「深い人との繋がりに喜びを感じる人は、この限りではない」ということ。
元の意見を主張する方は皆、口をそろえてこう言っている。
「恋人がいる方が幸せとか、結婚が幸せの象徴というのは、単なる思い込みに過ぎない」
しかし、この主張はジレンマを生んでいる。
何故なら、「恋人を作らずに人生を向上させた方が幸せという考え方もまた、単なる思い込みに過ぎない」からである。
何をもって幸せを感じるかは個人差がある。
経済的に成功し、大勢の人から注目を浴びることで幸せを感じる人もいれば、家族や友人などごく限られた人間からの承認で幸せを感じる人もいる。
私は圧倒的後者である。
偏見だが、(私と同じ)内向的な人間は後者側に傾向が偏っていると思う。
私は以前、Youtubeでチャンネル登録者数を何千人と伸ばし、日々感謝コメントや高評価を貰う機会に恵まれたことがあった。
勿論、承認を得られることは素直に嬉しかった。
でも、心の奥底はいっさい動かなかった。
反対に、私のごく限られた心を許した親友や、恋人と関わっている時間は、何にも代えがたい喜びであると感じる。
弱い事は、悪い事ではない
なぜ自分がこのような傾向にあるのかを自己分析したとき、それは幼少期の経験に帰着した。
今更恨んでいるものではないが、私は幼少期、家族から無償の愛や承認を貰っていると感じる事が出来なかった。
いつも他の家庭の子どもと比較され、スポーツや学業で結果を出さないとうちの子じゃないと言われたことがあった。
ただ「あなたはあなたで良い」と言って欲しかった。
このような幼少期の経験から引きずっている自分の特性を、治さなければいけないだとか、甘えだと言う人も多い。
勿論、歯科矯正のように明確に改善方法が確立されているのなら改善した方が良いのだろうけれど、残念ながら性格を意図的に変えることは簡単ではない。
私も色々努力してきたけれど、結局、深いつながりを求めるという心の渇きを治療することは出来なかった。
だから、私は自分を受け入れることにした。
弱くて良い。
愛する人に甘えて良い。
そうやって自分に課した足枷を外してからは、人生が幾分と生きやすくなった。
勘違いして欲しくはないが、実際問題恋人がいれば逃げ道が出来て、パフォーマンスが落ちるというのは概ね正しいと思う。
その事実から目をそらしているのではなくて、その事実を承知で恋人や自分と向き合っている。
何をもって善とするか
また、自分が人生に求める価値観、言い換えれば「正義」によってもこれは変わってくると思う。
結果が全てだという価値観の人は、恐らく恋人を作って逃げている自分を許せないと思うだろうから、確かに努力優先の20代を歩むことは正しいのかもしれない。
でも私は、結果よりも「人を傷つけない」という道徳的な価値観を特に重んじたいと思っている。
その価値観は経済的成功とは無関係であるため、わざわざ恋人を犠牲にしてまで成功する意味を感じられないのである。
余談だが、大学で恋愛にまつわる話を耳にすることがある。
その中では時折、手が震えるほど拳を握りしめてしまう話に出くわしてしまう。
それは、相手の尊厳やアイデンティティを踏みにじる行為。
「向こうは付き合っていると思っているけど、こっちは単なるセフレなんだけどな」と言うような話や、異性の容姿を本人へ直接馬鹿にする瞬間には思わず手が出そうになる。
私はー経済的な成功なんかよりも寧ろ、相手を尊重できるような人間になりたい。
不慮の事態
本当のどん底に堕ちた時、人は人間を、そして自分ですら信じられなくなる。
私は大学1年生の時にどん底を経験した。
毎日死ぬことばかり考えていた日々。
誰も信じられなかった。
そんな時、どんなにめちゃくちゃな精神状態でも、どんなにネガティブな人間でも、恋人はずっと傍にいてくれた。
恋人がいなかったら、私は恐らくもうこの世にはいないだろう。
その意味で、打算的に恋愛を捉えることはそこまで有用なものではないと思う。
人生は、どんなに頑張っていても、どんなに良い人間でいようとしても、時に運によって絶望的な不幸に見舞われることがある。
病気、災害、事故、事件…。
それは、恋人を犠牲にするような努力によって絶対的に避けられる不幸ではない。
そんな時、最後に味方してくれる人がいるかいないかは、本当に重大な問題だと思う。
勿論、それは恋人に限る話ではないけれど、何はともあれ打算的な人生の歩み方は、そこまで確実なものではない。
結局恋人はいても良い派に傾倒しすぎた感があるが、何かしらの参考になれば嬉しい限りである。
おわり
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