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「自分じゃないものになりたいと思う?」

「私は植物になりたい。感情をもたなくていいから」
22歳のとき、渋谷のスターバックスでMちゃんがそんなことを言った。
Mちゃんは新卒で仕事を始めたばかりだった。すこし疲れていたようにみえたけど、具体的な悩みは教えてくれなかった。
私は「植物になりたい」Mちゃんの気持ちがちょっとわかった。
わかっちゃったからこそ「逃げてる」と感じた。だから「植物だって生きるのに大変だと思う」と答えた。

この間、川上弘美さんの『某』という作品を読んだ。
その中で、こんなやりとりがあった。

「そういう枝葉末節(しようまっせつ)は、どうでもいいの」
「枝葉末節じゃない、本質だよ」
「カワウソのくせに、なまいき」
「生物を差別してはいけない」
「ほんもののニホンカワウソは、そんなにもっともらしいことは言わなかったと思うよ」
『某』P,331~332(川上弘美著、幻冬社、2019年)

主人公のひかりが、VRの中でカワウソに化けたAIに「カワウソのくせに、なまいき」と言う。
AIはそれを「差別だ」と言う。

私もMちゃんの言葉をそう理解した。Mちゃんが「植物なら感情をもたなくていいから、きっと生きるのがラクだ」と人間以外の生き物を差別しているように感じた。
だから植物のことをよく知らないのに、感情的に「植物だって色々あるよ」とMちゃんを批判してしまった。
しかし、本当のところ、Mちゃんの言うように植物って感情を持たないのだろうか。

『植物は<知性>をもっている』(ステファノ・マンクーゾ著、久保耕司訳、NHK出版、2015年)という本の中では植物の”感情”に繋がる”感覚”についていくつかの例が書かれている。
たとえば、トマトは昆虫に襲われると数百メートル離れた他の植物に”匂い”でSOSを伝えたり、”音楽”を聴かされて育ったブドウはそうではないブドウより生育状態が良かったりする。

では、"感情"はどうか。
これについても、1966年〜バクスター博士により研究がなされている。
博士の、植物に電極をつけた実験によると、植物は空間的に繋がっている別の生き物の感情に同調することがわかっている。
たとえば、犬を不安に感じる女性や、クッキーをもらえると期待する犬や、熱湯をかけられ死んでしまうシンクの中の微生物に同調していた。
(『植物は気づいている』クリーヴ・バクスター著、穂積由利子訳日本教文社、H.17年))

植物もストレスを感じるし、他の生き物の感情に同調することもできる。
だから植物を「感情をもたない」ものとしてとらえることはできない。

しかしもし「植物も感情をもっているのだから、Mちゃんの望み通りにはいかないよ」と伝えても、Mちゃんの悩みの核心に触れたような気はしない。
私が「植物になりたい」って言ったMちゃんの気持ちをちょっとわかると思ったことも解消されない。

『某』では

「カワウソのくせに、なまいき」
「生物を差別してはいけない」

という会話の後に

「ほんもののニホンカワウソは、そんなにもっともらしいことは言わなかったと思うよ」

と、ひかりが続ける。

文字通り受け取れば、ひかりはカワウソを人間より下にみている、と解釈できるかもしれない。
けれどこの「もっともらしいこと」という言葉には、「表向きはいかにも筋が通ったこと」(三省堂 大辞林 第三版) というマイナスのニュアンスが込められている。

カワウソはきっと、本当っぽいことをあれこれ考えて、こねくり回したりしない。
そんないかにも本当っぽいことを考えたり、言ったりするのは人間だけだという、ひかりの自虐的ニュアンスがある。

話をMちゃんに戻すと、Mちゃんもひかりのように自虐っぽく言っていたのかもしれない。
(感情なんてものをもたなくていい)が隠れていて、「植物になりたい」という言葉になったのかもしれない。

だけど、さきにみたように、植物もいくつかの実験により”感覚”や”感情”をもっていることがわかっている。
”植物”はMちゃんが本当に望むような姿でない。 


それでも1つだけいえるのは、Mちゃんのなりたい”植物”はきっと、Mちゃんのように「人間になりたい」とは思わないことだ。

自分を超えて他者になりたいと願うこと・種すら超えて異種に変わりたいと願ってしまうこと、それこそ、人間だけがすることだ。
Mちゃんはまさにこの「他のものになりたいって思ってしまうほどに自分が人間であること」に疲れていたのかもしれない。

『某』の主人公・ひかりは物語の中では、「誰でもない者」と呼ばれている。
その前は、ハルカだったり、武夫だったりと、違う名前をもっていて、変化を繰り返してきた。その変化によって、死ぬことすらなかった。
しかし、あるときひかりは”人間”へと変化する。その理由をひかりはこんな風に言う。

「誰でもない者、じゃなくて、ひかり、になっちゃったから」
「よくわからないよ」
「わからなくてもいいよ。みのりは、みのりのままでもいいし、これから先どんどん変化してもいいし。でもあたしは、ひかりになることを決めたんだ」
(『某』p,358)

『某』では”常に他のものへと変わろうとする”「誰でもない者」でいることを否定することはないし、”変化をやめ”「ひかり」を選んだひかりを強く肯定するわけでもない。
その問いは、ひかりが死んだ後、みのりにたくされる。物語は「みのり」が、「ひかり」に変化して、ひかりにさよならを告げるところで終わる。

改めて考えたけど、やはり、私には「植物になりたい」Mちゃんの気持ちを解決する方法も、かけてあげられる言葉もみつからない。

だけど、私は、人だから、他のものになりたいと望む。
それと同時に、人だから、自分というものを選びとることもできる。

私は、そのどちらでもいられるのだということを忘れないでいたい。

カワウソや植物は「これだから、人はもっともらしいことばっかり言っちゃって」と笑うかもしれないけど。

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