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「こちらあみ子」のあみ子になりたかった。

今村夏子さんの書く小説が好きだ。
『木になった亜沙』も『むらさきのスカートの女』も、暴力に対する捉え方が異質だから。
いや異質なのは、こんなに平然と存在するはずの暴力に、敏感になってしまっている僕たちの方かも?と価値観が揺さぶられる。

とにかく、暴力が真顔。証明写真撮られてる時とか、大学の気まずい飲み会の時とか、それぐらい、真顔。
小説や映画だから嘘をつけるのに、逃げない。
暴力に誠実。

だってそういうもんでしょ?って思想が突きつけられる。
まあ確かに、そうかもしれない。暴力は確かに、僕たちの近くにいつも存在している。
怯えるのは疲れるし、僕たちは生きるだけで精一杯だから、忘れているふりをしているだけだ。そして暴力は恐ろしいことに、僕自身の中からも絶えず漏れ続けている。
暴力とは何も、殴ったり蹴ったりするだけじゃない。
もちろん殴ることも蹴ることも暴力、最低最悪な行為。
だって痛いし。殴られたところとか、赤くなるの通り越して青くなるし。歯向かうことなんて選択肢にすら浮かばない。
でも、それだけじゃない。

人格の形成。存在の否定、矯正、強制。
自由なはずの価値観、視点を、ルールとか空気とか、他人のプライドとかが奪っている。
それがとても当たり前のこととして、社会が回っている。
今村夏子さんの小説からは、そのことにある種の諦めすら感じる。だって抵抗するのって難しいし、抵抗できるなんて、それこそ嘘だし。

例えば映画の冒頭、義理の母であるさゆりは、大好きなのり君(と、のり君が書く文字)を見るために書道室を覗くあみ子に対して、

「いけません」
「ちゃんと宿題して毎日学校にも行って先生の言うことをちゃんと聞けるんだったらいいですよ。できますか?授業中に歌を歌ったり机に落書きしたりしませんか?ボクシングもはだしのゲンもインド人ももうしないって約束できますか? できるんですか? できますか?」

引用:「こちらあみ子」パンフレット中の台本

と、早口で捲し立てる。
このシーンはあみ子を取り巻く暴力として、とても象徴的だったように感じる。
まあ確かに、書道教室で金銭的利益を得ているさゆりにとって、授業を邪魔されるのは溜まったものじゃない。ましてや自分の子供ではない(なんて気分の悪い表現)あみ子から解放される時間でもある書道教室だ。書道教室にはのり君をはじめとして、無関心で無抵抗でだからこそ社会にとって理想的な生徒ばかりだ。
平穏。平和。しかしそれは、あみ子への抑圧の元に成立している。

これを平和と呼んでいいわけがない。

やっぱり悔しくなる。
僕とあみ子は映画を隔てて存在しあっているので、僕はあみ子には何もできない。
例え映画を隔てていなくても、僕の目の前で同じことが起きていても、僕はあみ子に何もできないだろう。
それがなぜかというと、僕とあみ子は他人だから。
他人の暴力には触れないでいた方が良いという価値観を僕が持っているから。当事者でない者が介入して、良い方向に働いた前例が自分の人生にはない。
なのに、こんなにも悔しい。
理由が分からなかった。
あみ子の自由な行動に笑いを誘われている観客も劇場にはいたが、僕には笑えなかった。この自由さがキラキラ輝いていて眩しくて羨ましくて、だからこそキラキラを奪おうとする邪な社会が許せなかった。
しかしあみ子はそんな僕の心配(同情?)も振り払う。頑張れと応援する声も、気持ち悪いと制圧する声も、どちらにもあみ子にとってはどうでも良いことかのように、あみ子が見ている世界の、あみ子が気になる物事に向かってひたすら走る。

その時に分かった。僕はあみ子になりたかったのだ。
自分の世界の中で自分が主人公で、他の人にどう見られているとかどう思われるとか、そんなのどうでもよくなるぐらい、自分自身の中から生まれる感情に素直になりたかった。そして世界の方も、そう思わせてくれるほどキラキラ輝いていたはずだ。
あみ子がなんでもない道で側転をしたくなるみたいに、幽霊を怖がるみたいに、クッキーのチョコの部分だけを頬張るみたいに、
僕が見ている世界はもっと僕のためにあったはずだった。

とにかく映画の中のあみ子が輝いていて、それはカメラの置き方や音の乗せ方によるところも非常に大きいが、やはりあみ子の存在感が(演技がどうこうのという話ではなく、あみ子が持つ根源的な純粋さ)僕に語りかけてくるのだ。

あみ子は死に手を振ってさよならをできたのだから、僕もそうしようと思えた。
だからあみ子も負けずに頑張って。と、祈るような映画だった。
(その祈りを感じたのも、あみ子の既に亡くなった母親からの視線を意識したカメラによってもたらされているのかもしれない。)

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