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処女失格(3) つぼみのアリア

 僕はここで待ってるから、その唇を奪いに来て。
 巽清隆お得意の、深い水底のようなEDMサウンドとともに歌詞が紡がれている『つぼみのアリア』。
 初めての恋のはずなのに、夢で何度も会っていた運命の人。
 紅の薔薇がほころんでゆくみたいなその感情に戸惑いながらも、僕は孤独の中で歌うのだという。

 ……そんなもの、理解できるはずないじゃないか。
 私が分かる愛おしさとは、傍らで手を握って添い寝してくれる清隆さんの優しさみたいなものだ。
 それはある意味大人、とも思えなくもないが、人生で一度くらいはほとばしるような熱情を感じてみたいのだ。
「……明里、だったら……」
 肩に毛布をかけ、明け方までそばにいてくれる人が、「お姉ちゃんのことが好きなの」と言っていた彼女だったら。
 私はその唇を受け入れるのだろうか。

 哀しいけれど、きっとそれは難しい。
 明里が女じゃなくたって。
 明里が妹じゃなくたって。

 体調の思わしくない私は、日が昇ると清隆さんの車に乗せられ、少しの間自宅療養をするようにと言われた。
 明里が弁当で持たせてくれていたおにぎりを、結局吐いていたのを見られたのだろう。
「謝らなくたっていいんですよ。私も、倒れられちゃ困るなんて言って余計にストレスかけてたのかもしれません」
 頭がクラクラして、吐き気がして胃が痛い。
 それが段々と、生理前のせいなのか胃腸炎のせいなのか分からなくて疲れる。
 息が何となく苦しいのも、マスクのせいなのかストレスのせいなのか分からなくなってくる。
 こんなに苦しいのに、内科では随分と待たされた。
 要するに、苦しい割には軽症だということなのだろう。
 何種類か薬をもらったのち、胃になるべく食べ物を入れない方が早く治るからなどと、かかりつけ医に言われた。

 家に帰ると、明里がヒヤヒヤした面持ちでパジャマを持っていた。
「お姉ちゃん! もう、そういう時ばっか意地張って!」
 私は「情けない」と言いながら苦笑した。
「そんなのもういいから寝てよ。家のことは私がするから。あとはもう薬飲んで、お祈りするしかないんだからねっ」
 明里がいそいそと上着を脱がす。
「あらまぁ、グータラなキリスト教徒でも真面目になるのね」
「本当ですね巽さん。私ってばもう……仏教で言うとこの煩悩まみれでしょうにね」
 ちらりと振り返ると、清隆さんと明里が微笑みながら睨み合っていた。
 普段の清隆さんはのんびりと落ち着いた口調で毒を吐くのだが、毒が毒のままなのは確かなので結構短気な人だ。
 頭の毛細血管がブチ切れていなければいいのだが。
「ちゃんと、あの佃煮食べてやってくださいね」
 うちの妹は、意外と喧嘩好きなのかもしれない。

 怠惰なクリスチャンのお祈りと西洋医学のおかげで、私は一週間ほどで元気になった。
 それでもやっぱり、明里のことが気にかかる。
 せっかくの美しいリボンがもつれてしまったのを見るみたいで。
 もう体調は良くなったというのに、明里はニヤニヤしながら私の服を脱がすのも妙だった。
 明里は、大学の春休みだからという理由で暇を持て余しているのだ。
「えへへ。お姉ちゃんの看病できるって幸せだなぁ」
「もう着替えくらいできるってば」
「えー? でもこういうのいい気分にならない? お姫様みたいで」
「やだなぁ、それどっかのお姫様じゃんか」
 両親がまだ仕事から帰ってこないのをいいことに、明里はいつもよりも密着してくる。
「本当になれればいいのにね」
「えっ」
 私たちを傷つける過去さえなければ。
 私たちが、赤の他人だったなら。
 タラレバを積むだけで山が出来上がる。
「私のことは姉じゃなくて……女として好きなんだろ?」
 明里が肩を震わせた。
 鈍い人間なりにも、これくらいのことなら察した。
「怖いの? 私が、明里のお姉ちゃんだから」
 彼女はしばらくの間、青い顔をしていた。
「……キスをしたの。お姉ちゃんがいばら姫の夢を見てたあの日」
 かすかに声を絞り出し、ようやく白状した。
「お母さんがお父さんと再婚して、一緒に住んで十年の間……彼氏を家に連れてこなかったのはそういう意味なの」
 そう言われて、私は改めてこれまでのことを振り返った。
「……クソっ……ガキかよ。アホかよ。私どんだけ鈍かったんだ……っ」
 かすかに耳鳴りを覚え、私は額に手を当てた。
 
 根っこが明るい類のアニメオタクで、友達に恵まれていて、たまに合コンにも行くようなタイプの子だったけど、確かに彼氏の話はなかった。
 それどころか恋がどうというのも一切ないのを気にしなかったが、それは自分が人間のなり損ないだからだ。
 どうして私がいいのだろう。
 同性愛者なのは別に構わないが、どうしてその選択をしたんだろう。
 女の子なんて、他にも可愛い子とか、コスメの話に付き合ってくれる子とか、優しい子がいっぱいいるじゃないか。
 それなのに何で私なの?

「……男はレイプする生き物だから、私なの?」
 苦い顔をした明里は、口をつぐんだままでいる。
「それなら私を、家族を好きでいちゃ辛いじゃないか。明里を怖い目に遭わせたのは実の家族だったんだから」
 私は戸惑いと、緊張を押し殺しながら言った。
 せっかく明里が着せてくれたパジャマだったけど、そのボタンを外した。
 胸元をあらわにしてみせると、明里は私の手を遮った。
「……恋愛に性別が関係するのなら、暴力を振るわない同性じゃなきゃ嫌だっていうなら、私を選ぶなよ!」
 声が震えた。
 その次に何か言おうとしても、吐く息が震えるばかりで言葉にならない。
 頼んでもいないのに涙が溢れた。
「お姉ちゃん、こんなだから。どうせ女らしくなんかないし、どう頑張ったって……できない、からっ……だから、私……ちっとも優しくない」
「お姉ちゃん」
「私、明里の……お姉ちゃんにしかなれない。あか、りの……明里の、特別でいるためには……お姉ちゃんでいなきゃ駄目なんだ……っ」
 こんなの、明里を拒むための言い訳にしか聞こえないだろう。
 本当は、誰よりも愛おしいのに。
「……分かった」
 明里も泣きそうになりながら、私の涙を指で拭うのだった。
「もう、何も言わないでいいから」
 うなずくと、私は子供のようにしゃくり上げた。
 愛してくれてありがとうと言いたかったのに、明里の腕の中で泣くことしかできなかった。
 彼女はなんて面倒で強欲な人だろう。
 それなのにどうして、そんなにも柔らかな微笑を浮かべるのだろう。
 私は明里の虜なのに、大切なものが欠けているのだ。

 柔らかくてなめらかな、少し汗ばんだ白い肌。
 頬を赤らめ、唇と瞳を潤ませているその表情。
 裸の女性がふたりで愛し合う姿は麗しいものだった。
 しかし、彼女が溺れている欲情とか、「百合」とかいう恋愛感情がまるっきり身にしみてこないのだ。
 体をねっとりと触られて、どうしてそんな艶めかしい吐息を漏らすのか。
 その晩ヘッドホンをパソコンにつないで、アダルト動画のサンプルを眺めてみたのだが、私はとうとう分からなかった。
 少女漫画が苦手なのも、多分こういう性格のせいだ。

 それから数ヶ月ののち……おキヨ邸の近所でモッコウバラが咲き始まった頃に転機が訪れた。
「『つぼみのアリア』を、私が?」
 歌詞だけ載った紙が当たり前の今としては珍しく、彼は五線譜を渡してきた。
 一瞥(いちべつ)してみたが、清隆さんの直筆で細かい歌い方まで指示してある。
「向こうには『藍里じゃなくてネイビーです』って通達しときますね」
「またその手法か!」
 わずかに、治ったはずの胃痛が戻ってきた気がした。
「それで『セナじゃなくて椎菜です』ってやってどんだけヤバいことになってるか分かってるんですか!?」
「うちのギャルズは何でもやる子なんで、しくよろ〜☆って返しとけばOK」
 ヘラヘラと笑う屁理屈オネエ。
 彼がそうやって、目元だけが笑っていない類の笑みを浮かべて芸能関係者と喧嘩してるのだろうな、と想像するとなかなか怖い。
「あーでもアレねぇ、バーの連中からちょいちょいツッコミ来てて面白かったわねぇ。ホモの歌歌わすって何なんだってねぇ。いやぁよく分かったわねぇさすがホモ」
「えっ、ほ……っ!?」
「だから、あなたのレコーディングが難航したのも無理はないんじゃないかって、外野から抗議が来たの。安心なさい」
「えぇ!?」
 今になって明かされた衝撃的な秘密に、私は思わずたじろいだ。
「でも、そうねぇ。それ考えた上でも散々だったから、それは悔しいねぇって思って。どうせテレビに出れない身なんだし、うちのスタジオを使わない手はありません」
「いや、でも編集やるの私じゃないですか」
「あー、それはさすがにかわいそうなので、動画周りは組合の後輩に外注しときました」
 組合……要するにゲイ仲間に頼んだのか。
 スタイリストの友達がやたら多いとは聞いていたものの、ウェブ動画関連まで任せられるなんて。
 彼のコネにはつくづく頭が下がる。
「改めて、それをよくよく読んでみてどう思う?」
「うーん」
 やっぱり、妹のことが頭によぎります……とは、なかなか言えなかった。
 その代わり、わざとらしくこういうことを口にした。
「……彼氏のこと、思い浮かびます」
 案の定清隆さんは数秒硬直し、「かれ……し!?」と裏返った声を出していた。
「まぁこのしんどいご時世なので、リモート彼氏ですけども」
「いや〜〜ん!」
 ほらやっぱり。
 こういうゲイのおじさんは、下ネタの次に色恋ネタが好きなものである。
 レッテル貼りして失礼なようにも見えるが、今までの経験から導かれた思いなので勘弁してもらいたい。
「やだぁ、ネイビーちゃんもやっと生意気な小娘になったのね!」
 普段は青白いおじさんの頬も、ほんのり紅に染まるというものだ。
「えへへ、いいだろ。生意気だろ。誕生日にもプレゼント送ってくれたんだぁ」
 私なりの、精一杯の虚勢。
 でもこれはきっと、世の中のことを知らなかっただけなのであって。
「ま、ロジアリのおキヨは絶対相手の男がどうとか文句言うでしょうから、彼のことはこれ以上教えませんけど」
「やだなぁ、意地悪ぅ」
 私は適当にはぐらかした。
 彼氏の正体が、清隆さんにもとても馴染みのある人だと知られたら、どんな風にイジられるか分からない。
「そう。うちのリモート彼氏……だからね」
 三軒茶屋で風呂のない部屋に住んでいるという、ニーハイソックスがトレードマークの彼氏である。
 いわゆる職場恋愛とも言えなくもない。

 彼はもう他の人からあだ名で呼ばれているものだから、私は別の特別な呼び方が欲しいと、冬の終わり頃に思っていた。
 ヒロちゃんじゃ駄目かと問うと、それは昔の彼女を思い出して傷つくからやめてくれと苦笑されたものだ。
 じゃあどうしたものか、免許証に書いている本名をしげしげと眺めて、私は彼を呼んだのだ。
「おい岡元」
 ……結構本気で呆れられた。
 それじゃ高校にいる男子生徒みたいじゃないですか、と。
 でもそういうのが慣れてるしなぁと返すと、童顔の彼は柔らかな微笑を浮かべた。
「そういうとこが、ネイビーさんらしくてぼくは好き」
 今、この笑顔が私にだけ向けられている。
 だから胸がキュンとする感覚を覚えるのか、と、私は他人事のように言った。
「何かそういうとこ面白いっスねぇ。そういう女性はネイビーさんが初めてです」
「そうか。じゃあもっと面白いことをしてみろ」
「え?」
「私を呼び捨てにしてみたら?」
 岡元、つまりあのダンボールベーシストは目を泳がせた。
 だいぶ長い間悩んでいたようだが、彼は意を決した。
「ね……ネイビー」
「……」
 私は腹を抱えて笑った。
「え!? 何ですか、こっちはめちゃめちゃ頑張ってるのに!」
「そうだね、頑張ってる! いちいち反応が楽しい!」
 息も絶え絶えになりながら笑って、涙まで出た。
「君はさ、見た目そんな個性的なのに、中身が真面目な好青年なんだもんね!」
「そ、そうです。だからこれからはぼくをちゃんと、好青年だと思って惚れてくださいね」
 私は目元の涙を拭いながらうなずいた。

 ユウキとか、ヒロちゃんなどと呼ばれていた彼は、黒髪の美しい女性が恋人だというのが本当に嬉しいらしい。
 ビデオチャットではいつも「ネイビーの髪の毛触りたいなぁ」と言って、たまにおキヨ邸で一緒になると、人が見ていない間にポニーテールを撫でてくる。
 そうやってなついてくるのが何となく面白いものだなぁと思って、私は彼と付き合っていた。
 つい清隆さんの前で「岡元」「ネイビー」呼びにならないよう、念には念を入れながら。
「なんだぁ、恋人になるつもり満々じゃないっスか」
「それは君にとっても都合がいいんじゃないか?」
 声が外に漏れないよう、ヒソヒソ声で喋った。
「ですね。昔は妹のみゅんちゃんの方が可愛いなぁとか、ぶっちゃけ思ってたけど」
「今は私がいいんだ」
「いやぁ、だってネイビーさ……ネイビーは最初に見た時怖かったもん。妹さんに顔が似てないしさ」
「確かに似ないね」
「投げ飛ばされちゃうかと思った」
「やだウケる。ひどいなぁ、私そんなことしないだろ?」
 そんなしょうもない話をしてみたこともあった。
「うん。優しい、頼もしいお姉さんだった」
 他の女性からチャラニーソだの何だのと言われて、豚野郎と罵られている青年の笑みは、何度見ても安心した。
 特別なことはしていないはずなのに、彼がそばにいることが特別なのだろうか。
 それでも、小説や漫画で表現されるような「胸キュン」とは程遠くて、友達と喋っているみたいな気分がするのだけど。
 それは、自分が胸キュン状態になっているのに気づいていないだけだとか、ナヨナヨしているみたいで恥ずかしくて、気づかないフリでもしているのか。
 やっぱりよく分からない。
 そんなことを、私はぼんやりと考えていたものだ。
 ほんの少しの間だけ。