処女失格(4) 処女失格
このご時世だろうと何だろうと関係なしに、街なかの小さなスーパーは人で溢れている。
岡元からもらったパステルカラーの布マスクを着けてても、少々不安になってくる状態だ。
「これは……この組み合わせというのは、もしかしておキヨさんにバレてたりしないかなぁ」
「どうなんだか。でも静かだよなぁ、それどころじゃないからかなぁ」
特売品の焼肉セットを手に取りながら、彼はかすかに憂いを秘めた顔をした。
次郎さんの件ではさすがに、ヘラヘラと笑うわけにもいかないのだろう。
「ただ一緒にいるみたいな静かな感じだからさ、誰かがネタにするような何かもないのかな」
何の考えもなしにスラスラ出てきた言葉だったが、彼はこちらを見てハッとしていた。
「長年連れ添ってる夫婦って、友達同士みたいな感覚だって言うし……? いや、どうなんスかね」
「私に聞くな」
「や、ご両親とか……あ、いや、昔のこと思い出すの嫌なら、別にいいんスけど」
「ううん、別にいいんだ。明里の家とは違って、うちは結構幸せだったと思う」
私は、自分の両親のこと……父が再婚する前のことを、覚えている範囲内ではあったがいくつか話した。
いかにもラブラブというわけではないが、そこには深い安心感があったのは確かだった。
暴力沙汰も、激しい言い争いも見たことがなかった。
母が亡くなったのは……それそのものよりも、周囲からことごとく「かわいそう」と言われたことの方が辛かったのも、まだ覚えている。
「お父さんも私も、本当はあんまり寂しくないんだ。実の母親がこの世にいなくても。母親が二人できたみたいな感じだし、元々が何かこう……」
「やっぱ友達みたいな?」
「うん、多分。ほら何かこう、ドラマみたいに燃えるような愛とは逆の感じだからむしろ安心するというか」
燃えるような愛をフィクションのようなものだと思っている私が言うのもなんだが。
「どうなんでしょうね。そういうのってやっぱいいことなのかなぁ」
「いや、他の誰かと付き合ったことないから分からん」
サラッと口に出してから、ひどく後悔した。
百戦錬磨の彼からしたら、私は愚か者に違いないのだ。
「……ば……馬鹿にしないでくれ……」
「え? しませんよ」
知ってた上で付き合いましたし、と付け加えられた。
これは、普通に馬鹿にされてた方がまだマシだった。
「君はチャラいことで有名じゃないか」
「まぁ今まではそうでしたけど……もうそろそろいいじゃないですか」
もうちょっとしたらいい大人なんだし、と彼は言った。
「ぼくだって結婚のことくらい考え始めますよ」
童顔な岡元の目尻を眺めながら、妙に納得した。
そうだった、彼は私と歳が大して違わないのだった。
しかし「もう十年単位でチャラいと、自分で飽きる」と付け加えられたのはショックだった。
「でもたまには、恋人らしいこともさせてくださいね。せっかくこういう関係になったんだから」
きざみニンニクの瓶をカゴに入れる彼の笑みは、キラキラしていた。
本当の意味でその期待に応えられるかどうかはよく分からなかったが、私はうなずいてみせた。
「……いや、今のは冗談っス」
冗談でも、うなずいてみせたかった。
現実は……彼の気持ちを探り、応えようと必死になればなるほど、「恋しているから苦しい」とは別の何かが腹の底に溜まっていくばかりだったから。
女どころか人間の出来損ないじゃないの。
何であんな奴らがレインボーとか言い出すんだろう。
LGBTの皆さんに失礼だわ。
あの辛辣な言葉をただ振り払いたかっただけなのかと思って、私は結局、岡元にちゃんとそれらしい返しができないままスーパーを出た。
「なぁ。私と付き合ってて、面倒くさいなぁとか思わない?」
「え? 何で?」
「だって、私と明里は顔が似てないんだぞ」
「あぁそれですか」
荷物を後ろに積んで、私は助手席のシートベルトを引っ張る。
「みゅんちゃんは今のお母さんの連れ子で、あなたはあなたでなかなか、周りの女の子みたいな可愛い文具も買ってもらえなかったっていうの」
それなりに雑でいたっていいはずなのに、いつの間にか、私の昔のことを知ってたりする。
「それ誰から聞いたの?」
「おキヨさん。本当はクラスの子と同じものが欲しいけど、キャラクターグッズは値段が高いから我慢してた。お父さんには、欲しいって言えなかったんだって」
「でもお父さん、誕生日にはペンケースとポーチを買ってくれたから」
「へぇ。何で買ってくれたの?」
「そのキャラのイラストばっかり、メモ紙に描いてたのを見てたからなんだって。それで、必死にテレビや本屋さんでそのキャラの名前調べて、子供向けの雑貨屋さんに一人で飛び込んで買ったんだってね」
手慣れた様子でハンドルを握りながら、彼は感嘆の声を上げた。
「優しいお父さんって憧れるなぁ。いいなぁ」
いいだろ、と、少しわざとらしく返してやった。
「ポーチって多分手洗いにしても洗っちゃまずいもんだろうけどさ、あの大きさ使いやすいからって未だに持ってるんだよね」
「え!?」
「お父さんのくれた、特別だからな」
ほわぁ、と、彼はやや間抜けな恍惚の表情を見せた。
そこそこいい歳してるのに、こういうところは純朴だ。
「特別かぁ。いいなぁ」
「うん」
「ぼくもそういう、特別な人になりたいなぁ」
「……うん……」
「あなたが、世の中の普通から外れていたとしても」
その微笑に少し悲しみをにじませたのち、彼はあっさりと言ってのけた。
「だって絶対言うでしょ。『そうやって君がそれを勃たせて、中に挿入しようとする意味が分からない。だから私、一生処女でいい』とか」
なんてこった。
私の処女ネタはオネエの自虐ばりに使いまくってきたものだが、こうやって他人に口にされると切ないものだ。
「そ、そこまで変なのか? 人から褒められるような個性はないのに変なのか? 君からも指摘される程に!?」
岡元は相当困った様子で、その最後の文言何ですか、と返してきた。
「あの……そんなに褒められないもんですかね」
「『胸が大きい』は褒め言葉に入らん。『優しい』と『黒髪が綺麗』以外で、褒めてくれる人は多分いない」
だから夢は、ただの夢なんだ。
その深い失望を言葉にすると、ますます自分がみじめに思えてきた。
助手席に座っていて本当に泣きそうになった時、岡元はこちらをチラリと見てから言った。
「それでも特別な人になりたかった」
と。
「いや……やっぱ『なりたい』なんです。ぼくらは最初から、恋人同士じゃなかったもの」
彼に内心を見透かされるような経験をしたのは、これがおそらく初めてだ。
「恋なんてもういいでしょうよ」
いつものゆめかわ、というか少々頭の悪そうな声色とはまるで違う、憂いを秘めた声だった。
でもすぐにいつものウザったい明るさを取り戻し、「ま、これからぼちぼちってことで!」と岡元は言った。
そしてこの、『つぼみのアリア』の新録の件に戻るわけだ。
動画投稿用に楽曲をレコーディングしたのち、私はあっさりとした態度で言った。
「清隆さん、さっきは……本当だけど嘘のこと言ってました。そいつ彼氏ではないです」
どうとでも解釈できる言葉を選んだつもりだった。
案の定、清隆さんは目をギョッとさせた。
「えっ……!? そ、そう」
「まぁ、誕生日プレゼントくれたのは本当ですが。向こうからすると、私は友達と付き合ってるみたいだったらしい」
「えぇ? まぁそうね……」
こちらには聞き取れない小声で、何かブツブツと念仏みたくつぶやく清隆さん。
「よくよく考えれば、あなたに化粧っ気がないのも服のセンスがひどいのも、何も変わった様子なかったしねぇ」
私は苦笑した。
「いや、どうも他の女の子って……恋人にだらしないとこは見せたくないらしい。相手に好かれたい一心でキャラを偽るみたいなのも」
「らしいって何よ。いくら恋愛に縁遠いからってそれは」
恋多きおじさんにたしなめられた。
彼は呆れたような顔でこちらを見たのち、ボソリと言った。
「友達みたいって……結婚して何年か経って、ニャンニャンのご無沙汰になった夫婦の付き合い方よね。それでも夫婦は夫婦なの」
その言葉が少し、胸を締め付けるのだった。
「やだなぁ、そんな今更、オネエのおじさんにお世辞みたく言われても」
「いいんじゃない?」
「え?」
「そのボロボロ具合の割には、歌声に感情が乗っかってて面白いことになってる」
呆れた表情なのはそのままだったけど、彼はかすかな笑みを浮かべていた。
「……藍里ちゃんは、そこら辺のイケメンより家族の方が好きだものね」
何だそれ、結局いつもの毒舌かと返すと、清隆さんは首を横に振って、私の肩をポンと叩いた。
「何か知らないけど、色々吹っ切れたんじゃない?」
「うーん……?」
「いい歌ができたわね。本当に」
自分ではあまりそんな気分ではない。
ただ、以前はやけに叱られていた箇所も褒めてくれたなぁぐらいしか。
「それもまた、女の幸せってものよ」
清隆さんは「女じゃないから分かんないけど」と、愛嬌と毒の入り混じった……そして、安堵まで含む笑顔を見せた。
私が胃腸炎で倒れていた冬の日、清隆さんは独り言をこぼしていた。
「娘を世話するってこういう感じなのかな」
元気が有り余っていたなら「私を勝手に娘にするな!」と即座に返していただろうが、ただ聞くしかできなかった。
「あいつも、奥さん亡くしてからしばらくは……こうやってお世話してたのかしらね。小さい頃の藍里ちゃん、学校に行くとよくお腹が痛いって言ってたみたいだしね」
確かにそれはそうだった。
騒がしいばかりの集団生活にあまり馴染めず、何の役に立つかも分からぬ授業を受ける意味が見いだせなかった私は、親に心配をかけさせまいと頑張っていた。
本当は学校が辛いと言えなくて、お腹が痛いと訴えるのがやっとだった。
でも結局は、テスト当日にお腹を壊したり、ひどいと熱まで出していた。
子供のうちは、いじめの有無とかじゃなくてあのシステムそのものが苦痛なのだと伝えられなかったのだ。
そんな本音を伝えてしまえば、大事な人を失った父を傷つけ、悲しませると思って。
「娘を守ってあげたいっていう気持ちって、こういうものなのかしら。可愛い家族のために、一生懸命になっちゃうのか……なんてね」
清隆さんが、私の頭にそっと手を置いた。
「アタシは男同士で子供作れないクセに、こんなこと思ってちゃ……あいつに失礼かもしんないけどね」
失礼という言葉は、文字数の割にはあまりに重たい代物だ。
色々と過去に思いを巡らせたのち、ようやく私は、『つぼみのアリア』を歌ってスッキリしたのを感じた。
「私、誰かに想われることが好きなんだ。でもその気持ちを返せなくて、他の人と同じ方法で返さなきゃいけないものだって、勝手に思ってた。納得できないことでも無理にこなそうとした」
「そうね」
「うん」
「……アタシだって、同性愛を直しなさいなんて何十年も言われ続けたら、怒ったり悲しんだりする元気もなくなっちゃうもんね。世間体を気にして結婚する人もいるけど、それは辛くて無理」
明里の前で涙して、岡元の思わぬ一面を垣間見て分かった。
今の私ができないことは、やっぱりできないと。
「藍里ちゃんは余計な荷物を背負っちゃうから、うまく声が出せなかったのよね?」
私はうなずいた。
短いようでいて長い、苦しみを背負い続ける人生なんて似合わない。
抱きしめてくれてありがとうという気持ちを伝え続けるためには、足取りは軽い方がいい。
大切な人にとってのお姉ちゃんでいたいから。
まず私は事務所を出て、妹に電話をかけることにした。
もう何ヶ月かは関係がギクシャクしているものだから、画面をタップする手は震えた。
しかし……しかし私はどうしようもなく、嘘が下手な人間なのだ。
「明里」
スピーカー越しに、おずおずとした声が聞こえる。
彼女のことだから切られてもおかしくないと思っていたけれど、それを怖がっていたらこの仕事を受けた意味がない。
「私は……明里のことが大事だから、あの答えは変えられないと思う」
しばらく返答がないだろうというのは想定済みだ。
「私、明里のお姉ちゃんでいてよかった。それだけ、聞いてくれればいいから」
『……うん』
告白の断り方としては、間違っているだろう。
でもこの他にマシな言い方が見当たらない。
『私……妹で良かった』
だからこの言葉を耳にした時、安堵よりも驚きの感情の方が大きかった。
『だってお姉ちゃん、彼氏と喋っててもいちいち変わってるんだもん』
「おい、それ盗み聞きしてたのか?」
私がわずかに慌てると、妹はケタケタ笑い出した。
『私が君の彼女になるとはどういうことなんだ? だって。それたまたま聞いてから面白くなっちゃってさぁ』
「ひどいなぁ」
『これじゃあ私、妹でいる他ないじゃないって』
ビデオチャットでヘッドホンをしていなかったら、恋人同士としてはかなり悲惨な様子を丸ごと聞かれていたことになる。
『でもそういうお姉ちゃんも好き!』
おいおいそういうお世辞はいらんと返すと、彼女はまた笑って、お世辞じゃないよと言ってきた。
『……お互い、どこかで遠慮してたからね』
連れ子同士。
こっちは変で、向こうは今どきブームの……でも本当は昔から存在してた、性的少数者。
確かに、なかなかすんなりと本音が出せる状況ではなかった。
『自分にとって特別であってくれって思ってただけだったの。お姉ちゃんのこと。元々はそうだった……はずだったの』
夕方の空から、ポツポツと雨の粒が落ちてきた。