その「つながり」が美しくなくとも、僕はまたつながりたい

※今回はこの記事の続き

 もしかしたら……

 ミムラさんみたいな方がいなかったらあのままブチ切れ続けてて、書けなかったかもしれない記事です。


オロオロさんがいない?

 その後僕はやっぱり逃げるように他の場所へ通って、職場見学などの就活もしていました。
 「出戻り」の前は地活に最大週3日は通っていました。
 でもって、やれフラダンスだの(これは今もやってる。好き)茶道だの、ボランティアの読み聞かせを聞くだのとやっていたのだけど……
 今の、業務がうまく回っていない状態なのに利用者でいるのはキツすぎる!
 何でうちらがあなたがたのフォローをやってるみたくなってるのだ!
 ……というのは当の支援員に言えるわけもありませんでした。
 自分には新しい依存先が複数欲しかったのです。

 そうして、自分の状況がやや忙しくなってしばらく経った頃、あることに気づきます。

 あのオロオロさんがいない……?

 聞くと、「今日はお休みなの」とのことでして。
 そんな日が何度も続きました。
 自分は勝手に、まさか病気にでもなっちまったのかとか思っていたのですけど、休みの理由はぼんやりとしたものしか聞かされません。
 段々と僕の中で、ある疑念が湧いてくるようになりました。
 彼は、この職場に何年も長く留まっているパートさんにいびられているのではないかと。


あの場所は何か違う

 その頃ぐらいから僕は、地活と他の支援機関との比較をし始めるようになりました。

 ちょっと前から就活でお世話になっているジョブカフェ。
(職場に面接できるだけの元気さはなくなったのでハローワークはほぼ使わない)
 ひきこもりへの対応もしていたとのことで、僕は何度か面談をしてました。
 こちらのスタッフさんは僕の事情をよく聞いてくださった上で、生活のしづらさについてアドバイスをくれます。
 本来福祉系の出身ではないはずなのですが、その割には障害者関係の事情に詳しい方です。
 聴覚過敏なので耳栓使わせてください、と言うと、室内のBGMの音量を下げてくださります。
 それから、体調悪くてとうとう就活関連で話すネタがないんだけど……という時も、「最近コウペンちゃんにハマった!」だのという雑談に付き合ってくださいましたし、ご自身についてのお話もしてました。
 おいおいそんなんでいいのかよ……という気もするのですが、「ジョブカフェを居場所として使って欲しい」という思いが感じられるので、今もたまに利用します。

 もう一方は精神科のデイケア。
 入院もできる大きな病院なので、デイケアも規模が大きいです。
 こちらは面談の担当さんがついてくれて、いつでも相談に乗ってくれます。
 相談に乗ってくれるというのは他のスタッフさんも同じです。
 人が多くザワザワした場所は、通うだけで結構なストレスなんだという話も聞いてくださいました。
 「朝乃さんのペースで、無理しないでデイケアをうまく利用してほしい」とのことでした。
 落ち込みやすくて朝起きられない、ストレスでご飯が食べられなくなった、という悩み事でも「コウペンちゃんが!」でも、とりあえず何でも一旦は聞いてくれます。
 そして何よりデイケアのスタッフさんは言葉遣いが丁寧で、感情を荒らげることがありません。
 きっとそのように徹底しなさいと指導されているのでしょう。
 通い始めの頃はこれがよそよそしく見えてしまって怖かったのですが、今となっては
「内心どう思ってるかは知らんけど、とりあえず『仕事として』相談に応じてくれるんだからいいじゃない!」
 と感じます。

 そうなのです。
 地活は何かが異様なのです。


オロオロさんがいなくなった

 2018年、冬が訪れました。
 そこでようやく例の彼が退職したことを知ります。
 僕は心底驚きました。
 だって今まで年度末を待たずに地活から抜けて、社協そのものも辞めていったという正職員は初めてです。
 年度末に辞めていったパートさんなら何人か知ってますが……
 今までの正職員というのは大体、地活担当はやめても社協の他の部署に異動してそこで仕事を続けていたのです。
 これってやっぱり「そういうこと」なのか……?
 そんな状態にさせている当の本人には申し訳ないし、自分の考えが事実かどうかまでは確信が持てないので言えませんでした。
 契約書には「支援員と利用者の立場は対等」などと書いてありましたが。
 本心が言えない状態で地活にいるのは、今までよりもますます不安になりました。


ここにいるのが怖い!

 しょうがない、いないものはしょうがない。
 だってあんなに頼りにしてたクロちゃんを……というか、僕は彼女への依存を何とかしないと、ここではやっていけないのだから。
 クロちゃんがうまいこと現場を回していたあの様子を思い出しながら、僕は何とか頑張っていました。
 だってここは元から、何にしても自主性が尊重される場所。
 外出の計画などは利用者が立てていて、それを支援員がサポートする形になっていますけれども、そこがうまく行かないんじゃ自分らでどうにかするしかありません。

 幸い、年度が変わって少ししたら新しい正職員さんとパートの支援員さんが入ってきましたが。
 それでも何だかギリギリっぽいし……やっぱり新しい人は、若いせいかオロオロしてるし……
 そのこと以上に僕は、普段の雰囲気が変で怖くて、発達障害とその二次障害(うつ病)でしんどいんだってことがすっかり言えなくなっちゃったし……

 大体、「落ち込んで朝起きられない!」と電話越しにベソをかいてやっと「じゃあ今日はお休みね、分かった」ってなるじゃない。
 それ以外だと大体、こちらが精神的にしんどいというのは見過ごされます。
 利用者さんのちょっとした変化は、クロちゃんならすぐ気づいてくれていたのだけどそれがありません。
 僕以外の利用者さんに対してもそうで、そのことに対して支援員さんに怒る方もいました。
 日々の小さいストレスが何年も溜まっているのが自分でも分かりました。

 そして前回の記事の冒頭部分に戻ります。


それはあまりに根が深かった

 半ば、わらにもすがるような思いでいた僕は、彼に福祉に関する価値観を探るような質問をちょいちょい挟みながらも
(彼とはあまり面識がなくて、どうしてもそうやって探る他なかった)
 前々からの疑念をぶつけてしまったのです。

「あそこの人たちはいい人ですけど、どうしてあんなタメ口なんですか。あれでは知的障害のある方に『言葉遣いを丁寧にしなさい』って言っても説得力がありません」
「オロオロさんや他の人は、(地活で長年働いている)パートさんにいびられてるんですか? あれを見てると怖いです」

 我ながらあんまりな質問です。
 しかし彼は真摯に、
「それは申し訳ない。彼女たちには悪気はないんだけど結果としてそうなっている」
 と答えてくれました。

 事情を聞くと、ここの地活は二十年ほど前の……知的障害者向けの施設だった頃からあのような感じだったらしく。
 今は主に精神障害者向けの居場所として存在しているのに、それに準じた対応の仕方が分からない。
 昔の支援方法が未だに通じると信じ込んでいる。
 それを私らは変えようとするけど、彼女たちなりのプライドもあるからなかなかうまく行かないのです、と。

 あぁそうか。
 だから「見えにくい障害」を持つ自分たちが「今落ち込んでてしんどい」と訴えても
「そんな風に見えないねぇ」
「それくらい大丈夫!」
「ちょっと外出れば元気になるよ! 外に出ないと余計悪くなっちゃうよ!」
 とすぐ返されてしまうのか。
 しかもだいぶテンション高めで、半ば子供の世話をするみたいな口調で。
 だからこそ、「無理しないの」の言葉でむしろ怖くなるのか。
 僕はやっと納得がいきました。


残念ながら「ザンネン」だった

 「気さくなおばちゃん」だとみなせば別になんてことはないけど「支援員なのかどうか」が怪しい……という気持ちは正解だったようです。
 これでは宇樹義子さんの本

 の巻末資料にもあった「ザンネンな支援者」になって当たり前です。
 だって彼女らにとって、うちらは専門外だもの。

 一連の事情を知って、やっぱり僕は今年入ったばかりの方たちが心配になってきました。
 見てて明らかにストレスが溜まっているのが分かってしまうのです。
 それは単に彼らが心配っていうよりも「それだと自分は不安になって、地活に通えなくなってしまう」という「自分にとっての話」です。

 それに対して彼は
「今度精神障害者支援のプロの方にお願いして、研修を何回かやります」
 とはっきり言ってました。
 それですぐに体制が変わるわけじゃないけど、それでもやっていくとのことです。
 その誠実さに僕はようやく安心できたのです。


何年もかかって知った、綺麗じゃない現実

 この数年に渡る経験を通じて、支援先を複数探してつながっておくというのは大事なのだなぁと実感しました。
 そして、たとえ福祉の仕事をしている人間が相手であってもただ「理解してくれ!」「配慮してくれ!」と訴えるだけでは全く意味がないことも知りました。
 自分で、自分の生きづらさがどこから来るものなのか、何をどう支援してくれれば生きづらさが軽くなるのかが冷静に説明できなければ、適切な支援を受けるのは難しいのです。

 説明できるようになるためには、自分の発達障害や精神障害のことを調べる必要がありますし、定型発達の方の心のうちというのも知っておく必要があります。

(定型発達の心のうちが分かる、えげつない本のうちの一冊。「障害者を理解しよう」は綺麗事では済まないのが分かります)

 色々と勉強をしてやっと何とかなるわけですから、そこまで何年もかかってもどうしようもないことのかなぁと感じます。
 この「助けられるのにも、知識を集めるだけの能力が要る」というのは残酷ですらありますが、それが現状なのだから。

 僕らは、少なくとも僕は、「社会の仕組みがもっと良くなるといいですね」という言葉に安堵しては仕方ないわけです。
 社会の仕組みが良くなるのを待っているだけでは、良くなる前に死んでしまいます。

 死なないためには自分で何とかしなきゃならない部分もあるわけです。


読んでくれてありがとう

 ここまで長々と書きましたが、読んでくださってありがとうございました。
 精神的にやられて体調不良で、半日寝込むような日々があってもこの記事が書けました。
 もしよかったら、また今度も読んでくださいね!