荒野、鳥は唄う (新刊長編小説)

 少年は夏の日の神社で少女と出会う。少年は少女の心の奥底から聞こえる歌に耳を澄ませる。青年は困難に向き合う人の話を聞く。そして、世界の歪を知り、世界を変えたいと思う。二つの物語から立ち上がる思い。世界はどの時代も複雑に満ちていて、その先にある未来を霞ませる。それでも人は未来に希望を抱き、霞む未来に向かって手を伸ばす。そこに何があるのか?無いのか?そこにあるものの意味を決めるのは誰か。


荒野、鳥は唄う



【書籍情報】

290ページ(30x20レイアウト)
著   者: 浅野 直人
分   類: 人間ドラマ
キーワード: 青春、社会、政治員


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12月19日(月)16:59まで無料で#読了できます

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【著者から一言】

良いこと、嬉しいこと、心が弾むこと。みんな自分の心が幸せを感じる瞬間を知っている。そして、それがどういう時なのかも。それなのに、この世界では幸せだけを感じ続けることは出来ない。知っているのに、出来ないのは何故だろう?

 誰かが幸せを感じている時、その裏で不幸を感じている人がいる。勝負に勝った人は幸せを感じ、負けた人は悔しさを抱える。一つしかないケーキを食べた人は幸せを感じ、食べられなかった人は食べた人を妬む。幸せの量は決まっていて、それと同じだけ不幸がある。それがこの世界なのかもしれない。

 きっと、どんな時代であってもこの幸せの法則はねじ曲げることが出来ない。だから、どんなに人が平和が良いことかを知っていても争いは永遠に絶えることはない。それでも、人は未来に希望を持ちたがる。だから、自分が良いと思うことをやらずにはいられない。

 人は同じことを繰り返す。その時代、時代で環境は異なるのかもしれない。でも、人間の根源は変わることはない。善と悪。創造と破壊。誰かが良かれと思って作り出したものは、また別の誰かによって破壊される。永遠に回り続けるメリーゴーラウンドの上で人は踊り続けるのだろう。



『荒野、鳥は唄う』 第一節

 この世界はもうそろそろ変わった方がいい。

 不意にそんな言葉が頭の中に湧き上がり、しばらく眺めていた。やがて、それは暗闇の中に霧消していった。

 椅子に座ったまま机の上を見ていた。正確に言うと見てはいない。焦点の合わない視線がぼんやりとした映像を写しているだけ。部屋の中は暗く、日暮れが連れてきた闇にあっという間に飲み込まれた。

 色彩を失った暗闇を見る時間は悪くない。視覚情報の乏しい空間にいると、思考が冴える。視覚で消費されるはずの脳のリソースが解放され、思考への割り当てが増えるからかもしれない。たぶん、考え事をするには暗闇が適している。あるいは、何も考えない暗闇には覚醒の時間には得られない場所が確かにある。そこではゆっくりと時間が流れ、静かで心安らかな境地が与えられる。

 とても静かだと思った。意識を持ち上げれば外の世界に音はあるのだろう。でも、その音の存在を認識しないこともある。視覚もそうであるように聴覚にもぼんやりという状態がある。とにかく、今は外界を探る全ての器官がその活動を放棄し、心が体の奥深くで静かに佇んでいる。人は意識せずとも知らずうちにそんな状態に陥っていることがある。ほとんどの人はその状態に対して、存在は理解しながらも特定の感情は持たないだろう。でも、僕はそんな時間が好きだ。

 そして、このような時間の中で起きる現象がある。記憶の海の漂流。仕組みは分からない。でも、無に近い思考の中で過去の記憶が無作為に浮沈を繰り返し、その時の感情をふわりと蘇らせる。僕の場合、その内容は残念な記憶であることが多い。そして、そんな記憶を思い出すと、もちろん残念な気持ちになってしまう。時々、抵抗するように強引に意識を引き寄せ、都合の良い記憶を引き出すこともある。そんな記憶は大抵、甘やかで甘酸っぱい。

 記憶の海の漂流は時に妄想を巻き込み、己の人生の中に蓄積されたカオスの中を浮遊する。側から見れば一見、穏やかな時間を過ごしているように見えるかもしれない。でも、過去の感情の波間に揺れているのは儚い木の葉の船に乗った自分だった。そして、記憶に残る感情は大抵、鋭い剣先をキラリと光らせこちらを狙っている。その存在を認識しながら慎重に波間を漕いでいかなければ、突き刺さった剣の傷跡から流れ出す痛い血を見ることになる。記憶の海の漂流で油断は禁物だ。

 そんな記憶の中でひときわ光を放つ場所がある。それは太陽から届く光が燦々と降り注ぎ、大地から湧き上がる色彩と匂いが辺りを包み込む暑い夏の景色の中にある。色濃く茂る緑の葉群れ。その緑の中に宝石のように散りばめられた色とりどりの花弁。動物や植物、全ての命を育む大地からは濃密な土の匂いが立ち上がる。僕は度々、その場所に赴き、陽の光を全身に浴びながら、胸いっぱいにその爽やかな空気を吸い込み、体を伸び上がらせる。


 闇の中に光が浮かび上がった。間をおかず、聴き慣れたメロディが空気を震わせる。その光と音は記憶の底に沈んでいた僕の意識を一瞬の間に現実の世界に引き戻した。

 視線を光の方に向け、目を細めて光に目が馴染むのを待った。その間も音と振動が空気を震わせる。小さな四角い画面の中に浮かび上がる文字を読み取り、その意味を解読した。手を伸ばし、指先で光る画面に触れる。

「こんばんは」

「こんばんは」

「連絡、ありがとうございます。そちらはどうですか?」

「やることは山積みですけど、まあ、休み休みですね」

「すみません、忙しい中、時間を取っていただいて」

「いえ、こちらこそ。話すことで気持ちも落ち着きますし、いろいろ考えも整理できると思うので」

「本当なら、そちらに行ってお手伝いをしたいんですけど、さっそく、お話を聞いてもいいですか?」

「もちろん、なんでも聞いてください」

 彼の声は元気そうだった。気を張ってくれているのだと思うと、申し訳なく思う。

 先々週、彼の住む街は豪雨災害にあった。丸二日、降水帯が地域に居座り、累計で千ミリに迫る雨量を記録した。街の西側にある河川が急激に増水し、そして氾濫した。彼の家の周辺は大人の胸の高さまで浸水したと聞いた。幸い、死者はいなかった。街は幾つかの支流が流れ込む河川下流の際にあり、彼の住む地区はハザードマップ上で河川から広がる浸水想定区域の濃い色の範囲内にある。さらに、二年前にも彼の住む地区は同じような浸水被害に遭っていた。

「周りの人の様子はどうですか?」

「やっぱり、またかという反応が多いですね。二年前の復旧がやっと終わったと思っていた矢先にまた氾濫ですから。正直、また元通りに戻す気力みたいなものが今はちょっと考えられないです」

「ですよね。本当になんと言ったらいいか、かける言葉が見つからないです」

 沈黙が落ちた。

「二年前の氾濫の後に行政も動いていたんですよね?」

「はい、ハザードマップの見直しや避難方法に関してですね。要は対症対応ですよね。根本的な対策ではなくて。やっぱり、河自体の氾濫を防ぐのは難しいみたいです。どこかを対策すれば、別のところから氾濫するみたいな。それに何十年も問題なかったのに、この三年で二回目ですから。なに、どうしちゃったのって呆然とするしかなくて」

「分かります。ここ数年、災害が多いですよね」

「ほんと、どうしちゃったんでしょうね」

 彼の気持ちは理解できた。

 気候変動の影響で熱波や寒波、火災、集中豪雨など日本だけではなく世界中で異常気象と呼ばれる天災が頻発している。気候変動は気象だけではなく、動植物の生態系にも影響を及ぼす。その結果として作物の不作や未知の感染症などが発生する可能性もある。それはたぶん、人間という生き物の歴史記録が残る範疇では体験したことのない未知の領域を生きてゆくことになる。ここ十年で実際に気象災害や感染症が猛威を振るい、追い討ちをかけるようにこの国では地震が頻発している。さらに、そういった状況下における心理的抑圧を証明するように、人と人、国家間の衝突が増えている。この国は、この世界はどうなってしまうのだろう。そんな気持ちは誰の中にも漠然と存在している。

「別の場所に移ることは考えていないですか?」

「ええ、親との間でもその話は出ています。たぶん、この場所はどう足掻いても、ずっと浸水想定区域から外れることはできないと思います。また浸水被害に会うことを考えたら、その選択も現実味を増すと思います。その辺はもう少し落ち着いたら、一度、考えてみようと思います。もしかしたら、街や行政の方からもなんらかの動きもあるかもしれませんし。でも、やっぱり、知り合いも多いですし、生まれ育った場所ですからね。本当にそうなったら、辛いですね。特に両親はそうじゃないかな」

 彼が吐き出すため息が聞こえてきた。音声だけのやりとりで、映像はない。でも、落胆する彼の表情が見えるようだった。

 泥のかき出しや家財道具の清掃や廃棄。今、行われている作業など、彼の話は続いた。ボランティアで片付けを手伝ってくれる人が本格的に集まり、作業はようやく軌道に乗り始めたとのことだ。だが、経験者である彼はそう簡単には元通りの生活を取り戻すことはできないことを知っている。復旧への長い戦いは再び始まったばかりだ。

「今、必要なものはなんですか?」

「なんだろうな?」

 また沈黙が落ちた。

「ボランティアの人も来てくれているし、なんとか生活もできています。全部なかったことになるのが一番いいと思いますけど、無理なんで・・・。希望かな。もう大丈夫って、なんとかなるって、希望のようなものがあれば頑張れるかもしれません」

 言葉を返すことができなかった。

 何か決定的な打撃を受けた人が求めるもの。それはお金や物ではなく、傷ついた心を支えてくれる何か。そういうものが必要なのだろう。

「忙しい中、お話を聞かせてもらってありがとうございました。不自由な時間が続くと思いますけど、お体に気をつけて日常を取り戻していってください」

「いえ、こちらこそ。話を聞いてもらって、気持ちが晴れました。ありがとうございます」

 通話が切れ、暗闇と静粛が戻ってきた。

 乏しい光の中で浮かび上がる室内の輪郭をぼんやりと眺めながら、会話の内容を反芻する。彼と話してみて、彼は境界を越えられる人だと思った。古い世界から新しい世界へ。彼自身も何かきっかけがあれば自然にそこに向かうだろう。わざわざ危険な場所に執着して、その場所に止まる必要はない。安全な場所があるなら、ただそこに行けば良いのだ。根本的な解決はそこにしかない。それで、彼は不確定な不安という呪縛から解放される。

 僕はこうしていろいろな問題を抱える人たちに声をかけ直接話を聞く。対象は自分と同世代の若者。年上の世代の話は聞かない。彼らはやがて年老いて消えてゆく存在だ。未来の世界を想像するにはこの先の世界を作ってゆく若者を観測するだけでいい。多くの若者と話をする中で、確実に今の若者の価値観は過去のそれから変化していると感じる。権威や物質への執着。今の若者はそういったものに執着しない。むしろ、嫌っている風潮がある。しかし、目の前にある社会システムはそういった過去の価値観の土壌の上に作られたものであり、そこに、軋轢が生じる。その軋轢こそが今、社会の中で発生している問題の解決を阻害している。社会の問題は主に過去の社会システムの歪みから生まれ出る。価値観の変化はそういった問題を解決する手段となり得るのに、そこに行き着けないのはとても残念なことだと思う。

 今の行政はきっと深考もなく彼の街をお金や労力を費やして元通りに復旧しようとするだろう。でも、もう少し先の未来の世界は災害の危険性のある土地は潔く捨てて安全な土地に移り住む。そんなシンプルな選択をする気がする。


 階段教室の中段あたりの端の席に座った。講義の開始まではまだ時間がある。カバンからスマホを取り出し、ロックを解除した。でも、指先は動かず、スマホから目を離し、教室を見回す。半分くらいの席が埋まっていて、あちこちから聞こえる会話が教室内の音圧を上げている。そこにあるのは日常の光景だった。講義と講義の間の時間を無為に過ごす大学生たち。この場所では親や固定したクラスメイトからの抑圧、精神的未熟による躁鬱状態、老化による身体的不具合などに悩むことはない。たぶん、僕らは全世代のなかで最もゆるい環境に存在している。

 不意に肩を掴まれ振り向くと同じ学科の片山がいた。

「たりいな」

「バイト?」

「そう。昨日は結構きつかった」

 片山は僕の隣の席に座り、カバンを机の上に置くとそのままカバンの上に顔を埋めた。片山は街の繁華街の居酒屋でバイトをしている。どこか疲れたおっさんのような佇まい。それが片山という人間の印象だ。動く気配のない片山を放置し、またスマホの画面を見た。SNSを開き、何か問題を抱えている若者がいないか探索する。

 小さな画面の中を流れる主張の数々。人々の些細な日常から排泄される大量の言葉のゴミ。こんなゴミ溜に世界が依存していると思うとゾッとする。でも、分かっていても手を止めることはしない。大量のゴミをかき分け、ゴミの中で鈍く光を放つ言葉を探索する。

 #貧乏人が大学

 タグにはコストに対する回収見込みの厳しさが多く書かれている。大卒という肩書きのブランド価値は低下しているそうだ。高配当の就職口を獲得するスキルが伴わなければ大卒というブランドは意味を為さないらしい。まあ一理ある。でも、それは経済的視点から見た一面的な側面にすぎない。ぼんやりとした、あるいは弾けた時間をもう少し長く過ごしたい。そんな若者に大学はぴったりだ。

 他の知り合いが僕の肩を叩いたり、声をかけたりして教室内の席を埋めてゆく。いちいち反応しているうちに入口側の端の席に座ったことを後悔した。人の流れが途絶えたところで、探索を再開しようとしたら、この講義の主である教授が教室のドアを開けて入ってきた。そのまま探索を続けようか迷ったが一旦中断することにした。ひとまずは、講義の内容を把握しよう。つまらない内容なら、要点だけを後で自習すればいい。

 隣の片山は教授の登場に気がついていないようだ。脇腹を小突くと片山はビクッと体を震わせ、頭を上げてこちらを見た。そして、正面を見て状況を理解したらしい。目は半目のままだが、体はそのまま起こしておくことにしたようだ。この先、片山がまた寝てしまっても、まあ、これで最低限の義理は果たしたことになるだろう。しかし、すぐに抜き打ちの出席確認が始まり、片山は救われた。

 講義はつつがなく進行した。内容にはあまり興味を惹かれず、時々、スマホに手を伸ばす。野沢衆議院議員を逮捕。そんなトピックがニュースリリースの最前列に並んでいた。ここ最近マスコミを騒がせていた贈収賄疑惑。疑惑が事実に近づいたようだ。そんな文字列を見ても、何か現実味が薄い。事件や災害など、世間を騒がせる重大な出来事は確かに起きている。そして、その出来事に巻き込まれて大変な思いをしている人は確かにいるはずなのに、いつもその出来事を遠く感じる。最初は自分が薄情な奴なのかと思ったこともあるけど、今ではなんとなく理由が分かっている。きっと、大変な思いをした人の話を聞きすぎたのだ。彼らが感情を露わに話をするほど、僕は相手の感情に巻き込まれないように冷静でいようとし、真実がどこにあるのかを見ようとする。そんな、話の聞き方をしているうちに、事象に対して一定の距離を取るのが習慣になってしまったようだ。でも、自分が当事者になる瞬間。それは唐突にやってくる。僕は大変なことに巻き込まれ呆然と立ち尽くす人たちのことを多く知っている。

「みなさんはもう選挙権を持っています。残念ながら、みなさんの世代の投票率はなかなか上がらないのが現実です。この国、そして世界の未来はみなさんの現実です。今の政治に興味を持つのは難しいかもしれません。でも、今の世界はさまざまな問題を抱え、変化を求められている時代だと言えます。自分も当事者なのだという意識を持って、この国、そして世界の未来を考えることを諦めないでください」

 講義も終わりに近づき教授が少し熱く語り始めたので、みなが顔を上げ教壇の方を見ていた。教授の声を聞きながら、この人が政治学の専門家であることを思い出した。今の若者が政治から遠い存在であることを憂いているのだろうか。あるいは、自身の専門分野にもっと興味を持って欲しいとか。

「この秋の衆議院の選挙に向けて、みなさんのような若者が選挙に興味を持てるように、選挙を学ぶセミナーが開催されます。興味のある人は学生課の掲示板にポスターがあるので、是非、参加を考えてみてください。では、今日の講義は終わりにします」

 教授はそう言うと教壇の上の片付けを始めた。それを待っていたように、あちこちでさざめきが湧き上がり、教室内は再び音の洪水に飲み込まれた。

 教室内の空気の変化を感じたのか隣の片山がむっくりと頭を持ち上げた。結局、片山は最初の十分も持たずに再び寝入っていた。この大きな教室と人群れという隠れ蓑を利用した惰眠。しかし、本当のところはどうだか分からない。教壇から見れば案外、学生の不用意な挙動は目立つのかもしれない。教授とて授業を中断してまで一人の学生に注意することもない。片山は眠たげな顔のまま両手を宙に突き上げ、大欠伸をした。

「学食行こうぜ」

「おう。腹減った。カレーな気分」

「ってか、ほぼ毎日カレーじゃん」

 片山の呼びかけになんとなくつるんでいる佐々木と三上が呼応する。

「ちょっと学生課に寄ってから行くわ」

「了解」

 片山たちは特に気にするでもなく僕の言葉を聞き流した。このまま僕が行かなくても特に何も思われないだろう。まだ始まったばかりの大学のゆるい関係性の中でそういったことはよくある。

 教室を出て片山たちと別れ、学生課に向かう。学生課の掲示板を見ると教授が言っていた通り、選挙を学ぶセミナーのポスターが掲示されていた。モデルの若い男女がキラキラした笑顔で遠い未来かどこかを見ている。このポスターに惹かれて参加するような奴はほとんどいないだろう。教授の嘆きは現状を正しく言い表している。この国の若者はいつも政治から遠いところにいる。ポスターに書かれている日時を確認し、QRコードを読み込んだ。その場でフォームに記入しセミナーにエントリーした。


 街の中は夜でもほの明るい。月明りや街灯。そして、家々から漏れ出る灯り。そんな光が夜の空気の中を彷徨い、窓から室内に侵入してくる。夜でも室内の照明は点けていない。読書灯や何か必要な時以外は。慣れてしまえば特に問題はない。物の輪郭はなんとなく見えるし、手足の感覚や記憶が視覚を補完する。人間の体は原始の自然の中でも生きていけるように出来ているのだと改めて思う。ただ、室内に全く光源が無いわけではなく、ほとんどの時間、机の上の光量を落としたモニターがその周辺だけを儚く照らしている。 光の乏しい空間で僕は影のようにそこに存在する。

 モニターには選挙について調査したタブの列が並んでいる。どれも嘘は書かれていない。ただ、何か核心に触れていない。ネットで何かを調べるたびにいつもそんな気分になる。無数の利用者がいるはずなのに、自分の求めるものが見つからない状況は何か自分が世界から取り残されているような感覚に囚われる。本当に大事なものはどこかに隠されている。僕たちが生きる世界とはそんなところなのだろう。

 政治の世界とはまさにそんな闇の魔窟のようなところのようだ。驚いたことに国会議員にはその活動を評価し、公的に公開、活用する仕組みが無い。あるのは団体や研究者によってまとめられた国会での発言回数や質問の提出数など。おおよそ、議員の仕事を評価する尺度にはなり得ない。学生や会社員、そして公務員など、組織というものに所属する者はすべからく評価を受け、それを記録し、後の報酬決定、活動の改善や人事に活用する仕組みが備わっている。国民から徴収した税金によってその活動が賄われているはずの国会議員は野に放たれた獣のごとく、適切な評価を受けることなくその任期を全うする。一般論で言えば、議員の評価はすなわち選挙であると言われるかもしれない。だが、その選挙の判断基準となる人物評価がなければ国民は何を根拠に投票すればいいのだろうか?確かに、選挙期間中には候補者の主張や公約などがメディアによって報じられる。しかし、その短い期間にその候補者の本質を知ることは不可能だろう。自身、もしくは組織の利益に叶いそうな候補者への盲目的な投票。選挙とは極めて適当な仕組みの上で演出される茶番にすぎないのは明らかだ。なぜ、そんなことがまかり通るのか。政治とは遠いところにある。そして、それは若者だけではない。しかし、それは前時代の文脈の中で出来上がった帰結に過ぎない。時代は変わる。問題はこれからだ。

 アイコンと電子音がポップアップする。彼らはこの国のどこか遠い場所から繋がり時間を共有する。時刻表示を確認するとまだ時間があった。今日、話すことは決めている。頭の中で会話の流れを想像する。反応はあるだろう。でも賛同が得られるかどうか。まあ、みんなの賛同がなくともそれぞれがやりたいことは各自がやればいい。ただ、仲間が一緒なら活動の幅は確実に広がる。それに、少しだけ勇気が湧くかもしれない。

 開始時刻直前にアイコンが滑り込み、電子音が鳴り響く。見慣れたアイコン。ツンとすました女の子のイラスト。彼女はいつも時間ギリギリにやってくる。といっても、時間厳守を決めているわけでもないのだけど。なんとなく時間通りに集まるみんなに民度の高さを感じる。時刻表示を睨みながら予定時間通りに最初の発言をする。

「聞こえる?」

「聞こえるよ」

「じゃあ、始めますか」

「はいよー」

「うぃーす」

 六人分の応答が重なる。

「なんか暑くない?」

「暑い」

「もう夏だな」

「このもっさり絡みつく感じ、なんとかしてほしい」

「こっちは涼しいぞ」

「ブンちゃんはいいなー。さすが北海道」

「いつでも遊びに来ていいぞ」

「行きたーい」「かに」「いくら」「ほたて」「・・・」

 いつものように脈略のない会話が飛び交う。声を聞けば大体みんなの様子が分かる。特に変わりはなさそうだ。しばらく、テンポの良い雑談が続いた。

「ソラシド。その後どう?」

「特に動きはないな。まあ、これまで通り行政が粛々とやることをやっていくってところだね」

 政府は福島の原発事故による帰還困難区域について、元住民の意向を聞きながら順次避難解除してゆく方針を発表した。しかし、帰還を希望している人は元住民の十五%未満。六十%近くの元住民は帰還しないことを決めている。もう、あれから十年を超える月日が経過している。それに、すぐに帰還できるわけではなく、希望に応じて順次除染作業を行なった上での帰還となる。ソラシドは福島に住み、当時、一時的に避難をしたが、今は福島に戻っている。

「お母さんの兄さんは?」

 ミカンが心配そうな声で聞いた。

「母との間で話には出たらしいけど、やっぱり、もう帰ることは考えていないって」

「ここまでくると、そうなるよね」

 彼の母の兄が帰還困難地区の元住民だった。母の兄は震災直後に仙台に避難しており、そこで新たな生活基盤を築き上げた。今さら、帰ることなどできない。それが、実態なのだろう。

「繰り返しになるけど、百年とか千年単位。下手したら万年。そんな途方もない話になっちゃうんだよね。原発って。そんなものを間違いだらけの人間が上手く使いこなせると思ったのがそもそもの過ちだった」

「ほんのひと握りの人たちの間だけで議論されて、怪物が世に放たれる」

「そういうこと。無知は罪深い」

 僕らの間で原発事故の根本原因はその導入プロセスからすでに問題があったのだと認識している。得られる利益に対するリスクはなんなのか。現実に事故が起きるまで国民のほとんどは何も知らなかったはずだ。どこかの誰か偉い人が上手くやってくれているはず。そんな丸投げの姿勢こそ、国を危うくするリスクとなる。しかし、原発事故は原発に対する危機意識を持ち上げはしたが、体制の構造を問題視するまでには至らなかった。国民のほとんどが冷静さを失うほど、震災の破壊力が凄すぎたのかもしれない。

「そう言えばブンちゃん。選挙の後はどう?」

「特には。まあ、結果をそれぞれが静かに受け入れているところなのかな」

 ブンちゃんの住む町のすぐ近くの町が特定放射性廃棄物の最終処分場立地の適性を調査するための国の文献調査に応募することを唐突に発表し騒動となった。町長は未だ道筋の見えないこの国の放射性廃棄物の処理について、誰かが声を上げ議論を進めなければならないと建前を述べたが、その裏に透けて見えるのは町の衰退、そして、調査段階に応じて受け取れる巨額の交付金だった。町はもちろん、周辺地域、北海道全体に衝撃が走った。そもそも、北海道は放射性廃棄物を持ち込まない条例を制定しているが、その条例は個別の町の文献調査への応募を妨げるものではなかった。必然のように町の住民は賛成派と反対派に分かれ分断を生み、複数の周辺の町は反対を表明するように核抜き条例を町議会で制定させた。しかし、あくまで町の施策を動かすのは町議会であり、その町議会が決めた文献調査への応募は実行され、調査が開始された。ブンちゃんが答えた選挙とは当該の町長選挙で、文献調査を進めた現職と反対派の候補が争う形となったが辛くも現職町長が勝ちを収めた。

「でも、これで終わりじゃないよね?」

「そう。選挙の結果としては文献調査を進めた現職町長が勝った形だけど、票差は開かず反対する人の存在もまた明らかになった。ひとまずは、様子見で落ち着いた感じがあるけど。問題はこの先に出る文献調査の結果やその先の精密調査に進むかどうかの是非になるだろうね」

 以前話をした時には北海道全体に影響を及ぼすような重大な決定について十分な説明や議論を経ずに、隠れるように話を進めようとした町の姑息なやり方に問題があると意見がまとまった。その行動の根拠となるのが金であることにみな辟易した。そして、何より、町、そして周辺地域を巻き込み人々の分断を生んだ罪は重い。

「元を正せば、放射性廃棄物の問題も結局、原発の導入プロセスに問題があったということだよね」

「だね。返すあてもないのに大金借りちゃった感じ」

 いつものようにオトメが煽る。

「なんかさ。レベル低すぎないか?分かっていてやっちゃうって、小学生並みの堪え性のなさよ」

「言えてる」

 サンタクの発言にみんなの笑いが漏れる。

 参加しているみなはそれぞれに何か問題を抱えている。僕が問題を抱えてそうな人に話を聞いていて集まった人たちだから、当たり前のように思えるけど、きっと、他の人だってみんな何かを抱えて生きているのだと思う。

「なんかさ、ロシアの侵攻もここまでくると日常に溶け込んできたと思わない」

「あるね。最初はこの時代に戦争ってなにって驚いたけど、毎日、ニュースで見ればそれが日常になる。慣れって怖いよね」

「なんで、あんな時代錯誤的な人間が国のトップにいられるのかな?」

「無知だな。国民は無知で、偏った報道を真実だと思い込んでいる。民主を装って選挙はしているが、全て体制の手の上で弄ばれているだけ」

 ミツハの冷たい声にキュッと身が引き締まる。

 なんとなく、このような話の流れになることは、これまで何度か話をしてきた中で分かっていた。そして、僕たちはどこに向かうことになるのか、そんなぼんやりとしたイメージのようなものがみなの中にもあるのだと思う。

「あのさ、今度、若者向けに選挙を学ぶセミナーがあって、それに参加しようと思う」

「選挙?」

 沈黙が落ちた。

 きっと、みなそれぞれが僕の意図を掴もうとしている。そして、その先に繋がる意味を。

「真面目か」

「そんな訳ないだろ。クロキ、お前なにを企んでる?」

 ミツハの言葉の剣先が僕の喉元に突きつけられた。

 自分でもまだよく分かっていない。でも、僕たちが抱える問題やこの国の未来を変えてゆくには何かを始めなければならないような気がしている。たぶん、僕はそのきっかけになるようなものを探しているのだと思う。


 都内の会議室。集まったのは三十人ほどの同世代の若者。こういったセミナーに参加するのだから、それなりに意識の高い人たちだろうか。見た感じは大学で見る学生と全く変わらない。もしかしたら、人数合わせのために集められた人もいるのかもしれない。さすがに、金をもらっている人はいないと思うが。どうだろうか。

 主催の都の担当者がセミナーの開始をアナウンスし、講師として招かれた政治学者や都の選挙管理委員らが紹介された。前半は選挙の仕組みやその意義などの講義。後半にグループディスカッションがあるようだ。そして、セミナーの様子をカメラが撮影している。講師の一人の所属組織にメディアの名があった。予想通り、セミナーは取材対象となっていた。

 長机の隣に座るミツハは視線を話者に向けたままピクリとも動かない。実物と会うのは初めてだが、これまで抱いていた印象通りの冷徹さを纏っている。そして、全てが整った顔はこの会場の中で異質な存在だった。その美しさに思わず視線を奪われるが、そのまま見続ければ痛い目にあう。そんな、オーラが全身から漏れ出している。あの時、僕の話を聞いたミツハはその場でセミナーにエントリーした。他のみなも参加を望んだが、距離的に現実的だったのは神奈川の僕と都内のミツハの二人だった。ひとまず、お互いが知り合いであることは言わないことにした。

 講義は普通に生きていればそれなりに知っている選挙の仕組みをなぞる内容だった。立候補者を募り、選挙期間中にそれぞれがそれぞれの主張を訴え、有権者による投票が行われる。投票後に即日で開票作業が行われ、得票数の多いものが当選する。選挙区や比例代表、選挙中にしてはいけないことなど。どの講師もセミナーの趣旨通り、選挙の基本とこの国の未来に繋がる選挙の大切さを語り、ここにいる若者たちに選挙への参加を促した。

「時々、タレントやアスリートの方が選挙に出ることもあります。もちろん、本人の意思があって供託金を準備できれば誰でも選挙に出ることはできます。ただ、有名人が選挙に立つ場合、その知名度を利用しようと政党にそそのかされている場合がほとんどです。政党は党員の議席数が何より大切ですから、選挙に勝ってくれさえすれば、政党の都合のいい駒になるというわけです。本来なら、そんな手口に有権者はノーを突きつけなければなりませんが、残念ながら知名度というのはなかなかに選挙において有効に働くわけです」

 若者相手に興に乗ったのか政治学者の話は脱線気味であった。彼はまた、金や現職というものが選挙に有利に働くことを熱弁し、一票の格差など選挙における公平性については議論の余地があると自説を説いた。

「災害や疫病、世界情勢が不安定さを増す中、国の行き先を決める選挙はかつてないほどに重要性を増しています。みなさんも、どうか自身が持つ一票の重みを知り、自分が行きたい未来にその一票を投じてください。この国の未来はあなたたちのものです」

 講義の本筋を思い出したのか、最後はセミナーの趣旨通りに講演を終えた。政治学者が演台のコップに自らが注いだ水で乾いた喉を潤す間に、進行役が政治学者への質問を募った。僕の視界の右端で動くものがあった。

「そちらの方どうぞ」

 進行役が手を伸ばし、ミツハを指名した。

「古谷先生は選挙の公平性について議論の余地があると言われました。それは、各立候補者が属する環境の違いを言われたものだと思いますが、そもそも、立候補者自体が持つパーソナリティから見た際の公平性、あるいは多様性を鑑みた時、今の選挙は偏った制度だと考えますか?」

「多様性ですか?」

「ええ。例えば、学校のクラス委員の選出場面を考えてみてください。ほとんどの場合、立候補はなく、誰かの声による推薦となることが多いかと思います。その推薦の声とはなにか。クラスの中で成績優秀な人物の名が必ず上がります。これはクラス委員イコール頭のいい人というバイアスが働いているからです。一方、市中の選挙では自らの主張を通したい人、議員など役職権威に憧れる人、現職なら既得権益の維持、いわゆる声の大きい人が立候補する場合が多い。自薦、他薦を問わず、選挙には必ず特定のパーソナリティを持つ人がそこに引き寄せられるバイアスが存在しています。そういった偏った特徴の人々が集まり政治を行うこと自体、公平性を欠いていると言えないでしょうか。すなわち、現状の選挙制度には大きな欠陥があると」

 会議室内の空気が凍りついた。重い沈黙が場を支配した。

「なるほど、いい視点だと思いますし、確かにそういった側面もあると思います。ただ、制度というものは必ず一定のルールによって作られているものです。何か大きな問題があればそのルール自体も変更の是非が問われるでしょう。そういった意味では今の選挙制度は長い時間をかけて作り上げられてきたものとも言えます。言い換えれば、制度として国民に認められていると。故に、現時点ではその役割は適切に機能していると判断されます。もちろん、この先に議論があれば制度が変わることも十分にあり得ますが」

 政治学者がミツハに視線を合わせると、ミツハは小さく頷いた。

 ふっと会議室内の空気が緩んだ。ミツハという存在自体がバイアスの塊のようだ。みなはミツハが醸し出す緊張感のある雰囲気に呑まれ、その言動を見逃してはならないという意識に囚われる。そして、発せられた言葉を神聖で正しいものと錯覚する。オンラインの声だけでもそういった感覚に囚われるが、目の前に本人がいるとその効果は絶大なようだ。今日、僕の出番はなさそうだ。いや、むしろ余計はことはせずに、ミツハに任せたほうがいい。

 グループディスカッションが始まると、みながミツハの言葉を待っているのが分かった。五、六人が一つのグループとなり、選挙に対してみなが思うことを話し合う。着地点は示されず、多様な意見が出ることを望んでいるのだろう。ミツハはみなの視線を感じながら少し黙っていたが、誰も発言しないのを認めると、机の下で隣に座る僕の足を踏んだ。

「じゃあ、まずはみんなが選挙に対して持っているイメージを言い合いましょうか」

 最初に言葉を発した僕に視線が集まる。そして、僕の発言が受け入れられたようだ。

「僕は先ほど彼女が質問したように、今の選挙制度には特定のパーソナリティを持った人が集まって政治を行うことで、多様性を欠く問題を抱えていると考えています。複数の政党があって、一見、それぞれに異なる主張をしているように見えますが、やはり、政治の世界には存在しない特徴を持った人たちが確実に国民の中にはいるはずです。もし、自信がなかったり、勇気がなくて声をあげられないのなら、政治はそう言った人の声を掬い上げる努力をしなければならないと思っています」

「私も同じです。さっき、彼女が質問した時にハッとさせられました。なんか心の中にあったモヤモヤがスッと晴れた気がしました。私、学校であまりいい思い出がなくて、今の政治の世界を見ていると学校のクラスを思い出すんです。いわゆる、グルーピングとかカーストとか。人の見た目やパーソナリティで区別されて、上下関係が決まるみたいな。政治の世界って階級の上の方にいる声の大きい人たちの集まりなんじゃないかって。高いところから見下されているんじゃないかって」

 僕の発言に眼鏡をかけた女の子が食いついた。

「俺も」「私も」

 賛同の声を上げるみなの瞳には輝きがあった。ミツハの質問の効果は絶大だった。

「みんなもそうだと思うけど、私にとって政治って遠いところにある存在だった。今まではそれでもなんとかなっていたし、あまり不満も感じなかった。でも、講師の人たちも言っていたけど、世界は今、変化の時代を生きていて、それに対応する政治になんかモヤモヤして、なんか違うなって。その何かは今でもはっきりとは分からないんだけど、一つだけ感じるのは今の政治の世界にいる人たちは視野が狭いっていうか、その先にある未来を見せてくれるような人がいないって感じていて。たぶん、一言で言うと時代遅れなんだと思う」

 ミツハの最後の言葉は鮮烈だった。みんなはミツハの言葉の意味を噛み締めるようにミツハの顔をじっと見つめていた。

「じゃあ、みんなが抱えているそのモヤモヤの部分を少し掘り下げてみようか?」

 みんなが僕の言葉に頷いた。

 ここにいるみなが抱えているものを僕やミツハも抱えている。そうなんじゃないかとは思っていた。でも、こうしてみんなと話してみると、それが実在する現実的な存在であると認識できた。何かに気付き、それが気になるなら、それから目を逸らさず観察を続ける。そして、心のスイッチが入るのなら、心の思うままに動き出せばいい。


「私たちのグループは今日、講師のみなさんのお話を聞いて、一人一人がこの国の国民なんだという自覚と責任を持って、この国の未来を決める選挙に参加しなければならないと思いました。でも、実際にはなかなか誰に投票したらいいのかを選ぶのが難しくて、もっと立候補者に関する情報があれば自信を持って自分の一票を投じることができるのではないかと話し合いました。これはあくまでも、個人的な意見ですが、政治家の不祥事って確率的に見て、一般社会より高い比率のような気がします。それって、やっぱり選挙において適切な評価、選択が行われていないという結果を反映しているのかもしれません」

 他のグループの発表が続いている。その中でもやはり、ミツハのバイアスが効いているようだ。どちらかというと現行の選挙制度に批判的。でも、主催者の意図である、選挙への若者の積極参加を促す目的には合致している。

「では、次は五班の代表の方。お願いします」

 ミツハが立ち上がり演台に向かう。みなはじっとミツハが歩く姿を見ていた。背筋がピンと伸び、全く隙のない佇まい。会議室内にはみなから漏れ出す、期待のようなものが充満していた。

 ミツハが演台に立ち、会場を見回した。正面に視線を据え、その瞳がきらりと光った。

「私たちは全く、みなさんの意見に同意します。選挙に立候補し、選挙戦で誰かに教えられたような言葉を繰り返す、そんなおじさんやおばさんに誰が心を動かされるでしょうか。ただでさえ短い選挙期間中に、その人物に関する客観的な評価情報が無く、選挙の争点や目先の課題への賛否、威勢のいい掛け声だけでは、適切な判断が下せるわけがありません。それは選挙という既成事実を形成するだけのイベントであり、今の選挙制度は民主主義を装った茶番にすぎないと考えます」

 再び、会議室内の空気は凍りついた。みなの視線はミツハに釘付けになっている。

「まず、先ほど質問の中でも触れましたが、今の政界にはある特定の特徴を持った人物が引き寄せられる傾向があります。国という多様な国民の乗った船を動かす政治において、その公平性には大きな疑義があると言わざるを得ません。政治とは公平により多くの国民の意見を聞き、議論を経てその行き先を決められるべきであり、その基本である公平性が担保されていない現行制度では民主主義が正しく機能しているとは思えません。古谷先生の今の選挙制度は国民に認められているという意見はその通りだと思います。ただ、これまで国民は日常の生活や仕事に忙しく、政治に関心を持たなかった。ある意味、国の行く末を政治家に丸投げしてきたと言えるでしょう。でも、今、私たちは変化の時代に生きており、もう無関心でいることはできなくなってきている。今日、この場にいるみなさんの言葉を聞いて私はそのことを確信しました。そして、もう一つ。私はこれまでこの国の未来を予感させる言葉を政治家から聞いたことがありません。みな目先の出来事に目を奪われ、保身のために政敵を口撃する。そんな政治家にこの国の未来を託そうと思う若者はいるでしょうか。未来のビジョンを語らない政治家に一票を投じることはできるでしょうか。夢物語を期待しているわけではありません。でも、未来への道筋が暗闇に覆われているなら、私たちはどこに向かって生きていけばいいのでしょう。それを、きちんと国民に提示できる人。そういう人こそが政治に関わるべきだと思います。今の選挙制度ではそういう人はこの国の民衆の中に埋もれたままになる。みなさん。考えてみてください。先の選挙であなたが一票を入れた政治家のことをあなたはどれだけ知っていますか?その人に自分や子供の命を預けてもいいと思えますか。大袈裟だと笑われるかもしれません。でも、ここ四半世紀の間に世界で現実に起こったとことを思い出してください。災害や感染症、戦争。どれをとっても国を動かす政治に多くの人の命がかかっているのです。これは現実です。今、私たちの価値観は変化の時を迎えています。これまで人が神として崇めてきた資本主義は人や自然に疲弊をもたらし、もはや限界を迎えているのは明らかです。この先、私たちがどう生きてゆくのか。そのために、どう変わって行くのか。今すぐに進路を変更せよとは言いません。でも、私たちの国を正しい未来に導くためにその議論の中心となる政治の刷新は待ったなしです。みなさん、一緒に考えましょう。私たちの未来のために。その先に生きる子供たちのために」

 会議室はしんと静まりかえっていた。無数の目に光が宿り、演台のミツハを見つめている。

 パンと一つ音が鳴った。その音は次の音を呼び、その音はまた次の音を呼んだ。やがて、その音たちは波紋のように広がり、会議室内にうねりをもたらした。音の波は鳴り止むことを知らず、人から発せられる熱が会議室全体を熱くした。僕はミツハという人に驚愕し、そして未来が一気に近づいてきた気がした。


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