移住と羊とシンプルライフ

 彼女たちの左頬には逃、右頬には亡の文字が浮かび上がっているように見えた。

 そこは地方都市の中心部から少し離れた郊外で田畑が一面を覆う。視界を遮るものは無く、ひたすらに広い空が広がっている。遠くに見える山の連なりは白く塗りつぶされ、その稜線が空の青にくっきりと浮かび上がる。

 彼女たちがいるのは映像の中で、たぶん少し前の過去の彼女たちだ。しばらくして彼女たちには共通点があることに気がついた。彼女たちは何かから逃げてここに辿り着いた。飛びかかられるような恐怖ではない。でも、それは彼女たちの心の隙間から知らないうちに内部に侵入し、じわじわと彼女たちを追い詰める。彼女たちにとって逃げることは必然だった。移住という名の逃亡。

 顔や声の異なる彼女たち。なんの縁も繋がりもない彼女たち。ドキュメンタリー映画の登場人物。映像は彼女たちの心の表層を映し出す。投げかけられる問い。何故?、何故?、どうして? シンプルライフというテーマ。彼女たちはあまり思い出したくない過去とまだ見ぬ幸せの未来の間を行き来しながら問いに答える。彼女たちは理解している。ここで求められている答えは何か。自分の中にあるはずの声を探りながら、解答欄を埋めてゆく。


 彼女たちが選んだ逃亡先には雄大な自然があり、ゆっくりと流れる時間があり、心優しい隣人と羊たちがいる。彼女たちのシンプルライフにもそれぞれの形がある。最低限の収入を得ながら好きなことを仕事にする人。会社で働きながらシンプルな生活を実践する人。移住体験で自分のシンプルライフスタイルを模索する人。消費文化からは遠ざかり、お気に入りだけが彼女たちの相棒となる。新しい場所だから出すぎずマナーさえ守れば、人付き合いもコントロールが効く。彼女たちは新天地で自然や人と出会い、自分の選んだ新しい生き方を見つめながら、足元の土を踏み足場を固めてゆく。彼女たちにとってそれらは過去の彼女たちが目にしてきたものと対極にある世界のように見えているのだろう。彼女たちは言う。知らないうちにレーンに立たされ競争させられてきた。行進する隊列の中に組み込まれゴールの見えないどこかを目指してひたすら歩き続ける毎日。金や権威でできたヒエラルキー。望んだわけではないのにいつの間にか組み込まれてきた社会システム。彼女たちは言わない。でも、そんなものにはうんざりなのだと遠くを見る目が語っている。

 彼女たちが忌避するもう一つのシステム。結婚。異性との関わり合いは否定しない。でも、彼女たちは自分のやりたいことと自由を守りたい。女の役割、女だから、女らしく。結婚という言葉が内包する束縛という契約。義父、義母、義兄妹、義姉妹。結婚に付属する家族というしがらみ。彼女たちは言わない。でも、そんなものにはうんざりなのだと俯いた顔が語っている。彼女たちは新しい異性との関わり方をパートナーと呼ぶ。自立した異性同士が対等の立場で時間と場所を共有する。そこにはこれまで社会が積み上げてきた役割や決まりはいらない。同じ価値観を持った異性同士が自分たちが決めた同意の下に時間を場所を共有する理想。しかし、残念ながら映像の中でそれを実践、実現している女性はいないようだ。


 広い緑の草原で草を喰む羊たち。陽の光を浴び黄金に揺れる稲穂。遮るもののない空を真っ赤に染める夕日。雄大な自然が目を潤し、ゆっくりと流れる時間が心を洗う。揺るがない大自然の下に集まった彼女たちは過去から未来へと歩みを進める自分の姿を想像し、心から湧き出す言葉に載せて共感を謳う。そこに足を踏み入れれば淡い色彩のふわふわとした温かくて心地よい世界が待っている。幸せはここにあるかもしれない。彼女たちの心は自然とそこに吸い寄せられる。

 彼女たちには三つのタイプがあるようだ。同じ価値観を持つ同志との仲良しごっこをしたい人。社会を嫌悪し社会からの隔絶を求める人。そして、自分が何を求めているのかが分からず自分を探しにくる人。自然はそんな彼女たちを受け入れたり、抱きしめたりはしない。ただ、そこにあってありのままの姿を見せている。それでも彼女たちは自然が見せる日々の営み、季節の変化の中に自分の中の何かを投影し、心の中から答えを導き出そうとする。そして彼女たちは心の奥底にひっそりとしまっている本当には触れず、誰かに見せるための小気味いいフレーズをそっと差し出す。彼女たちは言わない。でも、映像の中の彼女たちは背中に何かを隠し持っている。そんな気がしてならない。それは目の前に置かれた幸せに対する疑念だろうか?将来に対する不安だろうか?どこまで逃げても逃げ切ることのできない不穏な社会だろうか。彼女たちが持つ過去。そこに埋め込まれたなんらかの記憶が影響しているのは確かだろう。


 彼女たちの左頬には選、右頬には択の文字が浮かび上がっているように見えた。

きっと、彼女たちは選択したのだ。満員電車の中で誰かに立たされる日々ではなく、大自然の中で自分の足で立つ日々を。先が見えず何か気持ちの悪いものにまみれている社会ではなく、何者にも汚染されていない清涼な空気が漂う新天地を。感染症や戦争が炙り出した人間という醜い生き物の本質。自分は違うと声を上げ、だよねと共感を得なければならない。本当に望むものとはちょっと違っているのかもしれないけど、安心できる自分の心の置き場所をひとまず確保しなければならないから。

 これは現代社会における新しい解放運動なのかもしれない。『元始、女性は太陽であった』*。この世界をあまねく光で照らし、温かく平和な世界で自由に生きる自分を取り戻す。時代の変革の時に表出する心憂のほとばしり。新しい自分たちを求める奔流。常に不穏な何かと同居しているような先の見通せない時代。そんな歪な世界の中で彼女たちは声を上げたり、行動を起こさずにはいられなかったのかもしれない。そこに立ち上がる文脈がどのような未来をもたらすのか。新しいライフスタイルが確立されるのか、何も生み出さないのか。泡沫の夢の中に生きるのか、頑強な現実を知るのか。未来は誰にも分からない。しかし、永遠などありはしない。だからこそ、今を生きなければならない。少なくとも彼女たちはそれを知っている。

 あなたが生きたいのはどっちだろう。

*大正時代の女性解放運動を謳う雑誌『青鞜』の創刊に平塚らいてうが寄稿した文章の題名

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