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言葉を大事にする人にとっての盲点

「供述弱者」という言葉があります。

引用した記事では、裁判の場面において、自分のことをうまく語ることができないまま裁かれてしまう危険性に触れていますが、「(相手が)自分の思いを伝えられているかどうか」というのは、福祉の業界に身を置く人にとっては、身近かつ永遠のテーマであるようにも思います。

とりわけ現代日本の福祉において、最も優先されるのは「本人の意思」です。周りがどれだけ、こうしたほうが本人のためになる! と思っていたとしても、そこに本人の意思が確認できなければ何も進めることはできません。そしてこの「本人の意思」は、しばしば言葉で表現してもらうことが多いです。
もちろん、なんらかの言語障害や知的障害があり、言葉を発することが難しい方の場合は、身振り手振りや表情、行動などあらゆるノンバーバルな表現から本人の意思を推察します。さらにいえば、言葉を発することが可能な相手でも、その言葉の真意のほどを見極めるためにはノンバーバルな情報も欠かせません。
それはそうなんだけど、”一見普通に話すことができている人”の場合、ノンバーバルな情報よりも本人の発言内容に比重が置かれてしまいがちです。

「相手の気持ちを尊重する」といった言い回しには、罠がある。なぜなら、相手の判断能力が必ずしも十分とはいえないのだから。

春日武彦『はじめての精神科』第2版 p.157

「本人はなんて言ってるの」
ケース検討会議でよく聞かれる言葉です。
もちろん、本人の言ったことをそのまま記述することは大切です。聴き手の主観が入らない情報と、聴き手の所感は分けないといけません。
だけど、「本人がこう言っているので」で思考停止するべきでもありません。

とはいえ、「本人はこう言っている」と「でも本当はこう思っているんじゃないかと私は考える」の間には、私と本人とのそれまでの関係性、私が本人のことをどれだけ知っているか、客観的にも妥当性があるか、が問われてきます。


うわー、難しい!
……というのが毎日の本音です。
偉そうに述べましたが、私もちゃんとできているかは自信がないです。自信はないけど心がけます。
結局のところ支援者にできることは、こういうリスクに自覚的であること、それまでだと私は思うんです。

相手を100%理解できるなんて思わない。どれくらい理解できたかを確実に確認できるすべもない。
でも、それでも相手を理解しようとし続けること。
「相手の話を聞く」「傾聴する」という言葉の中身にあるのは、そういうことだと思うんです。


特に私は、好きでこうしてnoteの書き手であり続けているし、趣味は読書といえるくらい本を読むのも好き。文章を読むことや、自分の考えを文章で表現することが好きです。
だからこそ意識しないと、相手はそういうことが苦手かもしれない、ということに気づけない場合がある。雑談ひとつとっても、相手が困って苦しんでいることに気づけない可能性がある。

言葉を愛し、言葉を仕事にするからこそ、言葉には敏感でありたいと、切に思います。

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