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死ぬのも自由だといわれる社会で

2020年2月の日記に、私はこんなことを書いておりました。

「死にたい」って言われると、すごく動揺する。
「ちょっと前まで、実は死にたいと思ってたんだよね」とかでも、すごく動揺する。
なるべく平静を装っているけど、反射みたいなスピードで、涙腺が熱くなってくるのがわかる。

カウンセリングで出会う人は、希死念慮を持っていることも少なくないんだから、そういう気持ちを聞くたびに大ダメージくらっているようじゃいかんと思う。百歩譲ってダメージくらうのは仕方ないとしても、その表出はコントロールできないと。
私の過去は、いま目の前で話している人の気持ちとは関係がないんだから、ちゃんと切り離してとらえないと。

私が福祉を志すに至る経緯で外せないものに、友人の自殺があります。

これは福祉や心理の業界あるあるかもしれませんが、この道に入る人は時に、支援者ではなく被支援者になってしまうことがあります。
過度な干渉、感情の転移、関係依存など、相手との関わりが相手の支援のためではなく、自分自身の安定のためになってしまうのです。
それは健全な支援関係ではありません。
支援者自身のメンタルのメンテナンスは、他のところでやらないといけません。


ちょうど冒頭の日記を書いたころ、あいみょんの「生きていたんだよな」という歌に衝撃を受けました。飛び降り自殺をした少女の心情を想像した、こんな歌詞があるんです。

精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって雲を掴んで
風になって遥か遠くへ
希望を抱いて飛んだ

♪ 生きていたんだよな / あいみょん

当時の私は、この歌が自殺を肯定しているみたいで、すごく嫌でした。

今だって自殺を肯定などしていないけど、自殺が救いに見えてしまうほど追い詰められることがある、という事実は理解しているつもりです。
だから、冒頭の日記を書いた頃に比べると、今の私は「死にたい」って言われても(少なくとも表面上は)あまり動じないでいられるようになりました。

どうでもいいわけでは決してないし、その希死念慮が消えるくらい楽しく生きられたらいいよね、とは思っている。でも、いま死にたいくらいつらい気持ちは本当のことだと思うから、それをありのままに受け止めたいと思う。


でもね。
やっぱり、本当に死んでしまわれたら悲しいです。たとえこの悲しみが、ただのエゴかもしれなくても。


新卒で入ったメーカーから転職する前、自分の本当にやりたいことはなんだろうと考えた日、私が願った夢は、誰も自殺しない社会でした。

今も、その気持ちに変わりはありません。

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