野外鳥類学の扉をたたく。空の広さを知る
この冬、日本野鳥の会による「野外鳥類学講座」にお世話になっていた。鳥を通じて世界とつながれるということ、大人になって学ぶのはとても楽しいことを知った数ヶ月間だった。
「野外鳥類学」の扉をたたく
何気なくネットを眺めていたらたまたま見つけたこのページに、目が釘付けになった。
「調査研究に関心がある方」。
流石に背伸びしすぎかな?でも・・・
*
鳥類世界の楽しみ方は人によって様々だ。
写真に撮ることが好きな人もいれば、絵を描くことが好きな人もいる。庭に餌箱を置いて、眺めていることが好きな人もいる。
私はどうやら、撮ることも描くことも好き。そしてそれ以上に、鳥のことをもっと知りたいと思うのだった。
このことは、ロンドン自然史博物館で立派な鳥の剥製を見て「死んだ鳥は観察しやすいんだ」と狂気じみた感想を抱いた時にやんわり自覚した。
さて、「調査研究」-
そのアカデミックな響きに気圧されつつ。
けど、何を今更?
プログラムは4日間の講義と、2ヶ月余りの自主調査、最後1日の発表会で構成される。
まず、鳥類学者や鳥のプロの方々から、様々な鳥の生態や調査方法、実際の行動研究の事例、統計や論文の書き方、フィールドワークの心得などを学ぶ。
各自で興味があることを絞り込み、フィールド調査の企画をする。講師の方々のアドバイスをもとにブラッシュアップしていく。
そのあとは相談に乗っていただきながら、各自のフィールドで2ヶ月かけて調査に取り組み、まとめる。
最後に発表、フィードバックをいただいて終わり。
信じられないくらい豪華てんこもりだ。
個人の趣味を世界につなげる方法
「論文を書こう」
講義中のこの言葉に、何よりびっくりした。
大学院生や研究者じゃなくても、自然科学系の仕事をしていなくても、一般市民が論文を目指してもいいのか。
もちろん、この短い講座期間中の必達課題というわけではないけど、私が講座から受け取った1番のメッセージは、きちんと記録して世に出す重要性だった。
研究者や調査員は人数が限られている一方で、鳥はどこにでもいるし、数も多い。その個体数の変化や行動の記録は、保全やあらゆる施策を講じる上で欠かせない。ベースとなる鳥類学の発展を陰で支えているのは、全世界の鳥好きの存在でもあるらしい。
「会社のつながりは定年退職後に消えてしまうけど、鳥を通じたネットワークは生涯、そして世界中どこにいても続く」
ある受講生がこぼした言葉が心に残っている。
観察した鳥の情報を共有することで世界とつながることができる。
その情報が適切に使われることで、鳥へのせめてもの恩返しにもなるのかも?
まずはeBirdから始めてみようかな。
(観察した種や場所・時刻を誰でも登録できる、世界共通の鳥類データベース)
鳥の世界は懐が深い。
そして裾野が広いなと思った。
ひとりで鳥を眺めていても、ひとりじゃないのだ。
野外調査の大変さと、その報酬
私が調査課題に選んだのは、家の近くの公園を集団ねぐらにしているコサギだった。昼間は警戒心の強いコサギが、夜でも人通りの多い場所でよく眠れるなあと驚いたのがきっかけである。
その要因を、人の往来数や街灯の明るさ・とまっている木の種類・他の鳥たちの存在など、他の場所と比較しながら、考えつくいろいろな観点から調べてみることにした。
そして私は、鳥との偶発的な出会いを楽しむバードウォッチングと、計画に基づいて行われる野外調査との違いを目の当たりにする。
正直、めちゃくちゃ難しかった。
第一、見たいものを見たい時に見れば良いというものでもない。
例えば、
人の往来数との関係を調べたいと思ったら、いくらホモサピエンスに(観察対象として)さほど興味がなくても、見ないといけない。
それを冬の日没後、冷え込む中で決まった時間に地道にカウントする。普通に怪しい。
また例えば、
私は鳥は好きだけど、彼らが何の木にとまっているかなんて普段は気にも留めていない。でも寝る場所を求める鳥にとっては大事な要素かもしれない。
なので、その周辺の木を一本一本写真に撮って、同定を試みた。秋口に生物分類技能検定3級を取った。これも完全なる趣味でやったことだけど、ここに活きた。
そもそも、データを正確にとるのも難しい。光量は、このとり方でいいのか?恣意的な偏りが生じないか?何度も不安になる。(だから、最初の企画の中でデータの取得方法までをきちんと設計するのが大事なんだ)
自分が通いやすい場所の見つけやすい鳥を選んでも苦労するのだ。
研究者や調査員の方は、どれだけとんでもないことをやり遂げてきたんだろう?改めて頭が下がる。
でも結局、寒さや疲れも、コサギを見ていればどうでも良くなる。ご褒美は鳥が可愛いことだ。
これ、後で見返して「青いな〜」「甘いな〜」とか思うのかな。
むしろそうなっていたい。
課題は終わったけど、コサギを見るのはもっと続けたい。これからの成長に期待して、初心を振り返るためにここに残している。
大人になってからの勉強は楽しい
コサギを調べるにあたって先人の知見をお借りしようと、先行研究を探していたときに見つけた方のお名前がある。伊藤信義さん。
サギのねぐらについての論文を2本書いておられ、立派な作品集も出版されている。
この方の本業は医師である。
海軍軍医、大学教授などを経て伊藤病院の院長も務められた。
一方、子供の頃に見たサギの舞に心を奪われ、大人になってカメラを手にしてからは貴重な休日をサギ山で過ごす。そのときに捉えた風景の一部が写真集となり、また自ら研究対象としても踏み込み、日本鳥類学奨学賞を受賞された。
*
もっと早くこの世界に出会っていればと思うことはある。
鳥のプロの方々は、5歳の頃から鳥を追いかけていたり、少なくとも大学院で鳥の研究をされている方が多い。
伊藤さんは医師として生きる傍ら、どのような想いでサギに向き合ってこられたんだろう。著書から溢れ出る、純粋で膨大な熱量。想像でしかないけれど、駆り立てていたのは心の底からの好奇心だったのではないだろうか。
学ぶことは、人間に許されたこの上ない娯楽だと思う。
ただ、大学までの勉強は、その先に就職を見据えることも多い。「お金を稼ぐ」とか「自立する」という大切でわかりやすい目的が「何を学ぶか」をある程度方向づける気がする(その人の価値観や境遇にもよる)。
その点、大人になってからの勉強は、目的意識から多少は自由になれるというメリットがある。日常のちょっとした好奇心や、ひそかに温め続けた問いをすくいあげ、素直に学びを楽しむことができる。
目的ありきの行動は代替可能だ。コスト評価や効率化の対象になりうる。それが大事な世界線もある。
でも目的のないこと・プロセスそれ自体が楽しくてしょうがないことは、もう何にも取って変われない。唯一無二の聖域。生きる糧。
そういう領域を、これからも大事にしていきたい。
そしてもしかしたら、純粋な楽しみのために続けていたことがいつか何かの大きな意義につながるかもしれない。
そんな素敵なことってないのでは?
そもそも、人間社会を発展させてきた科学の営みとは、そういうものだったはずだ。
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