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文系大学院は「役に立つ」のか?

皆さん、こんにちは(こんばんは)!
朝生会のゆーです。

最近、結構暑くなってきましたね(唐突!)。
梅雨シーズンに突入しているので、今はまだしも、今後洗濯物を部屋干しし続けないといけないのが痛い…

それでは本題に移りましょう。
今回のテーマは、

「文系大学院は『役に立つ』のか」

です。読者の皆さんにとっては、なかなか馴染みがないかもしれないですが、ぜひ最後までご笑覧ください!



はじめに:なぜ、文系大学院なのか

以前、わたくしゆーは、
自身の経験をもとに、文系大学院について記事にしたことがあります。

これらの記事では、文系大学院がどのような場所なのか、
そして、わたくしがどのような経緯で進学するに至ったのか、
書き綴りました。

なかでも、「進学します②」の後半パートで、文系大学院に進学する理由②として「知的生産者の端くれとして、学術的な力で少しでも世の中の役に立ちたい」をあげたのち、
では、「文系大学院って『役に立つ』のか?」という問題提起をしました。
が、深堀りすることなく筆を置いてしまいました。


理由としては、正直にいうと、面倒だったからです(笑)。

正確には、これ以上議論を進めてしまうと、収集がつかなくなりそうだったからです。会話であれ文章であれ、まとめるのが非常に苦手な私にとって、
どこまで議論を進展させるのか、いつも頭を悩ましています。

ゆえに、当時は、「役に立つ」議論に入る前に強制終了させたというわけです。

前置きがかなり長くなってしまいましたが、
本記事では、「文系大学院は『役に立つ』のか」という問いに、
終止符を打つような(打てるとは言いません)議論を展開できればと思います。

文系大学院は「役に立つ」?

ぶっちゃけ、文系大学院は「役に立つ」のだろうか?読者の皆さんが全員気になっているところでしょう。

この問題と関連して、以前私は、「STEM人材」について話したことがありました。簡単にいうと、社会における様々な課題を解決するための実践を身に着けた人材のことを指します。

誰かが勝手に言いだしたわけではなく、将来的なプロジェクトとして、企業や国が、研究者、つまり大学院生といった人たちに対し、このようなスキルを要求しているわけです。

ただ、「STEM」って、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、数学(Mathematics)の頭文字という事実からもわかるように、理系分野はまさしく密接な関係がありますが、文系、言い換えると人文社会科学系は、そうではないわけです。

では、そのような文系大学院生は、どのような評価がされているのでしょうか。
そのヒントを探るために、文系大学院卒の就職について評価する、以下の記事が参考になるかと思います。

文系大学院卒の就職を巡る状況について、早稲田大学教育・総合科学学術院の濱中淳子教授はこう話す。

「そもそも文系大学院卒が少なくて、どのような人なのか平均像が見えてこないという状況があると思います。大企業でも大学院卒の大半は理系で、文系はごく少数。数人いる文系大学院卒の社員がもし優秀だったとしても、大学院を出たから優秀なのか、その人がたまたま優秀なのか、人数が少なくて評価しにくい。逆にもしその数人が優秀でなければ、『文系の大学院卒は使えない』といった評価になってしまいがちです」(濱中教授、以下同)

 濱中教授は2014年、企業の採用面接担当者2470人を対象に、大学院に進学したか、大学で熱心に勉強してきたかなどの経験によって学生への評価が変わったかどうかを調査した。

「事務系総合職として雇いたいと思う人材が文系修士課程の学生に多い」と思うかを聞いた結果、文系学部卒の面接担当者では46.8%だったのに対し、文系修士卒の面接担当者では62.9%、文系博士卒では78.1%がそのように思うと答えたという。

 さらにより詳細な分析では、自身の経歴にかかわらず、その面接担当者がどれだけ大学院生と話してきたかが評価に影響していることも分かった。たとえば、文系修士の学生を数多く面接してきた場合、そうした学生を雇いたいと思う人が多いという。

「もし本当に大学院生が人材として価値が低いのであれば、多くの大学院生を面接しても評価は高まらないはず。大学院批判が、大学院修了者のことをよく知らない担当者から発せられている可能性は小さくないでしょう。また、面接担当者がその研究について専門的な知識を有しているかによっても評価は変わります」

『AERAdot.』2021年12月10日「文系の『大学院卒』が日本だけ圧倒的に少ないのはなぜ? 大学院進学率の高い大学ランキング」https://dot.asahi.com/articles/-/62474?

つまり、文系大学院生の実態を知っている面接担当者は、比較的適切に評価してくれますが、全員がそうとは限りません。
これだけみると、なんだか暗鬱たる気持ちになりますよね…

私が考える文系大学院の魅力

文系大学院って役に立たないじゃん…
って思われた方!ちょっと待って!!

ここから、形勢逆転(?)するため、私が考える文系大学院の魅力をお伝えできればと思います!

私が考える文系大学院の魅力は、

世間では「無駄」だと切り捨てられてしまうような、「役に立つ」とは言われていないことを深堀りできる場所である

という点です。

哲学とかだとわかりやすいと思うんですが、
たしかに、人間が生きる意味とは?みたいなことを、ものすごく時間をかけて考えるのって、なんだか無駄にみえたりもします。

ですが、この無駄にみえる議論って、実はめちゃくちゃ大切なわけです。
というのも、「合理化」「コスト削減」「タイパ」みたいな考え方は、一見すると問題なくみえますが、これらを極限まで追求するあまり弊害が生じてしまいます。

たとえば、とある企業が、「合理化」の名のもと、良い数値を叩き出すことができれば成功、そうでなければ失敗、という目標を出したとしましょう。
たしかに、ひたすら数値を追い求めれば良いという指標は、非常にわかりやすいですし、従業員たちもそれに向かって作業すれば良い、ということにはなります。
しかしながら、数値に固執するあまり、一部の人びとに有害な影響を及ぼすことになってしまったらどうしましょうか(教科書とかで登場する公害をイメージするとわかりやすいかもしれません)。こうなると、取り返しのつかない大惨事になりかねません。

上述したものは極端な例ですが、
このような惨事を防ぐため、文系的な議論は大切になってくるわけです。

なにも、このような文系的な「無駄」な議論は、文系大学院生だけが享受できる特権とはいいません。が、物理的な生産の代わりに、より濃密な知的生産を可能とするのが、文系大学院の役割なわけです。

「役に立つ」という尺度について

「いやいや、たしかに『知的生産』って大事だと思うけど、文系大学院生が研究したところで、実際に『役に立つ』ような実用的な生産物を生み出してないじゃん」
こんな批判が聞こえてきた気がします(幻聴)。

うっ…その通り、と言いたくなってしまいますが、その気持ちをぐっとおさえ、
ここでは、「文系大学院は『役に立つ』のか」
という問いに取りかかりたいと思います。

そのためには、まず、
「役に立つ」
という価値観というか尺度について、検討する必要があるかと思います。

なぜなら、「役に立つ」って、なんか抽象的というか、わかりにくというか、そんな印象を抱いてしまうわけです。
つまり、「役に立つ」の解像度をあげ、この言葉が何を指しているのか、明らかにしようというわけです。

先ほどの批判に対する反論としては、
「では、あなたの仕事って、本当に「役に立つ」ものなんでしょうか」
があげられます。
それを探るために、ここでは「ブルシット・ジョブ」という概念を用いて考えてみましょう。

ブルシット・ジョブとは、デイヴィッド・グレーバーという人類学者が提唱した概念で、簡単にいうと「やりがいがなく、ムダで無意味な仕事」のことを指します(この本、お硬い「学術書」というより、ユーモラスなエピソードを多く含んだ、ある種の「ビジネス書」でもあります)。

たとえば、誰が確認するかもわからない資料をひたすら作成したり、会議がどのようにしたら短縮できるのかを考えるための会議など、実際はなくても困らないような仕事ってありますよね。
そうです、それこそがブルシット・ジョブです。

「ブルシット・ジョブ」の理解のために、私が最も気に入ったエピソードをご紹介しましょう。

この本のなかで登場する、大手出版社 IT 部門でデジタル・プロダクト・プロジェクト・マネージャーとして雇われたリリアンという人物が、実際には存在すらしない作業プロセスを「進行」させているよう、上司と部下に「見せかけ」なければならず、その結果、精神的損傷を負ったシーンがあります。皆さんにも、ぜひお見せしましょう。

 リリアンの証言は、以下のようなばあいに起こりうる惨めさについて雄弁に語っている。すなわち、自分の仕事には達成すべきなんの課題もないという事実と折り合うことが、仕事のなかで達成できる唯一の課題であるというばあいの惨めさ。自分の力を発揮できる唯一の方法が、みずからの力を発揮できないという事実をひた隠しにするために独創的方法を考案することであるようなばあいの惨めさ、みずからの選択にまったく反して、自分が寄生者やペテン師となってしまった事態と向き合うよう強いられることの惨めさである。

デイヴィット・グレーバー『ブルシット・ジョブ』

いやー、実に滑稽なんだけど、もしかしたらドキッとされた読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。その場合は、もしかしたら、あなたがやっている仕事は「ブルシット・ジョブ」なのかもしれません。

私自身、文系大学院に進学するにあたり、次のような正当化(?)を図ろうとしました。
世の中に溢れかえっているブルシット・ジョブに比べれば、よっぽど「知的生産」しているし、世の中の役に立っているんじゃないかと。

無論、私の研究が、目先の利益になるとは限りません。いやむしろ、ならないかもしれない…
ですが、このような積み重ねこそ、これまで人びとの学知や思想をつくり出してきたと思うのです。
だから、私もその一員として、堂々と研究に励んだら良いんじゃないかな、と。

それでは、問いに戻ってきましょう。
「役に立つ」とは、一体何をさしているのか。

ここまで散々「ブルシット・ジョブ」をけなし、文系大学院をヨイショしましたが、私は、別に「ブルシット・ジョブ」をやっている人が「無駄」で「必要ない」とは全く思いません。なぜなら、そのような仕事を押し付ける上司なり社長なり企業に、あなたは求められているからです。

そんなあなたは、ある意味「役に立っている」のです。

このように考えると、「役に立つ」の概念が揺らいでしまうような気がしてなりません。誰かの役に立っているけど、誰かの役には立っていない…これの無限ループ(?)ですね。

ここまで、「役に立つ」という尺度について検討してみました。
簡単にまとめると、
人びとがいう「役に立つ」とは、
「役に立つ」ときもあれば「役に立たない」こともある

といえるのではないか(なんだかトートロジーみたいですが…)。
となります。

先ほど、文系大学院の魅力とは、
世間では「無駄」だと切り捨てられてしまうような、「役に立つ」とは言われていないことを深堀りできる場所である
と主張しましたが、
それでは、この魅力と上述した「役に立つ」の尺度を重ね合わせてみましょう。

【問い】
文系大学院は「役に立つのか」

【主張】
文系大学院が「役に立つ」という議論自体をそもそも見直す必要があるのと同時に、世間一般的には「役に立たない」といわれている文系大学院の側面は、実は「役に立つ」かもしれない。

私は、以上のように結論づけました。
直接的な回答になっていないことは十分承知しておりますが、
この遠回りな思考が、文系大学院について議論する際には必要ではないのか、という問題意識を、読者の皆さんに提供したつもりです。

まとめ

いかがだったでしょうか。
なんだかまとまりがなく遠回りで説明しちゃったので、読みづらかったかもしれません(ごめんなさい)。

いずれにせよ、私が伝えたかったのは、
「文系大学院」は「役に立つ」と言い切ることではなく、じゃあそもそも「役に立つ」ってなんだろう、というところから、
文系大学院の魅力について考えよう
、という点です。

もし、文系大学院に進学するかどうか迷われている読者の方がいらっしゃれば、その参考になれば幸いです。

今後も、文系大学院生として色々と発信できればと思います。
では、また!!




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