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実存主義の観点から見る「ショーシャンクの空に」

人間は自由の刑に処せられている。 

 雷鳴と共に下水管を叩き割り、反吐を吐きながらラグビーコート5つ分の距離を這って進み、遂には自由と希望への道を手にしたアンディ・デュフレーンも印象的だったが、それ以上に頭にこびりついて離れないシーンがある。
「BROOKS WAS HERE(ブルックスここにあり)」とアパートの壁面に書き残して、その真下で首を吊った、背広姿の老囚人だ。当然、あのアパートで後々起こるブルックスとレッドとの対比が、この映画の重要なテーマである「希望」という概念を整然と表現しているのが印象的だという感想は、たぶん既に語りつくされているので一旦置いておく。私はブルックスが首を吊り死んだとき、冒頭の言葉を思い出した。

 「人間は自由の刑に処せられている」――20世紀の偉い哲学者サルトルの言葉だが、私はこの言葉がけっこう好きで(みんな好きだ)、よく実存主義について考えることがある。“ショーシャンクの空に”を観終わった日は一日、風呂やトイレや仕事中に、実存主義とブルックス、そしてレッド、アンディーのことを考えていた。

 実存主義については、このNHKのまとめや飲茶さんの「史上最強の哲学入門」で得た知識を参考にしている。

「自由の刑」とは

 “ショーシャンクの空に”の中盤、老囚人ブルックスは仮釈放され、懲役からも独房からも看守からも解放された。50年間続いた刑罰は一旦終わり、ようやく自由を許された。外の世界を歩き、仕事をし、好きなものを見て好きな音楽を聴ける。それどころか、これまでの邪魔な人間関係や面倒くさい血縁関係に縛られることもなく、新しい人生を始められる。
 それなのに、ブルックスは全然うれしそうではなかった。それどころか、常に不安と恐怖を感じ(刑務所から出る前でさえ)、遂にはそれに耐えきれず自殺してしまった。
 これが自由の刑という死罪なのだと私は考える。

 もう少し説明してみよう。

 人間には本来生きている意味などない。ただ母親の卵子と父親の精子が衝突して細胞分裂が始まってしまったから生まれてくるのであり、心臓が動くのを止めないから生きている。世界をあるひとつの精巧な演劇の舞台装置だとすれば、残念ながらこの世界にその演劇の台本はない。私やあなたやそのほかの人間はすべて、無限に続く牧草地に放り出された一匹の羊だ。私は自由の刑のことを考えるとき、その羊のことを頻繁に想像する。

 考えてみてほしい。私たちは羊を飼い、毛をとったり肉を食べたりするが、本来羊の人生(羊生?)の意味を私たちが決定したわけではない。私たちの手を離れ無限の牧草地へ放たれた羊は、どこへ行くにも何をするにも、羊は自分で決めなくてはならない。
 どこかへ歩いて行けば餌にありつけるかもしれないが、狼がいて羊を食べてしまうかもしれない。それでも「歩いて行こう」と決めたのは羊なのだから、狼に食われたのも羊のせいなのだ。だとしたら、その場に留まったほうが安全かもしれない。けれどやっぱり、一歩も動かなかったとしても、狼が向こうから来て食われるかもしれない。あるいは飢え死にするかも。それでも「その場にいよう」と決めたのは羊なのだから、やはり狼に食われたり餓死したとしても、羊のせいだ。他の誰でもなく、自分が決めて、自分でやったことだから。
 羊はもはや何をすればいいか分からなくなるだろう。広大な牧草地の中で、動くことも動かないこともできず、自分で自分の行為の全責任を負う不安と恐怖でいっぱいになる。誰かに助けてほしいが、そんな責任を押し付けられる相手はどこにもいない……。

 この、「自由でありながら自由に拘束される」ことこそが自由の刑であり、仮釈放されたブルックスのことだ。そして多分、いまだに社会のあちこちにごろごろしている我々のことでもある。私たちは大人になれば自由に生きていくことができる。なぜなら、本質的な意味で、私たちに生きている理由がないからだ。総理大臣に「あなたはパン屋になりなさい」と言われるわけでもなく、また大統領に「あなたは殺し屋になりなさい」と言われるわけでもない。しかし自由だからこそ、何をしても自分の責任であり、それが不安となる。自由とは一見だれもが憧れるべき素晴らしい概念に思えるが、実際、自由には影の部分があることを、“ショーシャンクの空に”のブルックスのシーンを通して理解することができる。

 逆に考えれば、「刑務所にいるのに囚人は何故か安堵する」「終身刑は囚人を廃人にする刑罰だ」という、映画の中の理屈も理解できる。刑務所という”不自由”は、人間の生に拘束をもたらす。サルトル的に言えば、刑務所にいる囚人たちは、自由の刑を免除されているから安心なのだ。

自由を駆使して不自由になる

 では我々は自由を恐れ、拘束に甘んじるべきなのかというと、それを否定したのがサルトル自身と、映画の主人公、アンディーだ。

 サルトルは、人間が自由の刑から解放されるためには、「社会に積極的に参加し、自らを拘束していくことが、最も自由を活かす方法である」と言った。これをアンガージュマンと言う。

サルトルの哲学によれば、意識存在である人間は、めいめいが自由な選択によって過去を乗り越え、現に存在している自己を否定しつつ、まだ存在していないものをつくりだしていく。したがって人間のあり方は、現在の状態からの自己解放であるとともに、まだ存在しない目的へ向かっての自己拘束(アンガージュマン)であると規定できる。 
             -アンガージュマンとは - コトバンクより引用

 難しくて私が正しく理解できているか不安だが、つまりこれを実践しているのがアンディーなのではないか。
 私なりに平べったくするのを許してもらうなら、アンガージュマンとはつまり自分自身という羊の羊飼いになることだと思う。無限の牧草地へ放牧された自由な羊を追い立て、何かしらの目的に向かって自分を移動させる。これは一見、刑務所と同じ「不自由」ではないかと考えられるかもしれない。しかし、重要なのは、不自由を与えるのが本人か否か、ということだ。論理パズルのようにややこしくなるが、
「与えられた自由を活用して『自分の希望の達成を目指す不自由』になる」
ということこそが、自由の刑から解放され、自由に押しつぶされず、真に事故を実現する方法としてサルトルが提唱した方法ではなかろうか。

 アンディーは、刑務所という拘束された不自由の中にあってなお、フィガロの結婚を聴き、図書室を作り、ジワタネホで暮らすという希望によって自分を自分の羊飼いにした。それは塀の中の生活に安堵し、看守や刑務所に拘束されることを目的とした囚人たちとは全く違う、真実としての「希望」であったと思う。だからこそ、レッドはアンディーの希望に心惹かれ、ブルックスのように自由に押しつぶされて死ぬこともなく、自分を自分の羊飼いにすることができた。
 希望を持つということは、自分で自分を拘束し、ある種不自由にすることなのだ。そうして初めて、人間は真の自由を知ることができるのだろう。


 ところでサルトルが提唱しここで頻繁に取り上げたのは「無神論的実存主義」だが、”ショーシャンクの空に”では聖書というメディアを通じて頻繁に有神論的な思想が描かれる。無神論的実存主義を実践しているとも見れるアンディーが、遂には有神論者の所長をあのような結末へ導いたということが、興味深くも思えてくるが……。

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