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好きの大きさ・種類もその時それぞれ

僕が麻美ちゃんくらいの時は、もう少し歌が好きだったかもしれない。

もう何年もまえのことですが、歌えなくて歌えなくて辛かった時(今も自由自在には程遠いですが)、当時から信頼していた人にそんな風に言われてショックだったことがあります。

ショックの根っこにあったのは、そんなことはない。私だって最大限歌が好きだ。という気持ちだったと思います。(そして記憶が正しければそのままそれを言ったと思うのでここにも書いてしまいます。笑)

ところがいま振り返ると、その友人の一言も当たらずとも遠からずだったと思える。

正確にはその時よりもっとずっと歌を好きになっている自分がいるから、今となっては言いたかったことがわかるのです。


"その時の自分のmaxの好きだと思っていたものが、未来の好きが越えていく。"


なんて幸せなことなんだろうと思います。


ありがとう。ありがとう。ありがとう。


ここ何年か、いつも何事も「ありがたいなぁ」と思って落ち着いた気持ちを意識的に保つようになっていて、

またそれと同時に、他の人と話す時には、その人と自分のそのものに関する好き度や好きな方向性が必ずしも同じではないということを大前提に話していて(自分の気持ちの押し付けや、逆に相手が寂しい感覚になっていないかな?とちょっとだけ気をつけたり)、

かと言ってじんわり感動するそれは恋が愛に変わるようなものかなと思っていて、自分の想いに何の疑いもなかったのだけれど

最近たまたままったく別のことで自分の荒ぶる姿(感情に揺さぶられる姿)を客観的に感じながらふと

あれ、歌に対する私のこの態度って、むりやり愛情"のみ"に移行して、落ち着けようとしてはいなかったか?

つまり

ひょっとして、自分はまだまだ歌に恋をして、恋い焦がれているのかもしれない。

という考えがわいてきました。なぜそこに行き着くの?というタイミングだったけれど、好きの引き金を再度引く=惚れ直す(この場合壊れたものがなおるというより、単に大きく好きな気持ちの自覚がプラスされるという意味で)ことはあるのだなと改めて思いました。

私は未婚ですが仕事や恋愛のパートナーシップに関しても「短期更新型」だと思っているところがちょっとあって、でもそれは「ちょっとずつで対照が回転していく」という意味では決してなく、目の前の相手や物事を丁寧に見る時間感覚が気持ち小刻み(頻繁)になる。ということ。どんなに時を重ねても、突然発見発覚することってやっぱり何かしらあるから。

もちろん私自身、旅にでなければならない時があったり、長くひとりの時間を過ごすことになる場合もあります。誰かのパートナーが忙しいこと、誰かの好きなことと向き合える時間がない時間がない時期があることも、もちろんよくわかります。

そういう時間があればそれはそれでその時できることを誠実に素直に楽しむことも、また上で言ったことのうちの1つ。

対人であればそこに共通認識がもてるちっちゃなコミュニケーションだったり、もうちょっと楽しむ工夫があったりすると、さらに目の前の人やことを好きになれたりする。

相手や技術の方向性を信用してもわかりきっていると慢心しないこと、研究を重ねること(とはいえこれが夫婦や勤続○十年等を経験すると、もしかしたらより揺るがない関係性が出来上がって感覚がかわるのかもしれませんが)

自分も相手もしくは対象物も変わらない部分がありながら色々な経験や気持ちを経て変化していく部分もありますね。

ずっとそこにいるような気がする、揺らがないものに対しても、肩の力を抜いてただ愛をもって過ごすとき、また違う一面に気づくとき、改めて目一杯恋するとき、色々あったらそれはそれでいいもんだなと思ったのでした。

日頃から師匠には「麻美は幸せじゃないと歌えない。だから思い切り幸せになりなさい。」と言われるけれど。

好きが溢れている時はやっぱり幸せだ。歌を好きになれてよかった。


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