古典はどこへ行った

             (2018,2,18)
 断捨離がブームである。
自分の老い先が見えてきた今、身の回りの無駄なものを片付けることが大切なことは十分わかっている。
 時々気になって、あまり着ていない洋服を大きなビニール袋に詰めてみたりするが、まだ何かに使えるかしら、窓ふきか車拭きになるかしらなどと思って、もう一度押し入れの片隅にしまってしまうものだから、いっこうに片付かない。

 洋服以外はどうだろう。
本箱を空ける必要に迫られて、本箱を片付けることにした。
好きだった有吉佐和子や宮尾登美子の単行本、私がもう一度読むことはないし、さりとて娘も嫁さんも読みそうにもない。強制もできない。
思い切ってブックオフにもっていって買い取ってもらった。
色が変わりかけた文庫本はごみに出した。
 
大きな場所を取っている世界文学全集。何時買ったものか思い出せない。
どうしても揃えたくて、いつか読みたいと思って買い求めたと思うけれど、ずっと箱に入ったままで開けた形跡がない。
「シェイクスピア」「嵐が丘」「チャタレイ夫人の恋人」ちなみに「罪と罰」を計ってみたら一冊で1245グラム、こんな重い本を読む体力はもうない。
48冊を段ボール箱四つに入れてブックオフに持って行くと、一冊5円で取ってくれた。受け取ってくれただけ、いいと思わなくては。

 「風と共に去りぬ」「怒りのぶどう」「大地」こんなに面白い本をもう誰も見向きもしない。
 「古典」はどこへいってしまったのだろう。私たちの若い頃は、こういう本を読むことが大人への入り口だと思っていた。
こういう本を読むことで、ものの考え方や心の機微、情念や考え方、対処の仕方、素晴らしい会話、そんなものをいっぱい教えられ、遠い時代に遊び、まだ見ぬ外国へ思いをはせた。

今の若者のツールは全く違う。
漫画やアニメやSNSやツイッターで意思疎通を交わし、用が足りる。
でもそれでいいのだろうか。それで十分なのだろうか。     
実は私でも「源氏物語」や「好色一代男」などには違和感を持ってしまう。
 時代が違うよと、そんな感覚で、若者たちは私たちを見ているのだろうか。

本の文化、紙の文化は絶えていくのだろうか。
本の表紙、装丁、活字の形、紙の質、美しい文章。そんなものが全部好きな私に、今のデジタル時代は我慢ならない。

私は子供たちに何を残せるだろうか。
考えた末[美しい日本語]を残したいと、日本の古典を選んで書き写しをしている。
気に入った和紙に、志賀直哉や川端康成、森鴎外、正岡子規などの作品をボールペンで書き写し、和綴じの本を作っている。これなら読みやすい。無理やり読ませようという作戦である。

鴎外の「舞姫」や樋口一葉の「にごりえ」をしみじみ読みながら書き写してみる。要するに男と女の話である。古今東西、永遠のテーマだ。
それをどう表現するか、それぞれの時代にそれぞれのやり方があるのだろう。
たとえそうであっても、美しい日本語を大切に次の世代につないでいってほしい、と切に思う今日この頃である。

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