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短編小説「I hate Chopin」

1

リエと明が会うのは、誰かの葬儀と結婚式、秋に親戚が集う芋煮会の時だった。彼らは、同い年のいとこ同士だった。明には妹が居たが、生後3ヵ月で死んでしまった。明が6才の時だった。明は、小さな棺から漏れ出る煙を見て、
「燃えちゃうの」
と両親に訊いた。母親は答えず、父親が煙ではなく冷気だと教えた。塊に触ろうとする明の手を父が掴んだ。
「火傷するぞ」
明は質問に疲れ、黙った。
「ドライアイスって言うんだよ」
横に並んだリエが明に言った。
明は、ドライアイスを知っていた。明は、改めて悲しみ始めた。リエの父は、リエに明の手を握るように言った。利き手の手首を掴まれたリエは、それを男の手だと思った。オルゴールが奏でるショパンの別れの曲が流れてきた。それは明の父のリクエストだった。彼の他に、ショパンを愛好する人間はリエの母を除き、会場にはいなかった。明の母は、図書館が閉館するのかしらと笑った。

彼女は寒村の生まれで、乳児1人を見送るのにあまりにも仰々しいと思っていたからだ。彼女には兄弟が9人居たが、成人したのは3人だけだった。しかし、人々は彼女の振る舞いを気丈だと褒めた。彼女はその後、女児を2人産んだ。リエは、彼女らとは仲良くなれなかった。明が、リエを贔屓にするからだった。明は、両親が自分を置いて幸せになっていく心地がした。一人っ子のリエに明は親近感を抱いた。明の父は最後に写真を撮った。室内は暗かったが、絞りを絞った。被写体は動かなかった。顔まわりの花々が、薄く淡くぼかされるだろう。彼は期待した。



写真機は秘密だけを撮るものだとリエは思っていた。初めての遠足前夜、父親からレンズ付きフィルムを渡されたリエは気がついた。毎年リエは夏になると温泉街の外れの別荘地にある祖父母の家へと預けられた。そこで、リエと明は毎日プールの用意をさせられた。刈り揃えられた芝生に、ゴムホースを這わせポンプで膨らませた本体へ水道水を流し込む。柵の外に出てはいけなかった。リエは明に訊いた。
「どうして水着を着ちゃだめなの」
「男の子みたいだからだよ」
明は答えた。明は男の子だった。
「温泉じゃないのに」
リエは言った。
リエは、髪だけでも伸ばそうと決めた。祖父は、明に水鉄砲を持たせるのを好んだ。リエには、アイスキャンディを舐めさせた。祖母は必ず家を空けていた。逃げようとすると連れ戻され、居ると殴られるからだった。祖父の部屋に祖母の写真は無かった。リエと明の、それぞれの母と父の写真はあった。皆一様に幼かった。彼は、近所の子どもたちには興味が無いようだった。彼はある秋、熊に間違われて撃たれて死んだ。葬儀場で別れの曲が流されると祖母は笑った。彼女は、ショパンが嫌いだった。彼女が、ショパンを嫌いになったのは、ショパンのせいではない。祖父が好んで弾いたからだった。



リエと明の住む街には、城址公園があり、城下を一級河川が流れていた。人々は皆、秋になると川辺に集い、肉を焼かずに芋を煮た。リエと明は、蒟蒻を千切る係だった。母親達は、里芋の皮を剥いた。父親達の役目は、火をおこす所で終わっているようだった。
リエと明は、水切り遊びをして待った。リエが投げると石は、水面を硬くして飛び跳ねる生き物に見えた。明の石は、ただの石だった。皆、明を笑った。リエだけが、石選びが大切なのだと教えてくれた。軽すぎず、平たく、角張った小石。リエは、握った感触だけで選んでいるわけではなかった。そのことに明が気がついた時には既に、リエは明の分まで水切りに適した石を幾つか見つけ出していた。ふたりは、周囲に人が居ない岸辺まで移動した。ふたりは膝をつき、石を放った。明は、リエに貰った石を全て投げ切るのが惜しく思えてきた。明はリエに気がつかれないように拾った石を幾つか投げた。どの石も必ず沈んだ。

やがて、明の父がふたりを呼びに来た。彼は、ふたりの祖父のカメラを首から下げていた。
「逆光だな」
彼は嬉しそうに言った。夕暮れの匂いがした。遠くで赤味噌が煮えているだけだった。



リエと明の家は、同じ学区内にあった。明の父は、大学病院に勤務するレントゲン技師だった。彼は、市民楽団のオーボエ奏者でもあった。リエの母は、同じオーケストラで、主にソプラノサックスを吹いていた。彼女は平日、生徒をとり教えていた。リエの家には、後付けの防音室があった。夜になると、明の父はよくやって来た。手ぶらでは来なかった。お惣菜や、お菓子を置いて帰った。リエは、父が夜勤の日に明の父が来ることに気がついた。リエが告げると、明の父は、明を伴うようになった。明は、リエの母にサックスを習い始めた。初めて楽器に触れる明に、リエの母は、アルトサックスをすすめた。それは、彼の体躯に適していた。音程がコントロールできるようになったら、ソプラノサックスに持ち替えても良く、身体が成長したらより大きなテナーやバリトンにも対応できるようになるだろうと彼女は考えた。一方、リエは音楽に興味を抱こうとしなかった。それでも、リエの母は、リエにピアノを習わせた。リエは楽譜を暗譜するのは早かったが、演奏は上達しなかった。巧く弾くのを最初から諦めているようだった。

リエの母は、リエをもどかしく思った。リエが熱心に取り組んでいたのは、写真だった。リエはレンズ付きカメラでなんでも撮った。手元の物を撮ると大方ピンボケして上手く撮ることが出来ないと気がつくと、絵を描き始めた。リエは、明とは異なり、利発で器用な子どもだった。リエは、私立のカトリック系の学校へ、黒いランドセルを背負って通った。公立学校でいじめに遭っていた明は、リエを羨ましく思った。明の父は、護身の為に空手を明に習わせた。初めは指を痛めたが、そのうち楽器の演奏を諦めなくても良い程度には体の扱いに慣れていった。



冬、明は下校途中、バス停で泣いているリエを見つけた。リエはリボンを掛けられた菓子箱を持っていた。それは、明の父が、リエの家へ持っていくリエお気に入りのお菓子のはずだった。2月だった。近所の公園で一人、鉄棒で遊んでいたら、話した事のない近所の女の子から貰ったと、リエは言った。リエの髪は短く切り揃えられていた。子鹿のように細長い手足は、元よりボーイッシュな印象を一層、補強していた。
「ピアノとか絵が上手になれば女の子みたいになれる」
リエは、明に尋ねた。
「なれるよ」
明は言った。明は、女の子だからリエのことが好きなわけではないことに気がついた。
明は、リエを家まで送った。リビングから明の父がやってきた。
「お前被ってんだよ」
明の父は、朗らかに言った。リエと明の父は、同じ洋菓子店の紙袋を持っているのだった。明は弁明しようとしたが止めた。叔父が姪にあげても良いのだから、いとこもいとこにあげて構わない。それが、明が考えたことだった。リエの母から、明親子は紅茶をもらった。
「お母さんにもよろしく」
リエの母は続けた。
「ふたりともチョコレート貰いすぎて困ってるでしょう」
「そうだな、来月クッキーで金欠になる所だったよ」
これは半分本当だった。明の父の同僚は男性が多かったが、病院スタッフの大半を女性が占めていた。二枚目なのか三枚目なのか判然としない明の父は、彼女たちに医師とは別の愛でられ方をした。明の母は、既に家を出て帰って来なくなっていた。リエの母は知らされていなかった。明の母は、明だけを家に置いていった。相手方が男児を警戒したからだった。明は、リエ親子に懐いていたので構わなかった。



リエ親子と、明親子は4人で出かけるようになった。市街地には天文台と美術館、中規模の博物館があった。また、城址公園とは別の山の頂上には動物園と遊園地があり、郊外にラッコのいる水族館と科学館があった。芋煮会は解散した。
毎朝、4人は揃ってラジオ体操をしてから、各々出掛けた。ある日、屈伸運動のタイミングを逃した明の父が、リエの肩甲骨が異様に突き出ているのを見つけた。明の父は、職場でレントゲンを撮った。背骨が横に外れて曲がっていた。明の父にとっては、珍しい病気ではなかったが、進行した場合には入院手術が必要だったため、リエ親子は不穏に思った。

ある冬の日、4人はドライブへ出掛けた。リエの父が国産高級車を買ったばかりだった。車は半島へ出た。乗り物酔いに見舞われたリエと明に、道は必要以上にうねって感じられた。4人が着いた水産資料館には、魚類と大型哺乳類の骨格標本が多数展示されていた。明の父は、いつも以上に饒舌だった。生業にしてしまう程に興味の尽きない骨を気楽に眺められるのは贅沢に思えた。順路の最後の展示室は、ホルマリン標本の部屋だった。ガラス瓶が各々、底面から白色灯に照らされていた。液が濁りなく標本を包み込んでいた。部屋の中央に、ヒトの心臓の展示があった。資料館の創設者の心臓とのことだった。
「どっくんどどど」
明の父が言った。
「やめてよ」
リエの母が言った。明とリエが笑った。明の父は、部屋の隅に展示されたクジラの胎児の標本には言及しなかった。個体は既に泳げそうな体をしていた。それは彼に、亡くなった乳児を思い起こさせるのに充分すぎた。代わりに明の父は、
「みんなぷかぷか浮いてるように見えるけど、かちんこちんなんだよ」
と言った。明の父は、学生時代に標本を作ったことがあった。リエの母が、
「そう」
と言った。明の父は終始、悲しそうには見えなかった。




リエの父は、夜勤明け、玄関で男物の靴を見つけた。それが誰のものでも構わなかった。彼は、別居するきっかけを探していただけだった。リエ親子とすることはあっても、話し合える事柄が全くなかった。明親子と集うと、自分だけが他人だと痛感するのだった。

間もなく、明親子は、リエ親子の住まうマンションの別の階へ引っ越してきた。リエの母は、夜間クラスも開講した。明の父は、早番の日にはリエの家で家事をした。リエは、母の経済的負担を軽くするため、公立中学校へ進学した。明は吹奏楽部、リエは美術部に入った。明は、父に似て女性社会で重宝がられた。毎朝、リエと揃って通学してもリエが羨ましがられるだけだった。リエは、女の子らしくなかったので疎まれることはなかった。リエは、男女共学校への進学を志望した。


部活動を引退したリエと明は、連日、市民図書館へ通って受験勉強に勤しんだ。市民図書館は、欅並木に面した高名な建築物の中層階にあった。通りから見ると各階は太陽光を遮られることなく水平に区切られており、幾つかの太く透明なチューブの中を白く細い支柱の束が傾斜しながら垂直方向に貫いていた。その頃、既にリエの背骨は手術が必要な程、曲がっていた。リエは、このビルに対して独特の愛憎を抱いた。リエは、明の父の勤務先に入院した。1週間程度で退院できる予定とのことだった。明は、リエを毎日見舞った。リエは快活な明を疎ましく思い始めた。
「もう会いに来ないで」
リエは言った。明は、去り際振り向いて、
「病人みたい」
と言って笑った。白く大きな歯が、上物のとうもろこしの実のように口元に詰まっていた。それをリエは、男の歯だと思った。別れの曲が流れてきた。それは、病院で聞こえてくるはずのない音楽だった。



明の父は、明が学ランのポケットに詰め込んでいた石をリエに見せた。
「良い石見つけてよっぽど急いで投げたかったんだろうな」
明の父は言った。リエは、明の父が楽天家なのか、エイリアンなのか分からなくなってしまった。
明は、高校見学の帰り、坂道の急カーブで新品の自転車ごと崖に突っ込んだのだった。ブレーキ痕はなかった。リエは、明を生きてはいると思った。明の父は、明が自分で使い切ろうとした体が、他人のものになっても息子は構わないと思うだろうと考えた。リエの母は、同じ境遇にリエが置かれたら、機械を外すのは自分の手しかあり得ないと思った。リエの手は、太腿の上で、あの曲の運指をなぞっていた。握り返すべき手が、そこにはなかった。それだけのことだった。



リエは、話したい人が居なくなったので出来立ての動画サイトの閲覧にのめり込んだ。そこには、「I like Chopin」という陽気なダンスミュージックと、憂いを帯びた日本語カバー曲「雨音はショパンの調べ」の動画が違法アップロードされていた。「別れの曲」を検索してもダンスミュージックが出てきた。フランス語でのデュエット曲「レモンインセスト」だった。それは、普遍的な親子愛からの逸脱を暗示していた。
「I hate Chopin」
リエは声に出した。本当に嫌いになりそうだった。
「I hate Chopin」
本当に、嫌いになれそうだった。リエは少し安堵した。リエは、水切りをしに川辺へと出掛けた。迎えにきたのは、明の父だった。
「逆光だよ」
明の父は、極めて明るく言った。傍にリエの母が寄り添っていた。早くこの街を出よう。リエは決めた。しかし、それは予め決められていたことかも知れなかった。

Fin

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