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土のにおい

(約3400字)

鶏が死んだ。
冷たく乾いた日々のあと、小雨が数日続いた。その日の朝、雨上がりの地面は太陽に暖められ、生気が立ち上り、陽光の中に生まれたばかりの小さな羽虫が無数に飛んでいるのが見えた。春の知らせは気分のいいものだ。何か新しいことが始まる予感がある。私は朝食を済ませると、庭に出て鶏の餌の準備をした。鶏に与える餌は市販の配合飼料でもいいのだけど、小米やぬか、近所の魚屋からもらうアラ、クラフトビール工場から出る圧縮された麦芽の粕など、餌の材料としてもらえるものが案外多い。それで、自前の餌を作って与えている。市販の配合飼料には抗生物質や添加物も多いから、自分で作ったほうが安心、というのも理由のひとつだ。

納屋まで行って今日の分をバケツに入れる。鶏小屋の前に到着するより先に、私は異変に気付いた。バケツを手にした私に鶏たちが気づき、小屋の中で騒ぎ出すのはいつもの光景だが、その騒ぎの中、一羽だけ、砂浴びをしている。だが、どうにもおかしい。鶏は、羽毛の間をきれいにするため、床材の中で毎日砂浴びをするのだけど、いつも小屋の奥でしているし、砂浴びをするのは、日中の暖かくなってきた時間だ。こんな朝から、みんなが騒いでいる真ん中にうずくまっているのは奇妙だった。
小屋の前まで行くと、それが砂浴びではないことが分かった。どうも立つ力もないらしく、べったりと地面に寝ている。他の三羽は、普段と様子の違う仲間のことなど、まったく意に介さず、いつもの地面だが、ちょっと邪魔なものが置いてある。というくらいの調子で、動けない仲間を踏みつけては、羽根とその下の柔らかくよじれる皮に脚を滑らせ、よろけながら激しく餌をくれと鳴いている。まったく自分のことしか考えない鶏らしい態度だ。じっと倒れたままの一羽は、体の上を縦横に踏みつけられて抵抗もせず、時折、首を持ち上げるが、その目は閉じていて、鮮やかだった「とさか」の色もすっかり褪めている。

こんな時、ペットならば病院へ連れていくのだろう。だけど、この鶏たちは自給自足の卵用でペットではない。だから私の心配事は、この倒れている鶏が、
(もし病気なら隔離しなくては)
というのと、
(仮に病気ならさっさと死んで欲しい)
という2点だった。言い方は悪いが、卵を産まない弱った鶏はお荷物にほかならない。鶏舎はひとつしかないのだし、隔離するとなれば別に鶏舎を作らなくてはならない。遅かれ早かれ鶏は死んでしまうのだから、そのために新しく鶏舎を作るのは完全に無駄な労力だ。私は二畳ほどの広さの鶏小屋で、水を替え、産んだ卵を取り出した。鶏たちは夢中で餌をついばんでいる。
生き物というのはすべからくペットと思っている人は、「このニワトリさん、なんて名前なの?」と、無邪気に聞く。片目が潰れている、羽根の色が濃い、など、鶏たちはそれぞれ身体的な個性を持っているので、見分けはつく。けど名前はない。今、目の前でしゃがみこんでいるこの一羽もピッピやコッコちゃん、などと言った特別な一羽ではなく、ただの「鶏」に過ぎない。どの鶏も数年のうちに死ぬからこれは妥当な対応だ。だけど、そんなことを言うと冷酷な人間と思われるので「名前はまだない」などと言って毎回はぐらかしている。

午前の家事を済ませて鶏小屋に戻ると、鶏は死んでいた。鶏舎から出すためからだを持ち上げると、生きていたときよりもずっと重かった。さっきは「さっさと死んでほしい」なんて思っていたのに、いざ本当に死んでしまうと勝手なもので、その重さが身に迫ってくる。私は庭の隅に朝刊を広げ、その上に死にたての、まだ柔らかい鶏を置いた。羽根を畳み、脚を縮め、首を曲げてから、くるりと新聞紙で巻いた。包んだ鶏を軒下に残し、私は仕事に出掛けた。

だが、仕事先で私は鶏のことばかり考えていた。そうだ、最近、猫がうろついているんだった。下手に鶏を食い散らかしてやしないだろうか、あるいは、上手くくわえて自分の縄張りまで持って行ってくれたなら、それはそれでいいけれど、その辺に残骸が散らかっていたら困るな。でも味をしめて他の鶏も狙われるのも困るぞ。などと、終始、うわの空で過ごした。実際、帰ったとき、鶏の死体が無事でも、それをどう処分するのか。一番妥当なのは山に持っていって埋めること。職場の人が「鶏肉で食べたら?」なんて言ったけど、死因が不明なだけに食べるのはさすがに無理だ。だけど…。埋めるのはいやだな。なんとなく漠然と、そんな風に思った。

埋めることは「埋葬」であり「弔い」の形だ。生物が生きていた時の姿をなるべく長く留めさせるための手段と言える。埋めた場合、死体の分解者は虫や微生物に限られ、自然に還元される速度は極めて遅い。死体を外気に晒すと、もっと大きい動物、キツネやタヌキなんかも食べに来るから、自然界に早く還元される。埋めてゆっくりと肉体が蝕まれていくよりも、まだ新鮮なうちに別の魂に取り込まれたほうが生き物として自然なのではないか。

仕事を終え、午後遅く戻ったとき、鶏の亡骸は無事で新聞紙の塊はそのままだった。ただ、折り畳んだ脚は片方ぴーんと伸び出し、柔らかかった体はコンクリートの上に置いた部分が鶏自身の重みで平べったく固まってすっかり硬直していた。ふわふわの羽根は朝と同じなのに、弾力のない、冷たく固まった体は、朝よりもぐっと重く感じられた。脚が突っ張って戻らないので、新聞紙で包むとぶざまに飛び出してしまう。私は車の後ろに鶏を積み込み、山に向かった。

10分ほど車を走らせ、県道の脇から山へ向かう舗装された道を入る。登山の山ではなく持ち主だけが入る山で、普段は狩猟者以外ほとんど人の出入りがない。植林された杉林を伸びるアスファルトはやがて切れ、その向こうは未舗装の道、いや、道ではない。車が通るからできた道、獣道ならぬ、車道ができている。もともと山間の田んぼとして開拓されたところが耕作を放棄し、その後土を入れて林になった、というような場所に車の轍だけができている。それを最後まで行くと、道は終わり、そこから山道が始まるのだった。だが、夕刻の山に入るのは気味が悪い。「人間の時間はもう終わり。今からは人間以外の生き物の時間」と、山が言っているように思える。私は山まで行かずに、茂みの中を走る途中で車を停めた。

周囲は背丈より高い枯れ草で覆われ、近くを水が流れる音がしている。どこか適当な場所はないかと、当たりを見回すと、一ヶ所、ユキヤナギの一群が咲いている場所がある。自然生えにしては見事だ。私は、車から鶏を運び出した。ユキヤナギはよく見えていたのだけど、実際に咲いている場所までは鶏を抱えながらススキや刺の付いた灌木をかき分けねばならなかった。それから中腰になり、ユキヤナギの中を潜っていく。たくさんの白い、小さい花が枝垂れていた。しゃがみこんだ私は、新聞紙からゴソゴソと冷たい鶏を取り出し、そっと地面に置いた。鶏の茶色い羽がふわふわと風になびくと、その下に密生した白い羽毛もふわふわと揺れた。

私は、なんとなく手を伸ばし、辺りの土や枯れ葉を掴んで鶏の上にかけた。多分、ちょっと寒そうに見えたのだ。茶色い葉や腐葉土がパラパラと鶏の上に積もる。それから鶏の周りにある葉っぱや土を、素手で掻き集めてはせっせとかけた。雨上がりの山はまだ少し湿っていて、葉も朽ちた枝もしっとりと濡れていた。それが羽毛の上にちょうどよく乗り、鶏の体は次第に隠れて行った。

私ががさごそと動いているせいか、風が吹いているせいか、ユキヤナギの花びらが舞い散った。もうユキヤナギも終わりだ。葉っぱと土で隠れていく鶏の上にも小さい、白い花びら無数に散っている。埋めたわけではないから、匂いを嗅ぎつけて、今日か明日にでもキツネかタヌキが食べにやってくるだろう。そうやって、鶏のいのちも別の生命体に移動し、エネルギーに転換される。その別の生命体もまたいつか死んで別の何かのエネルギーになる。そうやって山の命が循環していくだろう。もともと鶏は家畜で、山の生き物ではないけれど。

鶏のからだはすっかり隠れ、私は茂みから出た。小さく手を合わせると、サッと風が吹き、桜の花びらが空から落ちて来た。山桜が遠くから飛んで来たようだ。山桜は里の桜よりもうんと早く咲く。だが空はまだ遠い。見渡しても桜の木はどこにもなかった。

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