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[小説]猫とラジオと

 今の世の中はとても便利で、たとえばスマートフォン、手のひらにすっぽり収まる端末で、知りたいことをその場で調べることができる。インターネットには知らない情報がいくらでも転がっていて、分厚い文献の束を漁ることもなく、机上のコップに手を伸ばすように、検索窓にキーワードを打ってしまえば五分で辿り着けてしまう。ただ情報が流れているだけではなくて、仮想の自分を「アカウント」という形で作ってしまえば、同じような輪の中で見知らぬ他人と画面越しに繋がることだってできる。大学生なんて身分も関係ない。一時間に電車が一本しか来ないような田舎でも、いくつもの仮想現実の中で無数の人や情報と出会えるのだ。技術の発達に感謝しながら、僕はブラウザの検索窓に「猫 道路 死体 処理」と入力した。

 時刻は午前二時を回った頃。昼間は絶え間なく車が流れていく道路はやけに広く、閑散としていた。いつ通るかもわからない車を待って、信号機は青・黄・赤と一定の秩序を保ちながら、静かにループを繰り返している。時折、大型トラックが轟、と心持ちブレーキをかけて、変わりたての赤信号に突っ込んでいく。風に圧されてシャッターが軋むと、もうなにも聞こえない。信号はそんなことを気にも留めずに、延々と青・黄・赤を繰り返す。
 横たわる猫は、トラックに轢かれたのだろうか。それほど外傷があるようには、少なくとも遠目には見えなかった。どういう風に轢かれたんだろう、もしかしたら自家用車なのかもしれない、いや、そういう憶測は意味がないようにも思う。猫の死体は、片側三車線の真ん中にある。それだけで、なんら関係ない僕はうっかり路肩に車を停めただけだ。なぜ停めたのか、自分でもよくわからない。放っておけなかったのか、それとも気になってしまっただけなのか。アスファルトに横たわって、車が来ても避ける素振りさえ見せられない猫。地面に張り付いて、もう動かない。

 表示される検索結果を眺めてみると、僕と同様か、あるいはもっと実務的に、「どうしたら片付けてもらえるのか」と問いかけている人が多いようだ。そういった疑問のほとんどはヤフー知恵袋などの質問コーナーに投稿されていて、どこかの博識が答えている。彼らによると、どうやらどこかに電話をかけることで片付けられるようになっているらしい。国道か県道か、あるいは私道なのか、それぞれで電話をかける場所や人が異なるのは管轄が違うのだから仕方ないのかもしれないけど、共通していることもあった。一つは、もし轢かれた動物が生きているのなら保健所に連絡して保護してもらうこと。もう一つは、もし死んでいるのなら道路課か清掃局等に連絡する、ということ。清掃局の仕事は、路上のゴミを片付けることだ。

 ふと、人の声が聞こえてきた。ノイズ混じりのかすかに割れた声は、車載オーディオが流すラジオのパーソナリティのものだった。ずっと流しているのだからそれまでも聞こえていたはずなのに、今はじめて聞こえてきたかのようだ。あまりに当然のように流れているものだから、うっかりすると聞き落としてしまう。ラジオはいつだって流れているし、僕が耳を傾けなくたって流れ続けている。けれど、一度気がついてしまうと、聞こえていなかった朧気な部分までぼんやりと蘇ってきて、それに意図せずとも耳を傾けられてしまう。
『それじゃあ質問タイムいってみようか〜、山崎君! ラスクちゃんをリードしてくれよ〜』
 陽気なパーソナリティが、リスナー同士を電話で繋げる。男女のカップリングで、パーソナリティが出す問題に答えるコーナーのようだ。まずはフィーリングマッチと銘打って質問をするのが慣例らしい。
『それじゃ、えーと、……好きなアーティストは?』
『えと……あ、高橋優とか』
『あ、僕も聞きます』
『あ! なに好き、ですか?』
『え、と……「ほんとのきもち」、とか、「福笑い」も』
『あ、ファーストアルバムにも入ってる曲だよね、私、それから入って』
『僕も! 友達から初めて借りたのがそれで』
『え!』
『いいねぇ〜! 好きなアーティストが一緒で、アルバムも同じ! これって運命じゃない?』
 あはは……と、たどたどしく笑う若い男女の声はぎこちなく、もつれ、それを取り合うようにパーソナリティーが番組を進めていく。まるで下世話な公開お見合いだ、と思いながら、僕の目はまたスマートフォンの画面に引き戻されていた。『今度はラスクちゃんから質問いってみようか〜』と声が聞こえてきたような気もするけど、なんだか遠く聞こえる。僕の意識は、新しく開いたウェブページにすっかり持っていかれていた。
「道路上の小動物の死がいについて」とタイトルに書かれた市役所のQ&Aコーナーには、いくつかの道路の区分と連絡先が載っている。無論、自分が今いるこの道路も含まれていて、スマートフォンの地図アプリで現在地を確認すれば、もう電話できてしまう。いつの間にか僕は、電話するか否かの選択肢に行き着いてしまっていた。いや、この問題にはとっくに気づいていたはずだ。猫を見つけて、ただ見過ごさずに止まってしまった瞬間、二択はすでに根差していた。見捨てるか、見届けるか。放っておけなかった、哀れみの気持ちもあったかもしれない。けれど、僕の意識は違うところに引かれていた。猫の死体とその行方、車に轢かれて死んでしまったカワイソウな猫。興味本位だった。猫の死体がどのように「処理」されるのか。はじめ遠目で見つけた時は服かなにかが落ちているのだと思い、近づいてやっと猫だと気づいた。ブレーキを軽く踏んで、横目に通り過ぎて、僕は車を停めようと考えた。うかつだった、かもしれない。地図アプリを開いて、GPSで現在地を測定する。フォーカスした道路上に青い六角形のマークと、中に三桁の数字。連絡先は、市のごみ減量推進課。
 回収してもらおう。あるいは、償いになるかもしれない。

 七回目のコール音が鳴って初めて今が真夜中だったことを思い出したと同時、ガチャリ、と受話器が取り上げられる。後悔する間もなく電話は繋がってしまった。
『はい、お電話ありがとうございます。山形市ごみ減量推進課の後藤です』
 初老と思しき、男性のしわがれた声。言葉は丁寧だけど、間延びした「はい」には寝起きの気配が隠せていない。
「あの、夜分遅くにすいません」
『はい、どうされましたか?』
 どうされましたか。一体どうしたというんだろう。自分が迷惑を受けているわけでもないのに、僕はこんな夜中に電話をかけて、路上の死体を取りに来させようとしている。むしろ自分が迷惑をかけてしまったのではないだろうか。
『もしもし?』
「えっと……道路に、猫の死体が」
『あーはい、猫の死骸ですね。道路というと、私有地などではなくて? ビルの前の道路とかになると、土地の管理者の方から通報していただく形になってしまうんですが』
「いえ、県道二六七号線の路上です。車に撥ねられたみたいで」
『なるほど、二六七号……申し訳ないんですが、回収できるのは九時からになってしまうんですよ。清掃車を出せるのが九時からで……それでも大丈夫ですか? 何か不都合などは?』
「いえ、大丈夫です」
『それでは、詳しい場所……目印になるビルなど教えていただけますか?』
 地図で道路自体は確認したものの、周りになんて注意を払っていなかった。車を停めているのは猫を通り過ぎてはじめての信号を左折したところで、ちょうど猫はビルの影に隠れるようにして見えない。このビルがなんという名前なのか知らないし、辺りの目印も記憶には残っていない。思い出せるのは、県庁やいくつかの学校を通り過ぎたことくらいだ。
「ちょっと待ってください」
 断りを入れて車のドアを開けると、生温い風がぶわと吹き込んできた。肌寒いわけでもなく、じめっと嫌な湿り気を帯びているわけでもない、梅雨を控えた穏やかな風。ビルを右折、猫の元へ行くように歩いていく。見上げてもビルに名前は書いておらず、電柱にも住所は書かれていない。あたりを見回して、目印を電話口に告げていく。西に向かう側、バイパスより東、銀行を過ぎたあたり……見つけた情報を逐一報告するようにして、猫の位置を絞っていく。そこで僕は、ようやく猫をじっくり見ることになった。歩道からわずか三メートル、車線の真ん中で、アスファルトに顔を埋(うず)めるように横たわり息絶えている。この距離に近づいても寝ているようにしか見えない。もしかして生きているんじゃ、なんて考えがよぎってすぐ、車が通っても起きないんだから、と否定する。事実、今また猫のすぐ上を大型トラックが掠め過ぎていっても、猫はぴくりともしない。トラックは慣れた様子で減速せず、障害物を跨ぐように少し進路を逸らしただけだった。あとにはシャッターの軋む音だけが残る。
 ついさっき、僕は「大丈夫です」と答えた。回収は九時から……なにが大丈夫なんだろう。不都合、とは誰のものだったんだろう。
『それでは九時以降に回収にうかがいます。最後になんですが、回収の際に場所がわからないかもしれないので連絡先をよろしいですか』
「えと、すいません。その前にいいですか」
 後藤さんは一拍を置いて『どうしましたか』と訊いてきた。
「猫なんですけど、道路の真ん中の方で、もしかしたらまた轢かれるかもしれなくて……その、こういう場合って、移動した方がいいんでしょうか」
 僕にはまるでなかった不都合でも、これから朝を迎えてここを走る車にはあって、きっと大丈夫でもない。車にとっても、猫にとっても。朝九時までの七時間弱、この猫は「障害物」として避けられ続ける。交通量は次第に増えて、それだけ邪険にされて、やがて避けられなかった車は、無防備な体をにじり潰すしかない。湿っぽい、重く鈍い衝撃、忌々しく掃き捨てられる『くそったれ』……それは彼にとってもそうだけど、なにより僕にとっての不都合かもしれない。
『移動、ですか……』
 上ずるように復唱して後藤さんは黙ってしまった。こんな質問をする人は、そういないのかもしれない。
『もし動かせるんだったら、動かしていただけるとありがたいんですが……できますか?』
「たぶん、大丈夫かと」
『できたらでいいので。路肩にずらすだけでも大丈夫なので……』
「えぇ、できたら」
『お願いします。それでは連絡先を……』
 名前と住所、電話番号を伝えて電話を切る。通話時間04:24と表示された画面が消えるまでじっと見つめて、いつの間にか止まっていた息を吐くと目元がチカチカした。靄がかった頭でぼんやりと考える。どうしてあんな質問をしてしまったんだろう。どうしてここにいるんだろう。義憤だった、やりきれなかった、割り切れなかった。言葉は浮薄で、どれもきちんと当てはまってくれず、象ってもくれない。ふらついて、路肩のコンクリートブロックに腰を下ろして、見つめる。スマートフォンを、その先の動かない猫を、じっと見つめる。

 あれは中学の、何年だっただろう。ひどく蒸し暑かったのは覚えている。夏休みを間近に控えた午後、給食の牛乳で腹を下した僕はグラウンドの隅の木陰で、級友や他クラスの生徒たちが走るのを見ていた。保健室で休むと言うと、先生は「ゆとりだからって甘えが許されるわけじゃない」と言って聞かなかった。日陰でも汗は止めどなく溢れ、体裁のために着替えた体操服を滲ませる。セミの大合唱が耳をつんざいて、濡れた体操服が肌に張り付いて、アトピーがちの肌が赤くただれて、暑くて、だるくて、当て擦りに草をむしっていた。
「暑いね」
 休んでいた生徒はもう一人いた。髪の短い女の子で、斎藤さん。下の名前は思い出せない。よく体調が優れないといって見学している子だった。今になっておよその事情はわかるけれど、当時はそんなこと知らず、自分みたいに身体が弱いんだろうと察するばかりだった気がする。彼女もやっぱり体操服に着替えさせられて、ついでに水筒も一緒に持たされていた。
「はやく秋にならないかな」
「そうしたら、夏休みも一緒に飛んじゃうよ」
「それは困る。でも、暑いのはなぁ」
 他愛のないことばかり話していた。五限目の授業のこと、朝のホームルームで読まされるニュースのこと、学期末テストのこと、買ってもらったという携帯電話のこと、ブラックマヨネーズ小杉似の先生の頭髪事情……夏場の体育の時間は、二人で話すことが多かった。といってもそれは一夏に限ったことで、まだ斎藤さんが学校に来ていた頃の話だ。斎藤さんはその年の冬から学校に来なくなってしまった。理由は、ついにわからなかった。
「あれ、なんだろう」
 授業終わりのチャイムが鳴って、教室に帰ろうとした時だった。斎藤さんの声につられて、グラウンドの端に小さな人だかりができているのに気づく。集団はある木の下で、中央を覗き込むように輪をつくって話していた。
「なんの鳥?」
「スズメっぽいけど」
「カワイイ〜!」
 話し声に混じって、か細い鳴き声が聞こえてくる。集団の隙間から覗くと、雀のヒナだった。見上げると、木の枝に鳥の巣がある。落ちてきてしまったのか、巣立ち直後なのか。
「よっし、俺たちで保護しようぜ」
 そう言ったのは、クラスのリーダー格の一人だった。彼を中心に男子らが集まってきて盛り上がるに、どうやらヒナを拾って飼育しようという。「まず連れて行こうぜ」と言って、彼はヒナに手を伸ばし、
「やめた方がいいよ」
 思わず、声を出していた。
「あ?」
 目を点にして、「なに言ってんだ?」という目でこちらを見てくる
「一度人の手で育てたりしたら、自然に戻るのが難しいんだよ。昔、本で読んだことある」
「へぇ」
「だから、自力で自然に帰れるように」
「あー、わかったよ。助けねぇ方がいいんだろ」
 そう言って彼は踵を返し、
「つまんねぇな、お前」
 掃き捨て、彼は足取り早く友達の輪に戻っていった。話し声が風に乗って届く。
「いいのかよー、あんなんに言われっぱで」
「ま、あいつが言うんならそうじゃねーの? 本ばっか読んでっし」
 大声で話すものだから、聞きたくなくても聞こえてくる。僕は、間違ったんだろうか。
「戻ろう」
 斎藤さんの言葉に頷いて、雀をその場に、教室に帰った。やけに背中が熱かった。
 あの後、雀はどうなったんだっけ。

 スマートフォンのLEDが赤く点滅している。不在着信の通知だ。発信元は、大学の友人。いくらマナーモードにしているとはいえ、着信に気づかなかったなんて。折り返しの電話を入れると、二度目のコール音で電話に出た。
『あ、わりぃな。ドライブ中か?』
「ん、帰るとこ」
『そっかぁ。まぁ三時だしなぁ。……ゲーセン』
「却下」
『ちぇー』
 露骨にがっかりしたような声で、わざとらしく溜め息をつく。
「なぁ」
『お、ゲーセン行く気になったか』
「雀のヒナが巣から落ちていたら、お前ならどうする?」
 この能天気だったらどうするんだろう、ふと気になった。
『ヒナ? んー、拾って巣に返すんじゃねぇかな』
「そっか。やっぱりそれがいいのかな」
『いいのかどうかは知らねぇけどさ、俺は満足だわ。雀の気持ちなんてわかんねーし』
「そういうもんか」
『そういうもんだ』
 それから少し談笑して、おやすみと言って電話を切る。お礼は心の中で言った。

 死体には蠅がたかるけれど、昼夜を問わないらしく、忙しく羽音を立てて猫の周りを飛び交っていた。考えてみれば当然で、夜中のコンビニの窓には虫の大群がびっしりと貼り付くし、誘蛾灯に焼かれては死骸がぼろぼろと落ちている。なにも不思議なことなんてない。
 街灯の下、小蠅を払いながら猫に身体を寄せていく。茶虎の成猫で、左半身から腹を伏せて事切れている。肉付きも恰幅もいいけど首輪は付いていない。よほど旨いものでも食っていたか、あるいは食わせてもらっていたのか。幸い、血が流れ出している様子はなく、腐臭もしない。それほど時間が経っていないのか、いずれにせよ運ぶのに支障はないだろうと安心して猫の側にしゃがみこみ、手を伸ばして、初めてわかったことがある。体毛に隠れて見えなかった右肩の辺りが大きく裂けて、下の肉が顔を覗かせていた。流血は既に止まっていてアスファルトに染み、元は肩だったと思しき皮肉から腹にかけて、萎びた茶色い毛並みにこびりつく粘着質の赤黒い痕。腐臭こそしないものの、醸成された獣臭に混じって血の臭いが鼻を突く。
 轢かれて、無傷なわけがないんだ。
 気づいたところで、僕の手はもう、猫に触れている。指の間をすり抜けてくすぐってくる毛の感触。ほのかな体温は、生きていたときの名残か、それともアスファルトの熱だろうか。生きている猫とそう変わらないようで、ぶにぶにとした肉の感触しか返ってこないのが決定的に死んでいるのだと実感させる。これは容器なんだ、もう生き物じゃない。猫とアスファルトの間に両手をすり込ませて、くいと力を入れる。肉に指が沈みこんで、そのまま溶けちゃうんじゃないかなんて杞憂を抱かせて猫の身体は持ち上がった。
 死後硬直という言葉は聞いたことがある。けれど、実際に触ってみるまでどんなものか想像できなかった。やはり思っていたより全身の筋肉は強張っていて、猫の四肢は先端がわずかにしな垂れるばかり、くたりともしない。もし硬直が始まっていなければ、肩の肉がずり落ちて下層の肉が露(あらわ)になっていたんだろう。内蔵まで見えたかもしれない。
 腕が覚えている猫たちの体重より少し軽いような気がする。思っていたほど重くはない。死者の体重は21グラム軽くなる、という話を聞いたことがある。霊魂が抜け落ちるためだそうだ。そんな馬鹿な、と思っていたけど、あながち間違いではないのかもしれない。手の中の猫は、中身のなくなった容れ物だ。それから、顔がなくなっている。原型を留めないで、すっかり削げ落ちていた。「破裂したザクロのよう」という比喩は遠からず正しい。あるいは、咲いたばかりの花か、豚バラ肉。ぱっくりと割れて、見る影もなくなっている。アスファルトに埋めるように顔を伏せていたのではなくコンニチハしていたわけだ。軽くなったのは、魂が抜け落ちたからというばかりではないらしい。
 たかってくる小蠅や羽虫が鬱陶しいが払うこともできず、僕はそのまま道路脇に歩いていって、白線の内側に再び猫を横たえる。路肩側に広く幅が取られていて助かった。衆目に曝されないよう、顔を下に向けてあげる配慮を忘れない。はたして猫は大人しく従ってくれた。手を合わせて体感十秒、冥福を祈る。

 大きな仕事を成し遂げたかのような、ある種の清々しさがあった。それ以上に早く休みたかった。咽の乾きがひどい。早足で車に戻って、エンジンを切り忘れていたことに気づく。シート脇のペットボトルを飲んで、やっと一息を吐くと、また人の声が聞こえてきた。
『山崎君、ラスクちゃん、ありがとう! この番組のテーマは「繫がり」だけど、こんな繫がりが生まれたのは初めてだよ! 本当にありがとう!』
 テンションの高いパーソナリティが、輪をかけて興奮している。
『この番組を聞いている君も、どこかで聞いている誰かと繋がっているんだ。それってすごいことだと思うんだよ。奇跡的なことなんだよ、こんな時間だもんね』
 時計を見ると、間もなく三時を迎えようとしていた。おおよそ寝静まった時間。大学の友人も、斎藤さんも、猫に餌を上げていたかもしれない人も、きっと寝ている。でなければ、何をしているんだろう。このラジオを聞いていたりするんだろうか。
『だから、この一期一会を大切にしてほしい。そういう願いもこめて、俺はパーソナリティをやっているんだ。ラジオってチャンネルをいじればすぐ出会えるんだよ、みんなも知っているよね。……それじゃあ、今週はここまで。Thank you for the listening. また来週!』
 エンディングのBGMが盛り上がって、フェードアウト。ジングルを挟んで、知らない洋楽が流れ始める。なんだか、無性に寂しくなった。ペットボトルを飲み干して、車を出す。なぜだろう、ひどく咽が乾く。

 すぐ近くのコンビニに立ち寄って、そういえば手を洗っていなかったなと僕は真っ先にトイレに向かった。明るい照明の下で見ても、特に汚れはついていないようだ。それでも、死体を触ったんだから、と蛇口をひねり、緑色のハンドソープをたっぷりとつける。手を擦り合わせ、ぐちゅぐちゅと音を立てて白い泡が手を包み込んでいく。あの猫は、なんて名前だったんだろう。誰に可愛がられて、どんな笑顔を見せていたんだろう。記憶の中の猫は、どうもうまく笑ってくれない。顔がないんだから当たり前だ。指の間、手のひら、甲、手首、一通りこすって洗い流す。さっきと何も変わらない手が顔を出した。もう一度、ハンドソープを取る。今度は念入りに、爪の間まで。思えば、何も電話する必要なんてなかったんだ。こすって、泡立て、こすって、洗い流して、またハンドソープ。どうせ動かすなら、自分が埋葬してあげた方がよっぽど良かっただろうに。肌が赤みがかって皮が剥けてきたところで、僕はようやく洗うのを止められた。
 ……あの雀は。巣から落ちた雀は、どうなったんだっけ。どうにもうまく思い出せない。手がひりつく。咽が乾く。僕はなにをしているんだろう。

 目が覚めるとすでに朝日は昇りきっていて、枕元に直射日光が差し込んできていた。時計は十一時過ぎを示している。スマートフォンを開く。着信履歴は、ない。無事に回収されたということだろう。網戸から吹き込む風に、カーテンがそよぐ。天気予報では、今日一日晴れと言っていた。久しぶりに、自転車で出かけてみようか。
 頭から被った砂埃を濡れ雑巾で軽く拭いて、ぺちゃんこになったタイヤに空気を詰める。高校まで毎日お世話になっていた足は、錆び付いていても漕げばちゃんと回ってくれた。久しぶりに漕ぐペダルはやけに重くて、照りつける日射しに、一漕ぎごとに汗がぶわとシャツに滲む。
 十分も漕ぐと、母校の中学校に辿り着いた。見渡しても、かつての面影はどこにも見つからない。
 グラウンドだった場所に新校舎が建てられて、三年間を共にした旧校舎はすべて取り潰されていた。通い詰めた図書室も、こっそり入れた屋上への抜け道も、雀の巣があった木も、なにも残っていない。木があった場所は駐車場に変わっていた。その場所に立って、空を仰ぐ。眩しいばかりの太陽がぽっかりと居座っている。あの夏の放課後と同じ太陽が僕を見下ろして、お前の罪はなんだと問いかけられたようで、今はもうない景色を重ねてしまう。

 授業が終わっても雀のことが気がかって、それを気にかけてくれた斎藤さんと二人で見に行った。さっきの場所にはいなくて、辺りを見渡しても見つからない。巣に戻れるわけがない、どこかにいるんだ、そう思ってもすぐに見つからず、日は暮れ落ちようとしていた。
「もう休もう」
 斎藤さんに声をかける。ただでさえ身体が弱いのに、無理はさせられない。
「もう巣に戻してもらったのかも、誰かが拾ったのかもしれない。今日はもう」
「いたよ」
 斎藤さんは、腰掛けたコンクリートの階段の影を見つめて呟いた。穏やかで、寂しそうな目をしていた。
「こんなとこにいた」
 斎藤さんの視線を追う。
 事切れたヒナが、蟻たちに転がされていた。

 もうどこにもない影を追って、埋め立てられた駐車場を見つめる。この下にはもうヒナは眠っていないんだろう。
「また、うまくできなかったよ」
 あの時は、斎藤さんが埋めてくれたんだった。斎藤さんだったら、あの猫も埋葬してあげたんだろうか。正解なんてないとわかっていても、僕の手は駐車場を撫でていた。
「今度は、ちゃんとやるから」
 手を合わせて、祈る。意味のないことだと知りながら、あの夏の、もうどこにもない放課後を偲ぶ。

 猫の現場まで漕ぐこと十五分、猫の死体が横たわっていた場所はすっかり綺麗に片付けられていて、夜中の名残は見当たらない。清掃課の後藤さんがうまくやってくれたんだ。
 道路を行き交う車たちは、昨夜のことを知らない。僕も、彼らが昨夜、どこで何をしていたかなんて知らない。猫を撥ねた人も、山崎君とラスクちゃんの関係も、陽気なパーソナリティの休日も、後藤さんの仕事も、斎藤さんがどこにいるのかも。素知らぬ顔で、今日もラジオは流れている。
 スマートフォンを開いて、メッセージを送る。
『ゲーセンでも行くか』
 送って一分足らず、届いた返信を確認して、ペダルに足をかける。
 また、夏がくる。

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