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「しない」チャレンジ

◎「どうせ…」を供養し成仏させる

 普段から、今この場所でしかできないことをしたいと思ってしまいがちな自分を貧乏性だと感じている。何もしない贅沢などという言葉があり、もう四十路にもなるので大人として是非とも到達したい境地だと思うが、心と裏腹に、身体が一向にそんなことを求めないのである。と言っても「せっかくの結婚記念日だから」や「せっかくニースまで来たんだから」という同世代の友人たちが経験していそうなシチュエイションは、わたしにはなかなか訪れない。

「どうせ平日は終電まで仕事なのだから」冷蔵庫もテレビも要らない。大きいベッドだけ買おう。

「どうせあの人はわたしを選んでくれないのだから」色んな男と遊んでみよう。

 仕方ないから無意識にやっていることを、意思を持ってそうしているのだと思うことで、何となく堂々としていられる。振り返れば虚しく感じることもあるが、理屈がないと不安になるわたしのような人間はこうしていないと理不尽な世の中で立っていられないのである。

◎GW、何する?

 さて、連休が近づいているというのに今年はどうしたものか。カレンダー上のゴールデンウィークより前から休みになり超特大型連休となってしまった。平日の昼間から飲むビールも日々あくせく働いているからこそ美味いというものだ。自宅でひとりで過ごすに当たり、映画やライブ配信を見たり読書したりする時間は増えた。しかし、全ては何かの代替である感じが自分を白けさせてしまうという壁にぶつかる。外へ出られないから、劇場やライブハウスに行けないから、仕方なくこうしているのが明白だからだ。

 そんなある日、パラダイムをシフトする瞬間が訪れた。それからは連休が少し楽しみになり、結論から言えば連休を満喫できた。以下がそのとき思いついた過ごし方と考察である。

◎起きたくなるまで起きない。

 眠くなったら寝るのは簡単だが、起きないのは意外と難しい。こと歳をとると、そんなにたくさん眠れない。最初はそう感じていたのだが、やっているうちにあっという間に眠れるようになった。

 そして、ショートスリーパー時代には気づかなかった枕の不快さに気づいてしまったのである。わたしは「寝なくても平気」「どこでも寝られる」「2時間寝たらけっこう回復する」と思い込んでおり、それを自分の長所だとして仕事と向き合っていた。能力が低い人間の陥りがちな罠である。だから、「枕が身体に合わなくて目が覚める」などと言われても、「太って小便をするときに陰茎が見えない」と言われているのと同じくらい自分には無縁の悩みだと思っていた。ところがよく寝られるようになってから、自分の枕がどれほど酷いかを知った。それもそのはず、わたしが何年も使っているその枕は、家族が「この枕はどうもよくない」と言っていたものを「じゃ、わたしそれもらうわ」と言って引き取ってきたものだったのだ。そこで、以前に昼のくだらないテレビ番組で見たバスタオルを重ねて畳んで自分にフィットする枕を作るという方法を試してみたところ、寝心地の違いをまさに実感できたのである。食に興味がなく味の違いが分からない人は煩わしさが少ない分楽しみも少ない。睡眠も然り、か。では、あの昼のテレビ番組だって全然くだらなくなどなかったのではないか。今までごめんなさい。

 かくして、1日1.5回睡眠を体得したわたしは、非常識な時間に家族や友人にLINEするという失敗を2回犯したが、その他には何の悪いこともない。身体は意味もなくいつでもチャージ満タンで、肌の調子もいい。「どうせ起きていたってやることないんだから」寝る、のは大変有意義だ。

◎食べたくなるまで食べない。

 会社で仕事をしているとやたら腹が減るのは、目の前の仕事から逃げたいという衝動を半分くらい含んでいる気がする。うちは激務のブラック企業なのでそれぞれが切りの良いところでコンビニの食料などを自席でかき込むスタイルで、12時だわと財布片手に連れだってランチに出かける丸の内OLのような風習がない。中でもわたしは悪い方で、コンビニまで行けばまだマシなものが食べられるところを、面倒くさいという理由で社屋の1階に入っているスーパーより遠くへ歩くことは少なく、そこの今どき信じられないくらい不味い弁当などを買って腹を満たすことが殆んどなのである。仕事の量や内容がカオスな日は、10時に出勤しているくせに昼前に腹が減る。しかし、さすがに2時間しか働いていないのにあからさまな休憩を取るのは気が引けるので14時を目安に下のお惣菜売り場へ行く。その後は18時を過ぎたらフリータイムと勝手に決めていて、不規則に日に3食くらいを席で取るのが日常だった。

 仕事をしていなければ休憩や気分転換をするための食事は必要ない。むしろほぼ動かないのだからエネルギーも消費しない。「○時だからそろそろご飯にしよう」という観念は無意味ではないか。

 大学のリモート授業がやっと始まった息子は、わたしの実家で生活している。母は料理の上手な人で、毎日毎食の手料理でこの外出自粛生活の潤いを家族にもたらしてくれている。食事にそのような意味があることは私だってもちろん知っている。家族で囲む食卓や友人と飲むお酒は好きで、人を招いて料理を振る舞うことも嫌いじゃないのだ。

 しかしここ数年は息子の学費のことを考え倦ねた挙げ句、自分ひとりでする食事には金をかけたくないと恥ずかしげもなく口にできるまでになった。しかも、いっぱい食べたら背が伸びるわけじゃなくて、太る。その上、コロナ不況により給料は減っているのだから、毎日、部屋でひとりぼっちで食べる食事なんて最低限でよいではないか。こう書くと寂しくさもしい感じもするが、人と美味しさを分かつ機会もまだたまにはある。

 さらに再認識したのはゴミの量である。外食の持ち帰りや宅配のサービスを利用すると大量の使い捨て容器を捨てることになる。資源の無駄遣いという地球の大問題を謎に差し引いてみたとしても、ゴミ箱にあふれかえるゴミにいい気がしない。会社で出すゴミはビルの清掃員の方が毎日回収してくださっていたので、やはり、気づいているようで気づいていなかったのだ。

 かくしてわたしは、大半寝て過ごしていることもあり、1日1食をも体得した。動かないのに食べることは、わたしのような美容や健康に疎くなった者にさえ罪悪感を与える。これが身についてからのわたしは「今日これだけしか食べていない」という事実に心を満たされるようになった。さらに1食限りとなればその内容はいよいよ重要である。たんぱく質と食物繊維とできるだけビタミン…たまに外出するときは2食目にラーメンを食べても可…とか、考えている時点で仕事に忙殺されていた頃よりは食のありがたみを噛みしめちゃっていると言える。「どうせうんこになるだけだから」食べない。

◎だからどうした。

 過去にも未来にも、資本主義経済社会の一員であると自覚している限り、こんな時代が訪れることはないのではないだろうか。世界中がほぼ平等に絶体絶命である。

 一部休職の日にスマホでゆっくり夏物のファッションアイテムを物色していて、収入は減るのに時間があるからといって消費行動をする自分が滑稽に思えた。もっと言えば「そのノースリーブのワンピ、着て出かけられるの?」ってことである。大好きな夏、大好きなあの海に、大好きなあの人と行きたいから、このワンピースが欲しかったけど、そんなことはきっと実現しない。

 わたしがやったことは無駄を減らす行動だ。今、ここで、しかできないチャレンジ。睡眠欲と食欲の本質に迫って、人間という生物である自分を見つめなおす…などと壮大なスケールで考えていたが、三大欲求の残るひとつは、やっぱりあのワンピースを買わないと満たせないんじゃないかと振り出しに戻ったような気分にもなったりしたのだった。


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