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禍福は糾える縄の如し

 久しぶりに一歩も家から出ずに過ごした。先ほどから、さだまさしの曲をシャッフルして聞き続けている。普段なら半身浴をしながら読書をして、ローションパック以下長時間に渡る肌のお手入れをして、髪を乾かして、寝室にルームスプレーをばら撒いて、日付が変わる前に寝る、というルーティンに突入するところだけど、今宵はそんな習慣も崩したくなる、そんな夜だ。

 昨年に引き続き、独り身のアラフォーにしては結構沢山の人に囲まれて日々生活している。どれくらい沢山の人かというと、1月中に酒を酌み交わす(あるいはすでに酌み交わした)人たちはそれぞれ、会社の同僚、大学のサークル友達、その昔旅先で知り合った友、ジムのイケメントレーナー、ネイルサロンのお姉さん達、資格学校時代のクラスメイト、会社の後輩ギャル、着付け教室のマダムたち、帰国子女予備校時代の友人、中学時代の親友、地元練馬の幼馴染、前職の同僚、そして家族、といった感じだ。色んなコミュニティーの皆に仲良くしてもらって、本当に幸せな人生だなと思う。私がまだ10代だったら、毎回「#最高の友達!!」みたいなタグをつけて、漏れなくインスタにドヤ顔でアップしていたことと思う。それくらい幸せである。

 とはいえ、人はたまには敢えて寂しくなったり、切なくなったりする心情に自分を追い込んで、孤独を噛みしめる必要があるな、と切に思う。人に囲まれて笑って過ごす日々が当たり前になると、途端に調子に乗って、誰かを傷つける気がするからだ。

 伊集院静の『大人の流儀』に私の大好きな以下の文章がある。

不幸のどん底にいる者と、幸福の絶頂にいる者が隣り合わせになることがある。だから、大人ははしゃぐなというのだ。

伊集院静『大人の流儀』

 この文章の奥深いところは、自分が不幸のどん底にいるときに、隣に幸せな人が居合わせるときの気持ちは、誰しもが味わったことがあるけど、一方で、幸福の絶頂にいるときには、隣人が不幸のどん底にいるかどうか、全く見えなくなっているというところにあると思う。つまりは、不幸であればあるほど、周りが冷静に見えて、幸福であればあるほど、自分以外見えなくなる、ということだ。

 別に今の私が幸せの絶頂にいるわけでもないんだけど、ここ数日、数カ月、いや数年、絶頂と言わずともそこそこ幸せで、苦しみとは無縁の生活をしていることについては、きちんと危機感を持って向き合っていくべきだよなと思う。こんな幸せボケなときこそ、働かなくてはいけないし、与えなくてはいけないし、小説を読まなくてはいけないし、映画を観なくてはいけないし、さだまさしの『風に立つライオン』を聞かなくてはいけない、と思いながら、ビールを煽っている今この瞬間です。

 「禍福は糾える縄の如し」という言葉は最近知りました。これをモットーに掲げている20代前半のカッコ良い女性に出会って、すごいクールな言葉だなと感激して、この言葉をなんとか自分のものにしたいなと思っています。




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