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明日はどうなるか、わからない。2020年からは、足跡を残すようなこともやってみたいなと

「パンデミック」という社会現象が、時代転換のシンボルになったような気がしている2020年。
東京での毎日の中で、異様に膨れ上がった経済活動の一端を目の当たりにするたびに、「時極まれば而ち転ず」という言葉を思い出していました。なにかが極まりつつある。何の根拠もないけれど、確信に近い形でそう感じていて、転ずるときは、いったいどのような出来事が起こるのだろうか?と危惧していました。

75年前の今日は、日本にとっては「戦後」を迎えた最初の日。きっとあの戦争は、なにかの極まりの果てにあったもので、あそこまでにならなければもはや転じることもかなわないほど、張り詰めていたものがあったのだろうと思っています。だからこそ、いま自分がいるこの「時」は、どのような極まりを迎え、転じていくのか?と。このぱんぱんに膨れ上がった経済活動を止めるのに、戦争以外の道があるとは、とても思えなかったから。

2月終わりころから少しずつ新型感染症の影響が出始め、様々なものがストップしたり方針転換を余儀なくされる状況の中で、私は「こんな方法があったのか」と…誤解を恐れずに書くと、感心していたのでした。
友人知人の置かれた境遇はさまざまで、軽々しく何かを言えるわけではないけれども、てっきり戦争がくるものだと思っていたから…なんだかいろいろなことが

「それでも、救われている」

と感じられるのです。とにかく、生きているだけでありがたい。毎晩、空襲に怯えながら眠ることを考えれば、穏やかな毎日じゃないか。誰かが戦いに行かなければならないことに比べれば、会えないくらいは大したことはない。万事、そんな調子。

自分自身の生活も、少し前なら考えられないくらいにスローペースになって、ゆっくりとすぎる時間を感じながら過ごしています。心配も恐れも、面倒なこともないわけじゃない。気分転換が難しくてイライラしたり、不安定になることも少なくない。それでも、戦争が来るより、ずっとこのほうがいい。それが正直な気持ちです。

明日はどうなるかわからない。
そんな設定がこれまで以上にリアルに感じられるいま、なにか意図的に、「残す」ことをしてみようかと思います。SNSではこれまでもずっと他愛もないことを投稿してきましたが、「残す」という意図ではなかった。
もし私が明日死んだとして、本来なら私と一緒に消えるはずだったものを、残してみようと。

誰にも読まれることはないかもしれないけれども、万が一、誰かが読んでくれるかもしれない。その人が、私を知っている人だったら、面白がってくれるかもしれないし、懐かしがってくれたらいいかもしれない。私を知らない人だったら、なにか気が楽になったり、少しだけ生きるのが楽になってもらえたらうれしい。
そんなことを考えると、少し楽しくなってしまったので、noteを使って「残す」ことをやってみようと思います。

何を書くのかも、続くのかどうかもわかりません。いつまで興味が持つかも不明です。ただ、残そう、と思うことを、書き綴ってみたいと思います。

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