見出し画像

信仰について(1) まずはじめに、私自身の信仰観を語ってみるなど

先日、ある人との会話の中で「宗教がなくなればいい」という趣旨の話が出てきました。平和のために、とかそういう文脈だったでしょうか。日本社会では、もしかしたらよくある考え方なのかもしれないなぁとおもうけれども、私はその言葉に、少なからず反発心を覚えたし、悲しくなってしまって。

なぜ反発心を覚えて、悲しくなったのか。それをその場で言葉にすることができればよかったのだけど、それができなくて、なんだか消化不良というか元気が出なくなってしまったので、書いてみようかと。ちょうど、考えてきたことを書き始めたいいタイミングだったし、「信仰」については、一度考えをしっかりまとめてみたいと思っていたので。自分としては、書くのに勇気がいるテーマですが、せっかくなので心ゆくまで書いてみたいと思います。

※どのくらいの長さになるのかわかりませんが…相当長いシリーズになるかもしれません。。


両親に信仰があったので、生まれたときから宗教ごとが身近にある中で育ってきました。そこに関わる様々な人に出会ってきたし、様々な出来事を経験して、結局のところ宗教が良いか悪いか、は「人による」という話だよな、と思います。人が、どのように活かすかによる。だから、宗教そのものに、良いも悪いもない。というのが、私の考え方です。道具はなんでも、そのものに良し悪しがあるわけではなくて、使い方によります。刃物を、相手を喜ばせたくて料理をするのに使うのか、相手を脅すために使うのか、みたいな。私はそれが、宗教にも言えると考えています。
正直に書くと、いわゆる犯罪と言われる事件を起こしてしまった宗教団体も、私はそれが「悪い」と決められません。かといって「良い」と思っているわけでもなくて、原則として、世の中に生まれるものには生まれるだけのなにかの必要があると考えているから、それに沿って捉えているだけなんですが。つまり、それがそこに生まれて維持されたということは、それだけのなにか合理性があったのだろう、と。どのような合理性だったのか、が自分に理解(認識)できるかどうかに関わらず。

私自身の現在のスタンスは、一番近い言葉で表現するなら「無宗教」になるのかもしれません。神様の存在を信じているという意味で「信仰心」はあるけれども、それがなにか、特定の1つの宗教で掲げられている神様の名前でなくてもいいんじゃないかなと思っているので。
ぶっちゃけ、神様は誰でもいいんじゃないかと。どの宗教でもいい。古くからあるものでも、亜流と言われるものであっても、新興宗教と言われるものであっても。なんなら特定の神様ですらなくてもよくて、例えば音楽とか、ヨガとか、なにかの理論とか、学問の分野とか、スポーツとか、あるいは自分自身とか。信じるものは何でもいいと思うんです。

信仰するうえで最も大事なことは、その人が、その信仰によって自分の毎日を、納得のいくものにすることができること。自分が幸せであることを実感し、周りの人たちと一秒でも長く笑って過ごすことができること。それができるのであれば、信じるものはなんだっていいんじゃないかと。

むしろ、世の中にはいろんな人がいるのだから、その大事なことにたどり着く道だってひとそれぞれの歩き方があるはず。だから、道は、いろんな種類があるほうがいい。一つに決めるよりも、たくさんあるほうがきっといい。

これが、長く…30年以上、宗教というものに密接にかかわって生きてきて私が得た結論であり、現在の信仰観です。


信仰観についてはもう少し書きたいことがあるので、いったんここで締めて、記事を分けます。次は、宗教の中にある、教理とか、行動指針のようなもの対する自分の考え方を書いてみようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?