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「生きづらさ」は、どこからやってくるのか(1)

「生きづらさ」は、とても重要なテーマのうちのひとつです。少なくとも、ここまでの私にとっては。

何年か前、20代後半か30代前半のころだったと思うけれど、毎日のように「消えたい」と思っては泣いて過ごしていた時期がありました。生きづらくて、いつも虚しくて、なんのために生きているのかがわからなくて。生きているのがつらいけど、自分で死ぬ勇気がないから、誰か私を消してくれないかな。そんなことを、大げさでなく本当に毎日毎日、考えていました。

なにがそんなにつらかったのか。
思惑通りにならない、望みが叶わない、そういうこともたしかにいくつもあっただろうと思うけれど、それだけではなかったように思います。
いまでもそういう日がないわけではなくて、でもあのときのように「毎日」ではないぶんだけ冷静に自分の状況を捉えられるようになって、わかったことには、「生きづらさ」は、

・思惑通りにしたい、望みを叶えたい

という、状況に対する強い希望、いわば「強烈なアクセル」がかかると同時に、

・自分の思惑が通るはずなどない、自分は望みをかなえられるような人間ではない

という、自分に対する強い思い込み、つまり「強烈なブレーキ」がかかっている状態が長く続くことから、生まれてくるようだ、ということです。

そしてもう少し言うと、「思い通りにしたい」「望みを叶えたい」というアクセルは、不足感からきていることが多い。つまり、足りない。渇望している。その足りない穴をどうやったら埋められるのか、乾いたのどをどうやって潤せばいいのか、そんな切実な思いからくる「思い通り」や「望み」には、ゆとりがありません。「こうならなければ終わりだ」くらいの切迫感で踏み続けられるアクセルと、「絶対にそうなるはずがない」という絶望感で踏み続けられるブレーキ。そうやってエンジンの空ふかしが続き、やがてガソリンが尽き、疲弊し、万策尽きたように感じたとき、「消えたい」という気持ちが、生まれてくるのだと思います。

動物としての危機回避能力からくるものでしょうか、人間の「不快」から逃れようとするモチベーションは本当に高い。「生きづらさ」は「不快」です。だから、最初はそこから全力で逃れようとするんですよね。ストレス解消だとか、お金をたくさん使うだとか、体を鍛えるだとか、とにかく行動を増やす傾向があります。ただ行動を増やすといっても、「これまでやってきたことの延長」であることが多くて、負荷の方向性は同じなんですね。アクセルとブレーキでへとへとな足のことを忘れるために、大音量で音楽を聴く、みたいな。そんな感じの行動の増やし方です。

実際には、そうやって行動を増やしても、逃れられないことがほとんどです。なぜなら、そこまでやってきたことの中に答えがないからこそ、「生きづらい」というところまで来てしまったから。これまでやってきたことの延長で行動を増やしても、負荷が増えるだけです。

「生きづらさ」がやってきたとき、そこにあるのは、強烈に踏まれたアクセルとブレーキからくる、エンジンの空ふかし状態です。まずは、空ふかしをやめることが第一歩。そのためにはまず、アクセルを緩めなければいけません。


行動を増やすときではない。行動を減らすこと。
それが、「生きづらさ」からの回復の、第一歩です。

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