それでも、あなたが好きです(第7話 最終話)
『話したいことがあります。明日朝、あの屋上で待ってます』
一方的なメッセージを送る。当然のように返事はない。けれどメッセージの横に小さく既読の文字が灯った。
希望の灯のように、既読、が蛍の目を温めた。
約束の朝、いつもの屋上公園へ向かう。
道すがら視界に入り込んでくるのは、駅を埋める人の群れ。
だが、もう壁には見えない。
それぞれの人が、それぞれの場所へ向かう。今、目の前にあるのはその彼らの切り取られた一瞬。
塊ではない、個である人の姿が蛍の視界を過っていく。
自分を跳ね返す灰色の壁が今日は見えなかった。
それはやはり、夏生のおかげだ。
自分が自分であることを認めてくれた、彼のおかげだ。
きんと音がしそうなほど空気が強張っている。頬が風にぴりつく。霜に濡れ、ぱりりと乾いた音を漏らす芝生を踏み蛍は空を仰ぐ。真っ白な陽光の向こうに淡い青空がのぞいていた。
時間は八時。公園の入り口に人の姿はない。
彼の姿もない。底冷えする芝生を踏み、蛍は芝生を囲むベンチに腰を下ろした。
太陽が高くなっていく。冬の陽射しには脳天を焼くほどの強さはない。けれど光球が高い位置へと昇っていくにつれ寒さが徐々に和らいだ。
時計の針は十二時を指している。
今、目の前には公園でくつろぐ人々がいる。朝にはほとんど人なんていなかったのが嘘みたいに彼らは思い思いに笑いさざめく。
だがそこに彼の姿はない。朝から待ってはいるが、やっぱり来ないのかもしれない。
一瞬、心がくじけたものの、弱気を首を振ることで散らし、蛍はベンチの上でマフラーに顎を埋める。
十五時。
十七時。
──二十時。
長時間同じ姿勢でいたためか、あるいはこの凍てつく空気ゆえか、体が痛い。こうなることも想定してホッカイロを持参していたのだが、その効力ももうない。
僅かばかり体が温まるから公園の片隅にあるカフェでホットコーヒーを買って飲んでもいたけれどそれも限界だ。水分が体を圧迫していてもうさすがに飲めそうにない。
昼間は混みあっていた公園も冬の夜の今はがらがらだ。時折、手を繋いだカップルがやってくるだけ。その彼らだって二月の夜に寒空の下はきついらしく、数分で去っていく。
本当にもう無理なのかもしれない。
今日何度も過った不安が頭をかすめる。その声に呼応するように、ひらり、となにかが目の前を舞った。
雪だった。
そういえば今夜は雪と言っていた。出掛けに見た天気予報を思い出し、蛍は立ち上がる。
もう諦めろ、という天からのお告げだろうか。
ちらちらと舞い始めた雪を蛍は掌を伸ばして受け止める。手に届くそばから雪は消えていく。
「諦めたくないなあ」
苦い呟きが雪雲に閉ざされた空にぽかりと浮かぶ。
その声を自分の耳で聞き届け、蛍は苦笑する
諦めるもなにも、始まってもいないのに。
自分はまだちゃんと本当の意味で向き合ってもいないのに。
そのために自分はここにいるのに。
「よし!」
気合を入れ、軽く地面の上でジャンプする。かじかんでいた体が少しほぐれてほっと安堵の息が漏れた。
まだ頑張れそうだ。白い息を吐きながらふっと公園の入り口を見る。そこではっと蛍は呼吸を止めた。
彼がいた。黒いコートを羽織った彼が公園の入口に佇んで唖然とした顔でこちらを見つめていた。
「夏生さん」
大声で呼び、手を振る。夏生は一瞬笑おうとしたけれど、その笑顔は雪のようにゆるりと消えた。
大股で広場を横切ってこちらへやって来る彼の表情は強張っていた。
「何時からいた?」
ひんやりとした声が凍りついた空気の温度をさらに下げる。蛍は冷気にひりつく頬を動かして答えた。
「ええと、八時かな」
「朝の?」
問い返してから腕時計に目を走らせた夏生は、今がちょうど八時だと気づき、額を押さえてうなだれた。
「十二時間って……ありえないだろ」
「でも待ってるって自分で言ったし」
「それにしたって。今日、この冬一番の寒さって言ってたのに。雪も」
「心配してきてくれたんですか?」
彼の言葉を遮ると、夏生は顔を上げて難しい顔をした。
「まさかいないよな、とは思ったんだけど、考えていたら不安になってきて。昔からこつこつ問題解くタイプだったし、君なら一晩中待ちそうだなと」
「いや、ここさすがに一晩はいられないです。営業時間決まってるし」
揚げ足を取るような言い方をするときっと夏生が鋭い目を上げた。
「一晩じゃないにしても十二時間なんてありえないだろ。
大体、俺が来ないとは考えなかったの。実際、俺は来るつもりなんてなかったよ。君といると苦しいと伝えたし。君もわかってくれると思ってた」
「でも、夏生さんは来てくれました」
「別に君の気持ちを思ってじゃない。凍死されたらたまらないと思っただけ。だからいないといいと思っていた。なんでいるの」
「ひどい言い方だな」
苦笑いしようとした瞬間、ぶるっと冷気が体を這いあがってきた。たまらずくしゃみをした蛍の前で、夏生は苛立ったような顔でまくしたてた。
「とにかく。もう来てしまったから話は聞くから。暖かいところに入ろう。風邪ひいてしま」
「夏生さん」
険しい顔で背中を向けようとした彼のコートの袖をつまむと、言葉が止まった。振り向いた彼に蛍は言った。
「二個だけ、今、ここで言いたいことがあって」
「……今?」
眉を寄せる彼に力強く頷く。冷え切って固まったままの頬を軽く両手で叩く蛍を、夏生はあっけにとられたように見上げている。
その彼の顔をじっと見つめる。
いつも笑っている彼の、今日は珍しくちょっと怒って見える顔を。
「じゃあ、一つ目。
俺は、やっぱりあなたが好きです。だから俺と付き合ってくれませんか」
白い息と共に吐き出した告白を夏生は呆然と受け止める。
数秒後、彼はゆっくりと首を振った。
「ごめん。無理」
「ですよね」
あっさりと頷くと、夏生が目を合わせるのを避けるように俯いた。
「何度言ってもらってもそれは無理。わからないし、返せない。返せないことを悩み続けるのも辛い。だから」
「そうですよね」
蛍は再び同調する。あまりの引き際の良さに異様なものを感じたのか、夏生が俯けていた顔をこちらに向ける。その彼の前でふうっと蛍は深呼吸をし、静かに言葉を唇に乗せた。
「いろいろ考えました。夏生さんにとってベストなことは俺があなたの前から消えることなんだろうな、とも。けど、やっぱり俺は夏生さんの傍にいたいって思う」
蛍の告白を受け、夏生は軽く息を呑んでから、でも、と零した。
「俺にとって君は……特別ではない。恋愛小説であるよね。君のためなら死ねる、とか、君のために、とか。俺にはその感覚がわからない。そこまでの感情を特定の誰かには持てないし、多分これからも……。自分が、だめなことはわかっているけれど、それでも」
「夏生さんはだめじゃない。恋愛感情がわからなくても、それが夏生さんでしょ」
強い語調で言い返すと、ふっと夏生が声を失う。その彼に蛍はふいっと笑顔を向けた。
「じゃあ、二個目」
ひらひらと雪が舞う。その中で蛍は目を細めて彼を見た。
自分の大好きな人を。
とても大好きで、大切な恩人の彼を。
その彼に蛍は告げた。彼と再会してからずっと言いたかった思いを、告げた、
「俺に、俺のままでいいと言ってくれて本当にありがとう。夏生さんのおかげで俺は今、俺を認められている。友達にもやっと言えた。自分のことを。全部、夏生さんがいてくれたからだ」
ふうっと彼が目を見開く。彼は蛍の言葉を自身の中で咀嚼するように沈黙してからゆらりと首を振った。
「そんな大げさなものじゃない。俺はただ、思ったことを言っただけ。それだって自分の中の欠けているものを気にしていたから出た言葉で」
「また言う。欠けているって言うの、やめてほしいって言ったでしょう」
咎めると、う、と夏生が痛いところを突かれた顔をする。その彼に向かい、蛍はがばりと頭を下げた。
「やっぱりちゃんと白状します。すみません。俺、少し前に熊本さんから夏生さんの話、聞いちゃいました。医大を辞めた話。話したくないって言ってたのに勝手に聞いてごめんなさい」
謝罪したが、夏生は無反応だ。そろそろと首をもたげると、無表情にこちらを睨んでいた夏生がふっと息を吐いた。
「聞いてはいた。クマから。職場に君が来たときだろ? 話しちゃった、ごめんね、って後から連絡もらった。まったく、個人情報ってやつをなんだと思ってるんだとは思ったけど」
「ほんとに仲が良いんですね」
口を尖らせて見せたが彼は動じる様子もなく、長い付き合いだから、と淡々と返してきた。
「そのときに言われた。あの子はあんたを傷つけたいわけじゃない。ただ好きなだけなんだ。わからなくてもいいからそういう人間もいるんだって思って話聞いてやったらって」
「やっぱり熊本さんは優しいですね。
けど、そんな風に言ってもらえてたのに、俺は夏生さんを傷つけてしまった。申し訳ないって思ってます」
蛍の謝罪を受け、夏生が首を振りながら口を開こうとする。その隙間に蛍は、ただ、と声を投げ入れた。
「ただあの話を聞いて思ったんだ」
夏生が問うように首を傾げる。その彼の目をひたと見据え、蛍は言った。
「多分、俺があなたの前から消えたとしても、夏生さんはこの先もまた思うことがあるんだろうなって。お父さんに言われた言葉を思い出して、自分は人と違う。欠けている、欠陥品だって。
ずっときっと。
だって、俺がそうだったんだから。俺だってずっと思っていたんだから。俺は人と違う。なんで違うんだって、ずっと。
でも今は違う。俺は俺でいいって思う」
立ち尽くす夏生に、蛍はゆっくりと微笑んだ。
「それは夏生さんが認めてくれたからだ。俺のことをこのままでいいって。このままの俺でいいって」
空気は冷たく、頬を凍てつかせる。でも、そっと掌を押し当てた胸は温かい。
それは多分、目の前にいてくれるこの人がくれた言葉が温めてくれているからだ。
ずっと。
──君は君のままでいい。
──人を好きになった自分を誇りなさい。
「俺は恋がわからないあなたにも、あなた自身を誇ってほしいって思うから。だから、あなたの傍で言いたいんだ。
夏生さんは夏生さんのままでいい。
ただ、あなたという存在によって温められる人間もいるって。
夏生さんが自分を信じられなくて悩んでも、そのたびに俺は何回でも言いたい。そのために傍にいたい」
夏生は返す言葉を見つけられない顔でこちらを見つめている。だがややあって、でも、と色のない唇が動いた。
「それは……その関係は君にとっては辛すぎる。俺は君にとってなにになるの? 俺は恋人にはなれない」
「確かにそうかもしれないですね」
蛍は苦笑しながら頭を掻く。
「けど、もうよくないですか。名前つけなくても。俺たちは友達でも恋人でもない。ただの蛍と夏生。それでいいって俺は思う」
「そんな簡単な話じゃ……」
「簡単じゃないですよ」
言いかけた夏生の台詞を掬い取り、蛍は一言一言刻むように言葉を紡いだ。
「俺にとってあなたはとても特別な人で、とても好きな人で。
でもあなたにとってはそうじゃない。その距離は埋まらないって思う。
けど、俺はそれでもいいって思うんだ。だって、どこまでいっても俺は俺で、夏生さんは夏生さんで。
俺の気持ちが届かないところまで含めて夏生さんで。
その夏生さんだから俺のことを救うこともできたんだって思うから」
胸が苦しかった。目の前のこの人が受け入れてくれないことなんて百も承知だ。それでも自分はこの人に思いを伝えようと覚悟を決めて今、ここにいる。自分の芯が揺るがないよう背筋を伸ばし続ける強さこそが今の自分には必要なのに、終わりの予感が心のいたるところから染み出して必死に立ち続けようとする蛍の足を掬おうとする。
怖かった。震えた。でも、伝えたかった。
「俺にはまだ夏生さんについて知らないことがたくさんある。わからないことも。俺はそれを知りたいし、知ってそれでも笑える関係を作ってみたい。
難しいかもしれないけど、やってみたいんです。
こうだからこう、なんてそんな簡単にマニュアル化できない。
俺は俺にしかなれないし、あなたは、あなたにしかなれないんだから」
夏生は再び沈黙する。雪の中、彼はふうっと睫毛を下ろし、呟いた。
「昔、クマが俺のことを好きだって言ったときを思い出した」
「熊本さん、告白したんですね。なんだよ、もうそういうのないって言ったくせに」
笑顔を作って明るい口調で不満を漏らすと、夏生は唇の端をわずかに上げた。
「あのときも離れようって言った。でも……クマはあんたの親友ポジションってやつは誰にもあげたくないから絶対無理って言って聞いてくれなかった。
君はでも彼女より強引だね。友達としての枠さえなく、ただ一緒にいようって言う」
「俺の友達にリオってのがいるんです」
唐突な言葉にふっと夏生が目を瞬く。その彼に蛍は朗らかに告げた。
「そいつが言ってたんだ。人がふたりいれば世界ができるって。それぞれの世界はみんな違うって。
熊本さんと夏生さんの世界と俺と夏生さんの世界。ふたつは違う。お互いの距離感とか楽しいと思う瞬間とか。
それは比べられるものじゃなくて、ふたりで作っていくもので。
俺はさ、夏生さんとふたりで自分達が心地いいって思う空気を作ってみたいって思うんだ。熊本さんと夏生さんが長年かけて作ったみたいに。
離れたいって思うときも絶対くると思うけれど、一緒にいて楽しいって思うときだってある。その楽しいときを大切にして時間を重ねてみたいんだ」
白い雪が、彼の黒いコートの肩にひらり、ひらり、と舞い落ちる。
黒と白の色の中、噛みしめられていた彼の唇が解かれた。
震える唇が動き、掠れた声が空気中へふわり、と舞った。
「好きには……なれないのに?」
「ならなくていいです。そのままでいてください。
そのままのあなたと俺は笑いたい」
愛おしさを込めて囁き、ふいっと蛍は空を仰ぐ。舞い落ちる雪が頬に降りかかる。
その雪を頬に受けながら、蛍は祈るように声を宙に放った。
「良い、天気ですね」
「え……?」
つられたように夏生が空を仰ぐ。黒い空からは太陽の煌きの名残のような粉雪が今も零れ落ちていた。
「とても、綺麗だ」
呟く蛍の横で夏生も空を見上げている。
白く、儚い、雪のかけらを肩に髪に受けながら、そのとき、かすかな声で夏生が囁いた。
「本当に、綺麗だ」
柔らかい声に心が熱くなる。すごく好きだ、とやはり思う。
けれどそれ以上に、今、ここで並んで同じものを見られることが嬉しくてたまらなかった。
蛍は顔を戻し、そっと夏生の顔を窺う。視線に気づいたのか夏生がこちらを向いた。その彼に蛍はそうっとと微笑みかける。
数秒の空白の後。
彼は、微笑み返してくれた。
「でも……寒すぎますよね」
笑ったままでいてほしい。そんな願いを込めておどけた口調で蛍は呟いてみる。が、その目論見は外れ、すっと夏生の顔から笑みが消えた。次いで浮かんだのは慌てたような表情だった。
「そうだった。君、十二時間って……。とにかくどこか入ろう」
「いや〜、もう感覚なくなってきたからどっちでもいいっていうか」
「いいわけないだろ。馬鹿なのか。君は」
こんなに怒る彼を見たのは初めてかもしれない。そう思ったら眩しくて、おかしくて涙が出そうになる。
ああ、本当に自分はこの人のことをなにも知らない。
知らないけれど。いや、知らないから。
だから、知りたいと思うのだ。
「行くよ。蛍くん」
彼が呼ぶ。その声に、はい、と返事をしながら、蛍はもう一度空へと目を向ける。
これから先、自分は、いや、彼もきっと袋小路に迷い込むだろう。
理解し合えない苦しみに身を裂かれるかもしれない。
もしもそんなときが来たら、自分は今の光景を思い出したい。
彼と並んで見たこの雪の美しさを。
微笑み交わすことができたこの瞬間を。
そしてこれからも、彼と過ごす一瞬一瞬を愛おしんで歩きたい。
そう、強く思う。
「蛍くん」
ひょい、と夏生が振り向く。怒った顔をしていたが、もともと怒りというよりは心配の方が強かったのだろう。眉を下げて情けない顔をした彼は、先生みたいな口調で蛍を促す。
「本当に風邪引くから、早く来なさい」
「はーい」
朗らかに答え、蛍は困り顔の夏生に笑いかける。
そして新しい世界を作るために、大地を踏みしめるようにして一歩を踏み出した。
…………了…………
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