それでも、あなたが好きです(第2話)
気づいてはいた。自分が普通と違うことに。
けれど見て見ぬふりをしようとしていた。もちろん授業では習ったことがある。この世界にはいろんな愛の形を持つ人がいると。それを皆で認め合っていかなければならない、と。
世界は確実に良い方向へ変わりつつある。人と違っても胸を張って自分を生きればいい、と。
信じたい気持ちもあった。けれど信じ切れない思いもあった。
「いじめはしてはいけない」「人の痛みを考えること」と教師から言われ、神妙な顔で頷いておきながら、陰で人をいじめる輩がいることを蛍は知っていたから。
口では「認め合わなきゃ」なんて言ったところで、自分が当事者になったら人は言葉通りの行動なんてきっと取らない。
だとしたらどんな行動が予想されるだろう。
おそらくは受け止めきれずに後ずさるのではないか。
いや、後ずさるだけならまだいい。
望みもしない愛に巻き込まれたとき、言葉のナイフを振りかざし、永遠に消えない傷を相手に負わせる人間だってきっといるはずだ。
そんな世界で自分の愛の形を認めることがどれほどに恐ろしいか。
だから蛍はずっと目を逸らし続けていた。
自分が好きになる相手が必ず自分と同じ男性である、という事実を。
小学生のころ、ひそかにいいなと思ったのは、同じサッカーチームに所属していた健太だった。だがそのころはただ、サッカーがうまい健太を見て「俺もああなりたいなあ」というような憧れの気持ちだと思っていたし、友達として共にサッカーをする日々が楽しくてそれが恋なのかもわからぬままだった。結局、健太とは中学がばらばらになってそれっきりになった。
次に、いいな、と思ったのは、中学二年のとき同じクラスになった良平だ。良平は誰とでも垣根なく付き合える人間で、人見知りな蛍とは真反対の社交的で実に公平な人間だった。
いじめや差別を忌み嫌い、皆が仲良くするために心を砕く良平は人望も厚く、当然のように学級委員をしていた。
そんな良平がなぜ蛍を気に入ったのか、それは今でもわからない。ただ良平はよく言っていた。
「蛍って他の奴と違うものの見方して発言することあるだろ。それがすごく刺激になるんだよな」
そう言われることが蛍はとても嬉しかった。
特段変わったことをしているわけではないのになんとなく浮きがちな自分にも、価値があると言ってもらえた気がしたから。
自分はつまらない人間ではない。個性があって長所もある。
良平と接することでそう思えるようになってから蛍は彼に徐々に心を許すようになった。引っ込み思案で友人を作るのが苦手な蛍にとって、良平はいつしか親友と呼べる存在になっていった。
本当に、親友、で終わっていればよかったのだ。
気がついてしまったのは良平から、隣のクラスの女子に告白されて付き合おうと思っている、と告げられたときだ。
茜色に染まった放課後の教室で、他愛ない話の合間についでのように投げ込まれた打ち明け話を耳にしたとたん、思った。
絶対に嫌だ、と。
自分は良平を好きなのだ、とそのときはっきりとわかった。
自分の気持ちを良平に伝えることは怖かった。けれど言わなければこのまま良平はその女子と付き合ってしまう。それは嫌だ。
そもそも差別を嫌う良平だ。蛍からの告白を受けても態度を変えることなんてあるわけがない。
そう、思っていた。
けれど結果は違った。
自分は良平が好きだ。だから告白を受けてほしくない。
胸の内を言葉にして伝えるや否や、すっと良平の顔色が変わった。
いつも浮かべられている笑顔があっさりと顔から剥がれ落ちた。
代わりに浮かんだのはなにか得体のしれないものを見るような引きつった表情だった。
良平、と呼びかけて近づこうとする蛍から、良平は後ずさり、歪んだ顔をこちらに向けた。
「悪い。お前のこと、友達だともう思えない」
言って良平はさらに後ずさる。自席から鞄をひったくるように掴み、教室を走り出ながら彼は最後に吐き捨てた。
「気持ち悪いんだ。もう。ごめんな」
ごめんな。
彼はそう謝罪したけれど本心から謝ったわけじゃないことはすぐにわかった。
なぜなら翌日には蛍が良平に告白した話がクラス中に広まっていたからだ。
身体的ないじめを受けたわけではない。けれど、蛍には「男が好きな男」というレッテルが容赦なく貼られた。その上、その後の中学校生活において、「もしかしたら自分もそんな目で見られるのかも」と思った男子生徒から遠巻きにされるという日々が容赦なく待ち受けていた。
苦しくて苦しくて。学校に行くのも辛くて。
自分は異常なのだ。おかしいのだ。
学校を休むようになった蛍は、布団をかぶってそう思い続けた。
どうして自分は普通になれないのか。なぜ自分は皆と違うのか。
異常な自分をなぜ自分は良平の前でさらけ出してしまったのか。
なぜ、自分は彼を信じてしまったのか。
いや、彼だけではない。世界は多様性に満ちている。教えられたそれが全員の心に等しく植え付けられた共通認識だとなぜ、無心に信じてしまったのか。
自分の馬鹿さ加減に吐き気がした。
布団の中で自分を責め、良平を責め、暗澹たる気持ちで不登校を続けていたそんなころ、蛍を心配した両親が家庭教師として雇ったのが水野夏生だった。
華奢な体躯に色白な肌。柔らかそうな栗色の髪。いつも少しだけ口角が上げられている穏やかな顔。
ちょっとたんぽぽの綿毛みたいな人だ。それが彼に対して抱いた第一印象だった。
当時大学二年生の彼は蛍より五歳年上で、気易く接するには少々年上過ぎた。ゆえに蛍は彼に対して当初、心を開けないでいた。
とはいえ、不登校になってしまい両親に心配をかけていることへの申し訳なさももちろん感じてはいた。不登校になった原因を話したことはなかったけれど、なにも語らない自分を両親は穏やかな眼差しで見つめ、優しく接してくれていたから。
今はそっとしておく時期だろう、と気を使ってくれていることにも蛍は気づいていた。
そんな優しい両親が自分のために雇った家庭教師を無下に扱うわけにもいかない。だから部屋には入れた。が、彼と親しくなりたいとか、そういう気持ちはさらさらなかった。
蛍のそんな事情を夏生は意にも介さず、淡々とした顔で蛍の家に通い続けた。
勉強をする気もなく、ベッドからも出てこない蛍の横で、彼は持参した本を読みふけり、定められた時間を過ごす。
「勉強しよう」とか、「少し話をしようか」とか、そうしたアプローチを一切自分にしてこず、ただのんびりと読書を続ける夏生に、蛍の方が焦りを感じ始めたある日のこと。
読書をしていた夏生が軽く吹き出すのが聞こえ、蛍はたまらずに布団から顔を出して言った。
「あんたさあ、お金もらってここに来てるのに、読書しかしないって。それで良心痛まないわけ?」
これまで無言を貫いていた蛍が最初に発した、あまりにも可愛げのない問いを受け、夏生が本に落としていた目を蛍へと向ける。
読書時にだけかけるらしい黒縁の眼鏡越しにまっすぐに蛍を見据えた彼は、ぱたん、と本を閉じると唐突に笑った。
「確かに。悪いけど、ご両親には黙っておいてくれる? クビになると困るから」
クビになると困る。
「自分のことばっかりかよ」
むっとしつつ身を起こすと、夏生は軽く肩をすくめた。
「君を引っ張り出すのが仕事ってわけでもないしね」
「じゃあ、あんたの仕事ってなに」
いらいらしながら問いを重ねると、夏生は軽く目を細めて言った。
「君に勉強を教えること」
「果たしてないじゃん」
「だって君が出てこないからねえ」
のらりくらりと言ってから、夏生は手にした本を蛍の勉強机に置いてこちらに向き直った。
「クビになるのも困るので、勉強、してくれる?」
変な人だ、と思った。
けれどそう言われてなんだか少し気が楽になったのも確かだった。
学校にも行けず、素直にもなれず、誰も信じられなくて布団の中で丸まるばかりの毎日に慣れ、蛍自身、出るきっかけを失っていたからだ。
その日を境にして、蛍は夏生に勉強を教わるようになった。
医大生というだけあって、彼は勉強の教え方が実にうまい人だった。また教えるだけではなく、話を聞くことにもとても長けていた。
「蛍くんは将来は何になりたいとかある?」
「将来なんてわかんないよ」
「趣味を仕事にっていうのもいいと思うけど。君の趣味は?」
「読書。つまんないだろ」
「つまらなくないよ。本はいろんな世界の入り口っていうしね。ちなみに蛍くんの好きな作家は?」
「三島由紀夫。萩原朔太郎。小泉八雲。夢枕獏。司馬遼太郎。星新一。小川洋子」
「おお、すごい。俺が君くらいのときなんて愛読書ドラえもんだったのに」
「ドラえもんも好きだよ。どこでもドアほしいとかよく思った」
「あれは俺もほしい」
くつくつと笑いながら言う彼との会話は途切れることはなく、蛍はいつしか夏生との時間を楽しみにするようになっていた。
あるとき、夏生が訊いた。
「学校、行かない理由を訊いていい?」
行かないではなく行けないだ、とかすかに反発を覚えた。しかし、行けないではなく、行かないと訊いてもらえたことが少しだけ、少しだけ嬉しくもあった。
はじかれたわけじゃない。自分が行かないと決めたのだ、とそう思いたい自分もいたからだ。
けれど理由を言うのは怖かった。だってこの人も良平と同じかもしれない。良平のようにすべてを聞いたら去って行ってしまうかもしれない。
その迷いが伝わったのか、夏生は柔らかく目を細めて言った。
「言いたくなければいい。学校なんて行こうが行くまいがどっちだっていいし。
ただね、自分の中できちんと整理しておかないとずっと立ち止まったままになってしまうのも事実なんだ。時間は長いようで短い。あのときこうしておけばよかったって後悔することも大人になったら出てきてしまう。君にはそんな思いはしてほしくないと思うから。
だから、ゆっくりでいいから、自分の中の自分と向き合ってみることはしてほしいな」
自分の中の自分。
夏生の言葉を心の中で繰り返したとたん、いたたまれなくなった。
「自分の中の自分は……気持ち悪いんだよ」
そう言葉を吐き出すと、夏生は首を傾げてこちらを見た。無言で促す空気に、蛍は一度大きく息を吸って、吐く。そして口を開いた。
「俺、親友の良平に告白して、振られたんだ。気持ち悪いって言われて」
夏生は無言のままだ。その沈黙が耐えきれず、蛍は口を夢中で動かした。
「俺は、気持ち悪いの? 愛の形はたくさんある。多様化している。そう習った。それは違うの?」
そう訊いた蛍の頭にふわり、と掌が乗せられたのはそのときだった。
「違わないよ。そして君は気持ち悪くなんてない」
言いながら蛍の頭を撫で、夏生はゆっくりと言葉を継いだ。
「君は人を好きになれた。もうそれだけですごいことだと思う。こんなにたくさんの人間がいるのにたった一人を大切と思えたんだから。それは誇っていい」
穏やかな彼の声に目頭が熱くなる。机に置かれた箱ティッシュから一枚取って蛍に渡しながら、夏生は続けた。
「俺はね、人を好きになれない人間なんだ」
人を、好きになれない。
言葉を頭の中で繰り返すと、夏生は少し笑ってから軽く目を伏せた。
「恋愛感情というものがわからない。性的欲求もない。アセクシャルってやつ。その俺からしたら、恋をできたそのこと自体がとても奇跡みたいだと思う。男だろうと女だろうと、それ以外だろうと」
独白のように言ってから、彼はまっすぐに蛍の目を見て告げた。
「君は顔を上げていい。誰になにを言われても君は君のままでいい。一番いけないのは自分を否定することだ。誰かに文句を言われるようなことを君はしていない。君で、いいんだ。自分を誇りなさい」
そう言ってくれた彼の目があまりにも透明で、綺麗だったことを、今でも覚えている。
→第3話へ続く
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