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幸せ[ショートショート]

「いってきます」
妻の手作り弁当を手に家を出る。もうこれが何年続いたろう。
ワイシャツを着てネクタイを締め、スーツを着て、年期の入った革靴を履いて。靴は昨年修理したばかりだ。こんなことになるとは思わなかったから。

まさか私が、と思っていた。それが傲慢だったのかもしれない。
リストラなんてよくある話だ。

ここ半月、今までどおりの姿で家を出て、今までどおりの時間に家へ帰っている。
仕事をしているはずの時間は、公園のベンチにただただ座っている。

夕暮れが早くなったなあ。しかし今までどおりの私でいるためには、まだ家へは帰れない。

学校が終わって遊びに来ていた子どもたちは、どんどん家へ帰っていく。遊び足りないくらいで帰れるのは幸せだ。

誰もいなくなった公園。遊具をじっと見つめる。一人黄昏を過ごすのは、泣きたい気分になってくる。この年のおじさんが、泣くわけにはいかないだろう。

とその時、不審な男が突然目の前に現れた。どこからともなくひらりと現れ、ピエロの格好をしている。

「ここのとこ、いーつも一人でそこにいるよねーえ」
私はおののいた。ピエロは大仰な仕草でぬっと顔を近づけて、おかしな抑揚で話しかけてきた。

「なーんでお家に帰ーらないのー?なーんで会社ーへいーかないのー?」
私はカッとなった。
「うるさい!お前には関係ないだろ」
おもわず立ち上がって叫んだ。
わかっていて言ってるのか?こいつは。私の中に卑屈な感情が渦巻く。
「すーべてはー、あーなたーの思いー込みー」
ピエロは歌うようにくるくると踊る。
「かーいしゃなーんてーいかなくていいーしー、おうちーでごーろごーろしたってー、いいのにー」
「そんなわけにいかないだろ、家のローンだって残ってるし、家族だって養わなきゃならん」
「ノンノンノン」
ピエロは人差し指をふる。
「やーりたいことー、やーればいいーのよー、やーりたくないーことーやらなきゃーいいのー」
「‥そんなわけにいかないだろ」
私はなんだか疲れて腰を下ろした。

とそこは、ベンチでなく、親父の作業場の片隅に置かれている、木の丸椅子だった。

親父は鞘師だ。鞘師は刀の鞘を作る一部の工程を担っている。

木を削る親父のこちら側に、小学生の頃の私が見える。じっと静かに親父の手元を見ている。幼い頃は、親父はそんな自分を気にも留めなかったように思っていたが、実は時折親父が幼い頃の自分を見遣っているのに気がついた。

親父は気にかけてくれてたんだな、と思った。

頑固一徹、職人気質。遊びにも連れて行ってくれない、授業参観にも運動会にも来ない、私が賞を取ろうが良い成績を取ろうが全く興味がなさそうだった。そんな親父と高校生くらいからそりがあわなくなり、遠くの大学へ進学した。それから数十年、親父とは合っていない。

場面が変わった。親父が若くなっている。おふくろと親父が夜遅く医院の扉を叩いている。おふくろの腕の中にいるのは‥私だろうか。親父は子供が死にそうなんだと、医者が寝間着で出てくるまで叫び続けた。

また場面が変わった。
「あいつは‥決まったのか」
親父がおふくろに聞いていた。
「ええ、千葉の大学へ行くそうですよ」
「そうか」
親父が寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


ふと気づくと私は涙を流していた。周りは元の公園へ戻っていた。ピエロはもういない。

帰ろう。私は思った。

家に着くと妻にリストラにあったことを話した。妻は静かに聞いていた。驚きはしなかった。そうか、知った上で何も言わずにいてくれたのか。

「実家へ‥ついてきてくれないか」
妻は驚いたように目を見開いたが静かに頷いた。

連絡をするのが気まずく、何も言わずに実家へ向かった。
玄関の前まで来て立ちすくむ。何十年も疎遠にしたのだ。門前払いされても仕方ないのだ。
やはり帰ろう。踵を返そうとした時、玄関が開いて、声をかけられた。
「康彦?」
お袋だった。
私達はお袋に促されるままに家へ入った。

ぼーんぼーんぼーん。懐かしい壁時計の音がした。
3時か。親父がいつも休憩していた時間だな。
親父が居間に入ってきた。休憩はずっとこの時間にとっているのか。
私が大きくなったのか?いや、親父は小さくなっていた。しかし、頑固一徹職人気質。その雰囲気は変わらずまとっていた。
お袋に聞いたのか私がいても驚かなかった。

そのまま暖簾をくぐって台所へ行こうとして、足を止めた。
そして振り向かずに言った。
「お前今暇らしいな、鞘作ってみるか」
追い続けてきたのだ。親父の背中を。
言葉にならずただ涙がこぼれた。
「しばらく休め。一ヶ月したら俺の弟子にしてやる」


それから一ヶ月、千葉の家を手放し、妻と実家へ来た。
子供の頃見続けてきた親父の技を辿っている。幸せだ。

幸せの形は一つではなかった。いい会社へ入って出世すること、それだけ目指してきた。ある意味ではそれで親父を見返そうとしてきたのかもしれない。
けれど本当には、親父の仕事に憧れを持ち、敵わないことにも気づいていた、
今の生活はとても充実し、幸せだ。

家に帰ればいいのだ。そして好きなことをして生きていけばいいのだ。


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