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この世の果て【ショートショート】

「ねえ、この世の果てを見に行かない?」ショートカットに赤い口紅の似合うきれいな女性だった。大きな輪っかの象牙調のピアスが、薄暗い照明の下で揺れていたのを覚えている。

バーのカウンターで、隣に座っていた女性に声をかけられた。今日、世界の果てを見に行くことにした。駅に十時に待ち合わせていた。けれどもう10時半になっている。やはりかつがれたか。だって僕は彼女の名前も連絡先も知らないから。

まあいいか。いい天気だし。どうせ僕にはもう帰る場所もない。荷物も売り払ってアパートも引き払ってきた。

「ごめんなさい遅くなって」
11時に彼女が現れた時、僕は一瞬何だっけ?と思った。
僕はもう空を眺めるためにここに来たのだと思いこんで、すっかり彼女のことを忘れていたからだ。

「行きましょうか」
彼女は僕の手を取ると買っておいてくれた切符を渡し、改札を通った。
乗ったのは空港行きの電車で、飛行機のチケットもとっておいてくれた。一回飛行機を乗り継いで、僕達は島に着いた。

不思議なのだけど、彼女はスーツケースを持っていた。僕は当座のお金の入ったボディバッグだけだ。彼女は宿もとっていて、荷物を置いてから行こうと言った。僕には先の予定なんかないのだから彼女に任せた。

宿にチェックインすると、彼女は「行きましょう」と僕の手を取って海へ来た。こんなに白い砂浜は見たことがなかった。青緑の水底は透けて見えた。空の色も陽射しの強さも違う。とても5月とは思えなかった。

「今夜ですか?」
僕は異世界へ迷い込んだような気分で彼女に聞いた。自分だけがあまりにこの地にとって異物のように感じられてくらくらした。
彼女は一瞬きょとんとして、その後からからと笑いだした。
「やっぱり。そんなことだろうと思った」
太陽の光を背にいたずらっぽく言った。
「一緒に死んでなんてあげない。明日はクジラ観に行こう」

その夜僕は、彼女を抱いた。いや、抱かれたのは僕の方だった。僕は行き場を失った魂を彼女の中へ吐き出した。幾度も幾度も。そして最後に彼女は僕の顔を胸に埋めて抱いてくれた。

最初に待ち合わせた駅に着いて、彼女は立ち尽くす僕の手を取って言った。
「帰りましょう」

あれから半年経った。
「いってきます」
仕事へ行く僕を彼女が見送ってくれる。
あの日の写真は玄関に飾ってある。




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