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24歳、介護のはじまり

先日より、母の介護の日々が始まりました。
この記事では、私が介護を始めるまでの経緯を8年前から遡ります。

ようやく仕事にも慣れてきて、一人暮らしを始めるぞ、と張り切っていた頃でした。
母は、難病指定を受けている、脊髄の病気で手術を受けました。
この病気は、母が8年ほど前に、くも膜下出血で倒れた際の後遺症が原因で、
この手の手術で名医と呼ばれる先生のいる、自宅から100㎞離れた宇都宮の病院での手術となりました。
手術で完全に回復するという類の病気ではないため、
少しでも改善する可能性があるのであれば、、との想いで、
手術を受けるという決断は、賭けのようなものでもありました。

8年前、くも膜下出血で母が倒れた暑い夏の日。
当時高校1年生、夏休みだった私は、母と2人で自宅に居ました。
母が突然倒れ、必死で救急車を呼んだ私。
わけもわからず、手術室の前でひとり座っていたあの悪夢は今でも思い出したくない記憶です。

無事手術は成功し、母が自宅に戻ってきた半年後、
私たち家族(両親と私)は、母がくも膜下出血の予防的手術を受ける、という決断をしました。
しかし、この決断は、今では後悔しています。

「想定しうるすべての悪いことが起きる。」
主治医はこう言って、頭を抱えました。
予防的手術は完全には成功とは言えないものでした。
手術中、脳血管をうまく血液が循環しなかったことによる高次機能障害、
手術後の脳血管の攣縮、
髄液がうまく循環しないことによる水頭症、、、
これらの「悪いこと」に対応するための手術も何度も行いました。

同じころ、父は母に寄り添いたいと、25年ほど勤めた会社を退職し、
毎日、面会可能時間のほとんどを病院で過ごしました。
そんな父からの、母の病状に関するメールを、
高校からの帰り道、私は恐る恐る開き、読んでは一喜一憂する日々が続きました。
当時は、ケータイを見るのも怖くなっていました。

私も下校後、病院にいる母に毎日会いに行きました。
母の意識のはっきりしている日は、話しをすることもできました。
しかし、高次機能障害により、話はうまくかみ合わず、
話しができたことの嬉しさと安心感、障害が残ってしまったことへの悲しみで心が休まることはありませんでした。
高校では、「大学受験」という四文字がぼんやりと見えてくる中で、
当時の私は本当によくやっていたなと思います。

それからしばらくして、何とか母は退院。
高次機能障害は多少残ってはいるものの、
自分や家族のこと、自身の状況が分かるまでに回復しました。
それでも、くも膜下出血への恐怖感は消えることはなく、
母が脳血管に負荷のかかるような環境(お風呂など気温差の激しいところ)に行く、状態(発熱時、くしゃみをするときなど)になる度に
怯える日々は続きました。


それから1年半後、私は無事大学生となりました。
母の体調が比較的安定していた、私の大学4年間は、
まさに「人生最後の夏休み」だったのではないかと、
今の私は思ってしまいます。(そんなことはなかったと思える日を期待してこのnoteを書いています)

なぜなら、私が社会人になったころから、
母の体調は徐々に悪化し、
母のくも膜下出血の予防的手術を本当の意味で後悔することになったから。

>>次回に続く

自己紹介
東京出身、早稲田大学を卒業し、都内の企業で法務や経営企画をしています。このnoteは、社会人2年目にして介護が訪れた私が、家族を愛し、自分を犠牲にしない日々を送るために綴ります。

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