親切はねじれを生んで
金井美莉亜は十年努めた商社を結婚のため退社することにした。
十年も前線で戦ってくると平凡な生活をしていることに酷く違和感があるが、夫となった紳が「子育てはもうお腹の中から始まっているんだ。今は子供のためにも穏やかに過ごして欲しい」とのことで、一日の時間のほとんどを家で過ごしている。
独身時代から仕事も家事も、そつなくこなしてきただけに時間がありあまる。十年も仕事一筋で来たため、趣味らしい趣味もなく、仕事がなくなると頭が真っ白になりそうなほどだった。
ある日ネット検索でガーデニングを見つけ、ゆったりとした時間と自分を合わせるために始めてみたが、思いの外少しずつ植物が育ってくるのが楽しく、生命を身近に感じることに、ある意味感涙さえも流しそうなほど新鮮味を受けた。
結婚と同時に買った庭付き一軒家だけにスペースはある。花のみならず、野菜やハーブなど植えると、また収穫の楽しみが増え、収穫した食べ物で何を作ろうかと考えるだけで楽しくなっていた。
妊娠四ヶ月目から始めたことだったが、二ヶ月ほど経った頃、近所に住む六十過ぎの女性、多恵子に収穫物を御裾分けしたのが苦痛の始まりだった。
多恵子は植物に対しての知識が豊富で、ことあるごとに美莉亜に口出しするようになってきた。それも毎日のように庭を覗いてきて、肥料がどうなの、水遣りがどうなの、収穫後の土の整え方から、間引きや剪定の仕方まで口出ししてくる。
口出しするだけなのならまだしも、植物が可哀想、この程度の知識で扱ったらダメになる、こんな誰でも知ってることもやってないなんて等々、美莉亜のやり方を蔑むようになってきた。
ほとんど悪態すれすれの言動に、さすがの美莉亜も怒り、盾突いたが、そこからさらに多恵子の行動はエスカレートし、私が正しいことを教えてあげているのにあの人は自分の間違いを認めず逆に私を怒鳴りつけたのだ、あの人は少しストレスで苛立っているから気をつけたほうがいい、などと、近所の人間に噂を流すようになった。
それを止めるように説得しようとしたが、多恵子も「事実を言ってるだけですけど」と聞く耳持たない。
我慢の限界を超えた美莉亜は紳にも相談したが「その人の言うとおりにすれば、大人しくなるんじゃないのか?」と爆発しそうな心を軽く扱ったことに、ついに我慢していたものが噴出し、左頬を思い切り平手打ちをして涙ながら怒鳴った。
「あなたは穏やかな生活を約束してくれるんじゃなかったの!? 私確かにガーデニングとか素人だから間違ってることしているかもしれないけど、それは馬鹿にされて、周囲の人におかしいかのように言いふらされるまでのことなの!? こんな状態じゃ、私ちゃんと子育てできないかもしれない……」
初めて紳の目の前で激昂した美莉亜を長々と慰めてはいたが、紳の言葉は何一つ美莉亜には届かなかった。
そこから二人の間は何かぎこちなくなり、一枚薄い壁を挟んでいる状態になった。
妊娠八ヶ月目、河内藤園の藤が咲き誇っており、二人ででかけた。園内を歩いていると、ツイストパンのような幹に見事に垂れ下がった藤の木が目の前に現れた。
多恵子の一件は、あちらの家族に紳が話をつけてきて納まっていた。近所に住んでいる限りは、また言ってくるかもしれない不安が美莉亜にはある。
藤も見事だったが、美莉亜はねじれた幹に心奪われた。
複雑にねじれても、藤は上へと伸びてシャワーのように花を垂らしている。
――大事に育てれば、花は咲く。
「あなたも、頑張ってるんだね」
美莉亜は紳に振り向き「手を繋ごう」と、そっと手を伸ばした。
紳の手に触れた途端、赤ちゃんが美莉亜のお腹を蹴ったのがわかった。
参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2015/04/22.html