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背に生えた刃 4-3 【最終回】

 社会が長い年月をかけて醸成してきた固定観念が、人々に「結婚こそ幸せ」「男女の恋愛こそ自然」と暗示をかけてくる。それはマジョリティであればやすやすと乗ることが出来る、身の丈に合った幸せのかたち。多くの人々が、それに添えばある程度の幸せを享受できる、基本のかたちだ。
 社会が、そして友人の多くが望む幸せのかたちとは、マジョリティの描く理想であり、生まれたときから知らず知らずのうちに植えつけられたものだ。自分にとってそれが精神的あるいは肉体的に越境した先にあるものなのなら、自分はまごうことなきマイノリティである。

 マイノリティとは、マジョリティとは根本的に身の丈の尺度が異なる者たちのことだ。 

 そして少数ではあれど、マイノリティの中にも他者と共感しあえる幸せのかたちがやはり同様に存在する。
 少数派ならではの身の丈に合った幸せの中に、理想の自分を見いだせれば、比較的簡単に幸せへのレールへと乗ることができるだろう。社会の理解を得られるかは別だが、すくなくとも、理想の自分を生きられない不甲斐なさからは解放される。

 マイノリティからマジョリティへと越境を望むから、人は自身を責め、帰属できる場所を自らうしなうのである。
 自分がマイノリティであり、マイノリティとして生きていくことを受け入れることさえできれば、必ずどこかに、自分にも手に入れることができる、違う尺度の身の丈から生まれた幸せを見つけられるはずなのだ。

 そう、自分は思っていた。だからこそ、越境はしないと決めていた。自分ならではの幸せのかたちを探すことにこだわり続けてきた。

 彼女の思いは違ったのだ。マジョリティの描く幸せに自身の理想の姿を重ねる彼女にとっては、同じマイノリティとしてあなたの気持ちが理解できる、ともに語り合い我々ならではの幸せを見出そう、と誘い、手を引こうとする集団は、安堵出来る帰属場所ではなく呪縛でしかない。
 いや、もはやそれは恐怖だ。お前はその幸せにそぐわないと断罪するものなのだ。それは実に暴力的に、無慈悲にすら見える忠告であっただろう。誰にそのつもりがなくても、やはりそこには目に見えぬ刃が、背に生えた刃が存在するのだ。

「彼と生活をしてみて、初めて、わたしは普通の家庭をつくりたいんだっていうことが分かったの。子供はふたりくらいで、夫婦共働きで、毎日どちらもちゃんと定時に帰ってきて、夕飯を毎日みんなで揃って食べて、家族みんな仲が良くて。平凡でしょ、でもそういう普通の生活に憧れてるってことに気付いたの」
 それは自分も初めて聞く彼女の空想だった。
「一年の半分を外で過ごしている彼とは、築くのが難しい家族像だった。だから、無意識のうちに彼への拒否反応が産まれてしまったんだと思う」
「でも、最初は彼のそういう自由なところに惹かれたんじゃなかった?」
 結婚するずっと以前、芸術肌の彼のことを自分に語ってくれたとき、彼女は本当に誇らしそうに見えた。
「……そうなの」
「それなら……今、君が言った普通の家庭っていうのが、本当に君が望む理想の幸せなのかなあって、自分は思ってしまうんだけど。自由で才能あふれる人が好きなら、違うかたちの幸せもあるんじゃないかな」

 邪推と分かりながらも、自分はそう問いかけることしかできなかった。彼女は十分に傷ついたのだ。どんなかたちであれ幸せになってほしかった。彼女は苦笑した。
「わかる、つばさの言うことはわかるよ。なんだかんだ言って、彼のちょっと危なっかしいところとか、自由で才能があって、好きなことをして食べていけるレベルまで職業として昇華させられる辛抱強さとか、そういうところが好きだったし、彼のことは今でも変わらず尊敬してる。好きで尊敬もしている相手なのに、離婚したいと思ってしまうことに、最後まで本当に悩んだ」

 ふうっと息を吐いて、彼女は続けた。
「新しい相手を探そうとして、いろいろ出会いの場に行ったりしてるけど、やっぱり自然と惹かれるのは、夢を追ってる人だったり、周りとちょっと違う人ばかり。安定した仕事に就いていて、定時に帰っているような人と話すと、どうしても物足りなく感じてしまう。それじゃ彼と別れた意味がない、また同じことの繰り返しになるって分かってるのに、どうしようもないね」
「仕方ないよ、誰かに惹かれる気持ちばかりはどうしようもないからね……それなら、自分が惹かれるのはそういう人なんだって割り切って、目指す幸せを変えてみるのもいいんじゃないかな」
「多分、だめなんだと思う……わたしには常に、隣の芝生が青いんだと思うの」
 彼女は固く目を閉じた。

 自由に生きる人と、他では味わえない刺激的な毎日を過ごしているうちに、隣家の窓からこぼれる明かりのような、どこにでもある安定した生活が欲しくなる。安定した生活に慣れてしまえば、自由とスリルが欲しくなる。それは誰にでもある逡巡だろう。
「ないものねだりは、誰にでもあるものだよね。なのに、わたしは極端に離婚という選択肢を選んでしまうの。そこまでする必要があるのかって、どうして自分のないものねだりに相手まで巻き込んでしまうんだろうって。わたしの中だけで解決すべき話を、過剰に騒いで周りに迷惑をかけてしまう。わたしって、どうしてこうなんだろう」
「……」

 自分はまたしても何も言えなくなってしまった。彼女が自分をまっすぐ見ながら、涙をぱたりと落として泣いた、あの夜と同じように。自分で自分の問題の本質をわかりきってしまっている相手に、かけられる言葉などない。
 空きかけていた彼女のグラスに、ロゼを注いだ。今夜の酒はそれで最後だった。飲みきれないと思っていたはずのボトルを、知らないうちに本当に空にしてしまったことが、硬直しかけていた自分の意識に微かな和らぎをもたらしてくれた。「うわ、本当に空けちゃった」とボトルを示して彼女に笑いかけると、彼女は一瞬だけ微笑み、言った。
「それでもわたしは……自分で思い描いた理想の家庭をつくりたい。わたしにだって、そんな家庭を頑張ればつくれるんだということを、まだ諦めたくないの」

 理想の自分を生きる資格は、誰に与えられるものか。理想とは常に身の丈から生み出さなければならないものか。
 彼女の言葉は、自分の胸にその問いを突き刺した。
 果たして、自分の理想はそもそも妥協から生まれたものではなかったか。身の丈を故意に低く見積もり、叶いやすい程度の理想像を持とうと工作したものではなかったか。そうだ、自分は楽をして生きようとしてはいなかったか。幸せのために努力しようと、彼女ほどの熱意で生きていたか。

 越境することは過酷だ。境を越えた先の環境になじめない自分を責め、もはや帰る場所をもなくしてしまう自殺行為だ。自分はそう断じてきた。選ぶべき道ではないと。しかし彼女は違う。自分を叱咤し、帰る場所を捨てゆくからこそ、より強く理想を抱き、これからの過酷な道中を戦い抜く底力に変えることができるのだ。
 マイノリティからマジョリティへ越えていく、いや、あるいはそれは、マイノリティなどというくくりをそもそも壊す力だ。人類史上、多くのマイノリティが社会に権利を求めて行動を起こした、価値観に変革をもたらしてきた誇りある底力だ。

 自分がこれまで、彼女と夫の関係を完璧なものと感じていたのは、理想の夫婦だと感じていたのは、自分の現在の環境をより昇華させたかたちだったからだ。
 子を持たず、それぞれが独立した仕事と生きがいを持ち、協力すべきところで協力し合う、人間が生きていくための社会の第一のセーフティネットとしての役割を、責任もって果たし合う。
 それが自分にとっての「理想の家庭」だった。

 彼女が捨てた幸せのかたちが、まさに自分の理想とする幸せのかたちだった。だからこそわざわざ越境を目指す彼女を理解できなかった。これだけの幸せを得ていながら、捨てるくらいなら自分にくれと、どこかで彼女に嫉妬していた。これが幸せの最上のかたちとして、自分たちマイノリティに与えられた資格なのだと、身の丈にそぐわないものなど諦めろと思っていたのだ。誰よりも力強く生きようとしている彼女に向かって。

 ……彼女は感じていただろうか。察していただろうか。自分が、まるで彼女の理想を生きる資格を与える存在であるかのように、傲慢に満ちた偏見で彼女と接してきてしまったことを。

 気付かなかったと言えるだろうか。己の背に生えているものが、羽ではなく刃であったことに気付かなかったと、言えば赦してもらえるのだろうか。

 動揺したまま自分が黙りこくっていると、最後の酒を飲みほした彼女が言った。
「さあ、急いで新しい人見つけなくちゃ!普通で、安定してる人ね。つまらないなんて言ってないで、付き合ってみたら楽しいかもしれないし。もう、三十路もとっくに越えてるんだから、焦らなきゃ間に合わなくなっちゃう。つばさも、頑張ろうね」
 そう言って、ナプキンで口元を拭いながらグラスを置いた。
 言葉をうしなっている自分を置いて、伝票を持って立ち上がった彼女の背に、ぎらりと光るものが見えた。幾重にも細かく連なり、ぬらりとした表面に静かに光を湛える。ステージを照らす金色のスポットライトさえ、憂いを秘めた銀色の反射光に変える。それぞれの切先に向かって、氷から水が滴るように、光を垂らす無数の刃先。

 そう、彼女もまた、背に刃の翼を生やしていたのだ。

 店を出ると、街は雨上がりの様相を呈していた。水と土の匂いをまぜこぜにして立ち上る湿気と、やけに澄んだ空気に映えるネオンライトが、一気に現実として自分に降りかかってくる。これは、夏の序章だ。
「もうすぐ、夏が来るね」すこしだけ声の音量を上げて、彼女に言った。
「そうだね!つばさは、この夏の予定は?」
「家でゆっくり過ごすよ」
 彼女は笑った。笑い声は、間近を通り過ぎる車のクラクションの音に紛れてほとんど聞こえなかった。それでいい。声など、聞こえすぎるから惑わされるのだ。

 互いの声が聞こえづらいまま、「楽しかった、ありがとう」とはっきりと口を動かして思い切り笑って見せ、大きく手を振って別々の電車へと向かった。
 ひとりになり、携帯を見るとメールが届いていた。十五年来の友人の彼女だ。また食事の誘いだった。明るい文面にたくさんの絵文字。元気そうだ。
 すぐにOKの返事を送る。今度は、彼女の大好きなアイドルのDVDも、それに自分のおすすめの映像作品もたくさん観よう。背後に潜む現実には、その暗さに負けないほどの明るい嬌声を覆いかぶせてしまえばいい。嫌なことはすべて預け、本音を隠してくれる享楽は世の中には吐いて捨てるほどある。
 画面に溢れる非現実に目も心も奪われながら、デザートの最後の一口を食べきろう。

 喧騒の季節まで、あとすこし。街に溢れる色とりどりのライトを颯爽と通過して、電車は夜の街を駆け抜けていった。

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