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泡沫 3-1

 現実世界で出会うことと、仮想空間をともに生きること、どちらが本物だと誰が決めるのだろう。
 たとえば、トランスジェンダー。身体は女性として生まれ、心は男性として生きる人々にとってはどうだろう。心と体の性の違和を自らの胸の内のみに留め、学校で、職場で、家庭でも女性と分類され、男性との結婚そして出産を経る人は多く存在する。
 異性婚も出産も自ら選んだ彼らは、もはや「心が男性である」という可能性を誰からも認識されることはない。自ら選んだからだ。「性別違和があるのなら、抗うはずだ」と、戦うことを求められていることの裏返しで。

 もしも彼らが、バーチャル空間で男性として過ごしていたら。仮想空間で男性のアバターを使い、男性用に用意された衣服を着て、男性らしく見える言葉づかいでそこにいたら、現実と仮想空間と、どちらが嘘だといえるだろう。
 彼女が愛した「彼」、パソコンの前に座った途端に、性のスイッチを切り替える彼。容姿を変え、言葉づかいを変えてもなお、彼が彼女に語ってきた言葉はすべて彼の真実だ。彼が彼女に抱いた恋が、パソコンを離れ性を切り替えた後に、もしも失われてしまったとしても。仮想と現実を切り替えるように、恋愛と友愛が切り替わるとしても。

 仮想か現実か。現実に切り替えることで、手に入れたはずの大切なものを失わなければならないのなら、その喪失が身を削ぐ痛みを伴うものなら、それはむしろ現実にこそ嘘があるということだ。
 真実とは本来、最も居心地の良いものであるべきものだ。真実のありかが仮想と現実のどちらにあるのか、その居場所などは取るに足らない些細なことだ。
 彼が仮想空間で男性として過ごしたのは、「嘘」ではなく、現実との間の取るに足らない「差異」だ。誰もが心に多少は持つであろう些細な性の揺らぎによって、彼が生み出した現実と仮想との小さなずれ。
 そのずれが、かけがえのない何かをふたりの間にもたらしたのなら、その差異こそが真実なのだ。彼が現実と仮想をすこしずらしたことが、ふたりにとっては正解だったのだと、そう信じずにはいられない。

 職場でのある異変に気付き始めたのは、空梅雨と言われたあっという間の季節が過ぎて、しかしまだ夏というには心もとない暑さが始まったころだった。
 スーツのジャケットを脱いでも、半袖シャツを着る社員は意外と少ない。長袖をたくしあげて、「ノーネクタイだから、まだましなほうだよ」と男性は言うが、本格的な夏が来たら去年と同様にどうせへばるのだと思うと、女性として働いていて得したな、などと思ってしまう。女性服の、セミフォーマルの自由度は数少ない特権だ。
 紺やグレーのセットアップは、それなりに引き締まったフォーマルに見えるが実は最も着こまずに済む便利な軽装で、自分を含め外出機会の多いスタッフの中では大流行している。が、やはりオフィスに出勤すると、圧倒的多数を占めるのはシフォンブラウスでふわふわと飛ぶように社内を歩く女性たちだ。

 その、ふわふわの彼女たちの目が、自分の前を通る時に、きりりと引き締まる瞬間に、一日に何度も遭遇するようになった。自分を中心とした半径1メートル前後に彼女たちの視線がよぎると、急に険を増すのだ。
 初めこそ背筋に悪寒が走るほど不気味に感じたが、暑苦しい長袖の男性社員やセットアップで颯爽と歩く女性社員は、何も変わらず気が抜けた顔で「つばささん、暑い」だの「つばささん、忙しい」だのと弱音を吐いてくるので、一部の社員からの悪意など気にしなくなった。
 人の視線など気にしない、とは言わない。自分がどう見られるのか、男性として、女性として、またはどちらでもない中性として、相手の目にどう映っているのか。それは自分にとっては、「自己表現度」を測ることができる唯一の指標でもあった。人の目は大切だ。しかし悪意ある視線は気にしたところで良い事などひとつもない。

 その日も、コピー機の前に群がるひらひらの素材のかたまりから、違和感ばかりの棘のある視線をちらりと感じながらも、特に気にせず空いているコピー機の前に立ちカバーを上げた。
「何なの、本当」不意に、誰かが険のある声で呟いた。ちらりと彼女たちを横目で見ると、全員の目が自分に向いていることに初めて気付いた。その光景の、現実離れした、まるでホラー映画のような不気味さにぞっとする。
「えっ…どうかしましたか」
 喉が引きつり、声が震えた。
 彼女たちはそれを笑っていると捉えたようだ。
「何、笑ってるんですか」
「本当に感じ悪い」
 彼女たちのうち、社歴が最も長いひとりと、気が強いのか礼儀に欠けるのかどちらだろうと普段から周りを悩ませている若いひとりが、立て続けに声を上げた。その直後、実際に言葉を発したふたり以外が、自分からさっと目をそらした。
 それを見た途端に、自分の悪寒が静かな怒りに代わっていくのを感じた。このふたり以外は、相手にしなくて良い。そう思うと力が抜けていき、言葉を投げてきたふたりのみに向き直った。

「何かありましたか」
 ふたりが一瞬怯んだ。一気に畳み掛ける。
「何かおっしゃりたいことがあるんですか。あるなら今言ってください」
 通りがかりの男性社員が、面白いほど分かりやすくびくっと震えているのが視界の端に映った。全く、勤務時間中に何に巻き込まれているんだろうと自分に呆れる。
「つばささん、わたしたちの悪口言ってますよね」若い方が言った。
「えっ?」中学生か。悪口という単語を聞くのも久しぶりだ。
「知ってるんですよ、こっちは」
「今の言い方からもわかりますよ、完全にわたしたちのこと馬鹿にしてますよね」
「何の話ですか」
「だから、わたしたちのこと、人の不幸を面白がってるだけだって思ってるでしょう」
 じれったい、といった顔でひとりが言った。もうひとりが「それ!」と同調する。
「関わらないのが一番って、裏で言ってるんでしょう」
「ひどくない?よく知りもしないで、わたしたちの人間関係に余計な口をはさまないでくれませんか」

 そこまで聞いて、大体、予想はついた。ああ、あのことか、と腑に落ちた様子が顔に出てしまったのか、それまで黙っていた他の女性達も、口々に声を上げ始めた。
「いつも単独行動してるつばささんに、女子の何がわかるんですか」
「しかもそれだって、自分から距離置いてるくせにね」
「こっちは、中途の人も仲間に入れてあげる気だってちゃんとあるのに。一度でもグループに入ったなら、その後で何言っても別にいいですけど、一度もグループに入ってないくせにわかったようなこと言ってるの、おかしいと思います」
「それこそ社会人としてどうなんですか?職場で人間関係築けない人とか、普通に引く」
「確かに!」
「そうそう、自分の方がよっぽど、あれじゃない?」
 彼女たちは、至極感情的に、しかし抑えた声で口々に囃したてている。職場だからと一応配慮しているつもりなのだろうか。冷静に冷静に、と自分に言い聞かせ、出来る限り客観的に彼女たちを見つめ返すが、向けられる悪意にどうしてもひるんでしまう。

 彼女たちの声が一端止んだ。意外と早く、文句は言いつくしたようだ。
「誰から何をどう聞いたのか知りませんが」ふう、と一息ついて続けた。「何か誤解があるみたいですね。普段のコミュニケーション不足のせいで、誤解が生じてしまったのなら謝ります」
 彼女たちは憮然とした表情で黙っている。
「なるべく早く、妙な誤解が解けるようにこちらも努めますから。どこからそんな噂が立ったのか、ひとつだけ心当たりがあるのでまずはそこを当たってみます」一度、分かりやすいようにオフィスエリアに目を向けてから、彼女たちにもう一度向き直った。「問題ないですか」
 それぞれの態度がまたふたつに分かれた。最初に言葉を発したふたりが、興味のない風を装いながら「どうぞ、ご勝手に」と言う。他のメンバーは、強張った目をちらちらと互いに見合わせている。「まずいことになった」といった顔だ。この後槍玉に挙げられるであろう彼女を、今さら気遣っているのだろうか。しかしもう遅い。
「では、そうします」と言って、再びコピー機に向き直った。

 久しぶりに感じる怒りが、全身の細胞をぴりぴりと刺激するのを鮮やかに感じていた。それは負から生まれているにも関わらず、どこか懐かしい、若返ったような爽快感ともいえる感情だった。
 そしてその感覚は、オフィスエリアから自分たちの様子をうかがっている社員たちの中の、ひとりが発する緊張感を明確に捉えた。

(つづく)

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