孑孑日記㉔ 物書き好きの作文嫌い

 この間まで忘れていたのだが、小学生のころ、作文が嫌で嫌で仕方がなかった。読書感想文も苦手だった(いまも、本の感想とかは苦手である)。就活の作文試験の作文とか、あなたの体験を教えてください系の設問に苦慮してようやく思い出した。
 当時は正直に思ったことを書いたら怒られたので(いまでも怒られる)、怒られない範囲でやろうとしたら何を書いていいかわからず、そのうち下手に意見を口走ると場の空気を乱すことを学び、原則として自分の感じたこと等を表現しなくなった。だから感想文等の作文、手紙なんかは書けなかった。いまでもやはり書くことはできない。
 その点、小説やレポート、報告や記事や卒論はそれに比べてはるかに書きやすかった。大学に入って、それを僕でもしていいんだとようやくわかったからだ。そしてもうひとつ大切な理由として、これらの形態の場合、自分のことに触れなくて済む、ということがある。
 僕は自分が生きているのが嫌だ。「こいつは何でいまだ生きていやがるんだ」としばしば思うし、死んだあとの想像だってする(しかし果たして思ったように友達は悲しんでくれるかな、あまりに尊大な、自己憐憫と自己陶酔!)。幸せになれるとは思わんし、他人から好かれるわけがないと思ってる。だから「そんなあなたのことを話して」と言われたって、何を話しゃいいのかわからんのだ。誰が聴きたいんだ、俺のことなんて? と戸惑うばかり…… 自分のことを話すなんて、自傷行為に他ならない、しかもまったく望まぬ、苦痛しか伴わないことだ。ほんとうに嫌なんだよ。
 だから小説を書き始めたとき、すごく書きやすかったのだ。ぜんぜん苦痛でもないし、うまくできなくても滅入らない。自分のことを話さなくて済むのが、こんなに精神衛生上よいとは知らなかった。学部のレポートもそうだ。こちらはむしろ自分のことなんかいらんのだからありがたいったらありゃしない。だが作文は…… 自分の経験と絡めて書くと評価がいいなんてあんまりだ。それがないからこそ、僕は書くことができていた。自分の過去のほとんど、特に20歳以前の記憶は、概ね暗澹としていて、ぶり返してほしくないものだ。特に野球部の話は、夢に見ると悪夢になる。そんなだから、自分の経験に基づき絡めて書く作文は大嫌いだ。たまたま得意だった(いやこれも自惚れだ……そしてこう思って()で補足すること自体、強い自己愛の現れなのだ)文章力で誤魔化しているが、やはり無理がある。とかく自分を語らなきゃいけない作文なんて、僕には単なる苦行でしかない。自分は誰にも見られるに値しない人格持ちなのだと、自分を絶望させるイベントに他ならないのである。

(2023.8.17)

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