孑孑日記㉓ 大江健三郎の「晴れ上がり」

 大江健三郎の作品のなかでいちばん好きなものはどれかと訊かれたら、僕は『性的人間』と答える。青年たちが煩悶を、飲酒や芸術活動などで昇華/消化しようとしつつも、実際にはそれを上から糊塗して覆い隠しているだけという、まったく無意味な、閉塞のなかにいる若者の姿を実に巧みに、そして力強く描き出しているところがたまらなくすばらしく感じられるのだ。
 そしてもうひとつ、『性的人間』が好きな理由がある。これは『不満足』も同じなのだが、最後の部分がすばらしいのだ。『性的人間』の末尾、映画作りに失敗し悶々としている主人公Jは破滅的な痴漢を実行し、駅員や乗客に捕まって連行される(だったはず)。このときJは涙を流していたが、それは罪の意識からの涙ではなく、ああよかった、これでぜんぶおしまいなんだ、という安堵の涙である。また、『不満足』では主人公鳥(バード)を含む少年3人は追跡していた精神病院からの脱走者が縊死しているのを発見する。ここでそれまでの鳥(バード)一行の捜査が無意味に終わったことが示される。そして夜が明け、ひとりになった鳥(バード)は、勤めに出る大人たちとは反対方向に進む。この朝のシーンの感動的たるや尋常ではないが、それはさておき最後この小説は「大人たちの朝だ」で締めくくられる。
 このふたつの作品の最後の共通点は、どちらも主人公が「敗北」を喫している点だ。Jはそれまでの煩悶を破れず破滅的な痴漢で終焉を迎えるし、鳥(バード)は夜という、真っ当な大人のいない不出来な子どもたちの時間が終わり、大人たちの朝に巻き込まれていく。彼らが内に抱えていた自意識が衆目(これも大事だ、Jは電車で痴漢をはたらいたが、取り押さえたのは周りの衆人であり、鳥(バード)と反対方向に向かったのは彼らを普段取り巻く大人たちだ)によって取り崩されるのだ。そしてそれを彼らは、まるである種の救済のように感じている。この敗れ去ったにも関わらず、さも救われたかのように感じているこのシーンを、僕は「晴れ上がり」と表現したいのだ。
 誰かが言っていたが、初期の大江健三郎には「自罰願望」があるらしい。なるほど納得できる。『性的人間』と『不満足』のラストはまさに、「自罰願望」が成就した作品に相違ないからだ。かねてよりの願いが成就したのだから、そりゃ当人も救われた思いがするはずだ。読者にも、自罰願望の成就を見ることで救われる人がいるのではないか。少なくとも私はそうであった。昔、夢で『夢をかなえてドラえもん』を聴き泣いたことがあるが、自分とかけ離れた、夢いっぱいなものを見せつけられ、自分の劣等性をまざまざと感じさせられた。しかしそれを突きつけられることで救われることもあるのである。ああやっぱり俺はダメな存在なんだ、ハハハ、と理想を諦め、現実に向かっていける。『不満足』の最後は、まさにそういうことだっただろう。自意識、理想、憤懣を打ち砕かれて主人公たちは自らが世間に罰せられたことを知る。そして彼らは彼ら自身を諦め、精神的に死んだ人間として、生き直すことになる。この諦めが「晴れ上がり」となり、たとえば僕の青臭い心を覚ますのである。

(2023.8.16)

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