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31.有馬かなと役作り

すでに、26.感情演技-感情の解放とコントロール- でも演技については触れていますが、今回も演技、特に「役作り」について、心理学的な観点からみていきたいと思います。

役作り

役作り、演技については完全に素人ですので、それを差し引いてお読みください。感情演技については上記の記事に譲って、別の観点から描きます。

推しの子120話より

自分の中にもいろいろな「自分」がいます。それは、多重人格という意味でなくとも、「親と話す時の自分」「恋人と話す時の自分」「友人と話す時の自分」「仕事で一対一で話す自分」「人前でスピーチする時の自分」が、それぞれ違う「自分」かのように感じたことはありませんか?

これらの「自分」のことを、「自我状態」と呼びます。私たちは自分は一人しかいない、自分の性格は〜であるというふうに思っていても、実は自分でも気づいていない多面的な「自分」がいたりするのです。

その多面的な「自分」=「自我状態」は、それぞれのシチュエーションやかかわる相手によって自動的にバトンタッチして出てくるような感じです。それぞれの自我状態は、多くの場合記憶を共有していてシームレスにつながっているため、あまり深く考えることがない人の方が多いでしょう。

役は作らなくても出てくることも

たとえば、筆者の例でいうと、何年か前に引越し業者のドライバーさんとやりとりした際に、「いつもの自分よりも強そうで堂々としている自分」で話していることに気づきました。その方は、引越し作業を仕事にしている筋肉が隆々とした方でした。言葉遣いも、声の大きさや高さも違います。意識的に「なめられないように」と思って演じたわけではなく、そういった自分の一面が出てきました。

もちろんその時の記憶がないわけではありません。自分でその方に応対しているのです。その時に思ったのは「久しぶりに出てきたな」ということでした。普段の生活の中であまり接することのないタイプの方だったのですが、スポーツをしていた頃や、大学生で引っ越しや搬入搬出のアルバイトをしていた時には頻繁に出てきていた気がします。

話を「役」「演じる」ということに戻してみましょう。「役」は作るもの・演じるものでもありながら、自分の何らかの経験に紐づいた役である場合、上述のような「(別の)自我状態」が自分の全面に出てきて、「役」とその自我状態が融合することで、本物らしさが表れるのではないかと推察します。

推しの子136話より

有馬かなは、ニノと同じような立場(同じB小町で、輝く別メンバー(アイ・ルビー)に嫉妬している立場)だったからこそ、感情演技が乗りやすく、役にはまりやすかったのではないでしょうか。

東京ブレイドでの"つるぎ"の演技

有馬かなは、「目を焼く程に眩い太陽の様な巨星(スター)の演技」で、子役として一世を風靡していました。

推しの子63話より

しかし、子役時代に大人がみんな去って行ってしまい、仕事をもらうことが難しくなってきたことから、「気に食わない事も全部飲み込んで、生き延びる為に、私は他人に合わせる演技を覚えた(推しの子62話)」と、あくまで舞台装置(受け)として重宝がられる道を選んできました。

推しの子61話より

アクア(刀鬼)が、姫川大輝(ブレイド)と対比構造を作ることで、真正面から演技の実力を比較されることを避けたように、有馬かな(つるぎ)も黒川あかね(鞘姫)の「攻めの演技」に対して「受けの演技」をすることで、作品としての収まりがいいようにしたのでしょう。

この「対比構造」的に有馬かながしていた演技を「対立構造」として、魅せ合う演技に引きずり出したのが、アクアと黒川あかねなのでしょう。どちらが良いというのではなく、有馬かなという役者にとってこれまで封じ込めていた輝く演技というオプション(選択肢)を、この東京ブレイドという舞台において復活させたと言えるかもしれません。ということで、演技の門外漢として、これ以上の言及は避けたいと思います。

推しの子63話より

以上、今回は有馬かなの演技を題材に、演技について門外漢の心理士が語ってみました。演技では身体や頭(認知)だけでなく、役と役(人と人)との関係性、そして自分の現在(いま)の感情や過去の経験も用いられます。演技というものの奥深さは計り知れません。

心理的アプローチでも、心理劇(サイコドラマ)という即興劇を行うものや、ゲシュタルト療法という何かに今ここでなりきってする心理療法がありますが、演技は単なる仕事ではなく、人としての営みを「自分」を最大限に利用して表現するものと感じています。

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